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連載 | #8 KAI-YOU COMIC REVIEW

『進撃の巨人』完結記念ガチ考察座談会【加筆・ネタバレ全開】

──という座談会が行われたのが『別冊少年マガジン』の最終話掲載直後の4月。

およそ2ヶ月が過ぎ、ついに刊行された最終巻。たった数ページの加筆ながらその内容に衝撃を受けた一同は、再び集まって緊急座談会を行いました

【緊急】34巻加筆で明らかになった、ミカサの結末【追加座談会】

読者はきっと「まだしゃべることあるの?」ってなると思うんですよね……。

僕らも同じ気持ちなんだけど、それでも単行本で重大な加筆があって、それについて語らずに俺たちは『進撃の巨人』を終わらせられない!

そうだそうだー!

その通りだー!

えっと……今回は司会のうぎこさん、さすがにあきれて追加座談会では司会を拒否したため、今日はメンバーの暴走を止める人が不在ですね。不安……。

僕たちだけでもちゃんとやれるってところを見せてやろう!

さて、『進撃の巨人』最終巻の最終話(「あの丘の木に向かって」)の加筆についてですね。

ひとつは最終決戦直後、始祖ユミルにミカサが語りかける場面が挿し込まれた2ページ。もうひとつが、ミカサと世界のその後が描かれた4ページ

物語をわかりやすくするという意図だろう前者はともかく、後者は衝撃的でしたね。みなさんどう思いましたか?

連載時点の最終話を読んだ僕たちが出した結論のひとつは「ミカサは愛する人を自分の手で殺すことで、孤独と引き換えに自由を獲得した」だったじゃないですか。

でも、加筆部分を加味すると、ラストで描かれているテーマの受け取り方はだいぶ違ってきますよね。

ミカサが始祖ユミルに話しかける加筆シーンでは、ミカサは、ユミルがフリッツ王に囚われてしまった大元の理由である彼への愛情を「長い悪夢だった」としながらも、同時に「あなたに生み出された命があるから/私がいる」と、愛を肯定する心情を吐露している。

それがもう一つの加筆部分にも効いていて、単行本の方では、結局ミカサは、ひとりではなく誰かと再び生きていく道を選んだという風に読めるようになっているんですよね。

そうなんだよね! そこにビックリした。孤独に一人で暮らしていくのかと思いきや、くっついてるんですよ!

後ろ姿などから、巷では「相手はジャンじゃないか」って言われていますね。


相手が誰かなんて、どーーーでもいいんだよ! ミカサが幸せな人生を歩めてよかったと思う反面、そもそも彼女は自由なんて求めていなかったんだなということがわかりましたね……。

それは最初からそうじゃないですか?

エレンは自由を求めていたけれど、ミカサは彼の隣にいることができたらそれだけでいいというキャラクターだった。

エレンを自分自身にトレースしてきた僕としては、やはりエレンの隣にいてほしかったので、あの結末は描いてほしくはなかったというのが正直な感想ですが…。

ただ、「ミカサに幸せになってほしい」っていう彼の願いは叶いましたね。

ミカサが本当に望んだ人は、隣にはいないけどね。

都築くんの主張していたエレンとミカサのラブストーリーとしては、美しくはないかもしれない。

多くの読者もエレンとミカサがくっつくことを望んでいたし、物語もそう仕向けていたけれど、加筆でも冷酷なまでに現実を描いていましたね。

それこそ戦後においてはあった話ですしね。愛する人が亡くなって、他の誰かと結ばれるみたいなのは。

ただ、ミカサがずっとエレンのマフラーを最期まで巻き続けていることが、鳥の演出と同軸諌山先生の優しさですよね。

他の誰かと生きていくことを選んだけど、エレンへの愛は貫き通すっていう演出は上手いなって思いました。

確かに。結婚してからも亡き人を想うってことはありますからね。

そういえば、ミカサについては考察がもうひとつあるんですよ。

加筆部分で彼女はエレンの墓にバラを手向けているんですが、バラって本数によって花言葉が違うみたいで。1コマ目の4本だと「死ぬまで気持ちは変わりません」、2コマ目の1本だと「一目ぼれ」「あなたしかいない」って意味らしい。

うーん、なんか美談かのように話がまとまりそうだけど……僕は、ケツの座りがあまりに悪い感じがして…。

他の誰かと結ばれて、しかも子孫を残してなお、埋葬される最後にエレンのマフラーを巻いているというのは流石に……。

いや、愛はそんな簡単なものじゃないよ、新見さん。

愛は誰か特定の一人だけに向けられるものじゃないです。愛は、複数性を持ち得る。

既婚者が言うと説得力が違いますね。

既婚者が単身者に愛の複数性を諭すのおかしくね……🤔?

『進撃の巨人』で描かれた自由と幸せ

一番の問題は、その次ですね。ミカサの死後、戦争が始まっちゃってるんだ! 新見さんの主張していた、アルミンたちの「物語る力」は、結局人類の争いを止められなかったという結末がはっきりと描かれている。

しかも、パラディ島は壊滅して、エレンを埋めたと思われる丘の木だけが残ってしまう。

さらに時が経過し、ポスト・アポカリプスのようになったパラディ島で、子供と犬が大木に成長した丘の木を発見するところで物語が締められる。

北欧神話におけるラグナロク(終末の日)では世界樹・ユグドラシルだけが最後焼け残るんですが、それを彷彿とさせる演出でしたね。

確実に意識していると思いますね。

その大木が「有機生物の起源」のいた巨大樹にそっくりで、「この子がまた巨人になってしまうのではないか」みたいな不穏な終わり方でしたが、どう思いました?

僕は「まったく幸せに終わらせてくれないな」って思いましたね。この加筆によってさらに救いがなくなった。

『進撃の巨人』はある種残酷でもある“世界の理”を描く作品だったんだと痛感しましたね。

結局戦争は止められなかったし、巨人の力さえも失くせなかったとも取れる。エレンたちの努力は無に帰して、物語の構造がウロボロス的に閉じてしまった

この加筆で結末の印象が180度変わりました…。

ちょっと待ってほしい。

そもそもアルミンたちは「争いはなくならないけど、物語ることで何かを変えることがあるんじゃないか」と言っていた。

少なくとも、アルミンたちが都築くんの言う“世界の理”を物語ることで、ミカサが死ぬまでの数十年間の平穏を手にすることができたと捉えることもできる。そして再び戦争が起きてしまったとしても、その先の未来が現在よりも良くならないとは限らないでしょう。

人類は同じことを繰り返しているだけで結局救いがないって結論を出すのは早いと思うんだよね。

同じところを回っているように見えて、螺旋のように、少しずつよりよい未来に近づいている可能性がないとは言えない

でも、戦争が起きたってことは、そこに戦勝国がいて、戦敗国がいて、何らかの支配構造だって発生している可能性があるわけじゃないですか。

それらに目をつむって、戦争が起こってしまってなお未来に向かって前進しているという解釈は無理筋じゃないかなとは思うけどね。

それに、新見さんの主張は、ジークのように「人類が救われるには死ぬしかない」みたいな考え方にも陥りやすいと思いますけどね。「生命活動がそもそも不幸の螺旋になっている」という風にも考えられるので。その螺旋をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるか、真逆だけどほんの少しの差でしかない。

逆に言うと、こういう結末が待っていたのだとしたら、ジークのようなそういう考え方も完膚無きまでに否定されるべきものでもなかったのかな、と思えてしまうな…。

アルミンたちが手に入れた仮初めの平和に意味があるんだったら、巨人大戦を終結させてエルディア人たちを壁の中に閉じ込めて“楽園”を築き上げた「壁の王」のやり方も、肯定せざるを得なくないですか?

エレンや調査兵団たちは、その外に出るために戦い続けてきた訳なのに…。

その通りだとは思う…。

事実、アルミンが生きることの意味を見出したのは、壁の中にいたある日の思い出だったもんね。3人で丘に向かってかけっこをしていたあの瞬間。

だから最終話が「あの丘に向かって」というタイトルである意味もより際立つというか。閉じ込められていたとしても、仮初めだったとしても、生きることの価値が失われる訳じゃない。

だからむしろ、自由の価値を否定している側面さえある。

自由を求めて進み続けたエレンの物語として見たときは、改めてあまりにも残酷すぎるって思っちゃいますけどね。

他人の命も自分の命も犠牲にして得た結論が、「自由じゃない方が幸福になれる」っていうのは…。

エレンのような生き方もあってもいいんだけど、それが必ずしも幸福な結末にはならないっていうことですね。

実際、現実の社会も「決定権を他人に委ねたほうが幸せになれる」って方向に振れてるし。AI技術の発想なんだけど、『幸福な監視国家・中国』という本でその辺は語られていました。

加筆部分を受けて作品のテーマを考えた時、人と人が争うことで生まれる悲劇を連鎖させないというのが裏側にあるんだと思う。

自由を求めるのではなく、家畜が一番幸せってことですか。

残念ながらそういう価値観が、今は蔓延していってます。

でも、エレンや始祖ユミルはそれに「嫌だ」と抗った。それはそれで、とても人間らしいと思います。

誇り高い生き方と、自分が幸せであるかどうかは、別ですからね。

「進撃のスクールカースト」で与えられた救い

単行本という意味で言えば、ふざけたオマケコーナーだと思われていたあの「進撃のスクールカースト」に、諌山先生のメタ的なメッセージは込められていましたよね。

パラレルワールドかと思っていたら、本編の未来を描いたエピソードだったことが最後に明かされたじゃないですか。読み方としては邪道かもしれませんが、登場人物たちの血を受け継いだと思われるキャラたちが平和を享受していた。

あれは完全にメタフィクションになっていましたよね。

「しかし信じらんねぇよな 100年前 本当に巨人がいたなんて」というセリフがあったよね。戦争は起きたけど、そのずっと未来で巨人の力は手放され、映画を楽しめるほど平和に近付いているという風に読むことは可能ですよね。

「進撃のスクールカースト」ではあくまで本編が一つの長い映画だったかのように描かれていて、それもやっぱり物語る力によってかつての過ちを伝えているというメッセージとも符号している。継承の物語になってますよ。

本編ではないけどね! ただ、ここを含めたら確かにポジティブな結末だと言うこともできるよね。

ミカサとアルミンが言い争っているところでの、エレンのセリフがいいですね。「お前らと映画観れて楽しかったよ…」って(涙)。

このエレン、完全に本編におけるアルミンですよね。入れ替わってる!

ラジオドラマみたいなものですからね、「進撃のスクールカースト」。

ただ、本編でエレンの記憶があふれた時に、めちゃ小さい一コマにスクールカーストらしきコマが映っていて、どうやらあれはどこかの時間軸の話だろうということにはなっていたんですよね(第120話「刹那」)。

まあさすがに小ネタのつもりだったんだと思いますが。

そうなんだ! でも、もしそこまで思い描いていたとしたら、やっぱりとんでもない物語だったと言う他ないですね。

あのひたすらバカバカしくて楽しい巻末のオマケが、まさか最後に救いを与えてくれるとはね。

でも、どうして単行本でここまで明確な結末を加筆したんですかね。それだけが疑問でした。

なんでだろうね……。加筆によって、作品としては誤解なくきっちり完結したけれど、物語としては揺らぎがなくなってしまったようには思う。

もちろんそれが悪いという話ではまったくないし、完成度という意味では高くなったんだけど。

構造としては閉じてしまいましたよね。あそこからまた新たに『シン・進撃の巨人』が立ち現れても本当におかしくない終わりでしたから。ある意味で、完成としては美しいのかもしれません。

そうだね…。加筆については色々思うところはあるけど、その理由を想像するのはもう作品を通した考察でも何でもないので、諫山創と編集部のみが知るんだと思います。

『進撃の巨人』はマジとんでもない漫画だった!

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