『進撃の巨人』誰が「自由」を手に入れたのか?
続いて、新見さんが提案してくれた「物語における運命の向き合い方」です。これはどういうことですか?
『進撃の巨人』は、「人は運命にどう抗うか」というテーマがずっと通底していたと思うんですよ。それこそ、1話でエレンは「一生壁の中から出られなくても…飯食って寝てりゃ生きていけるよ…でも…それじゃ…まるで家畜じゃないか…」と言っている。
都築くんが挙げてくれた「みんな何かの奴隷だった」っていう台詞も重要。最終回の掲載号で、もう一話、諫山創自身が選んで特別に掲載されたのが、その台詞が登場した69話「友人」だったこともそれを表している。それを踏まえると、「結局エレンは自由を手に入れたのか?」ということが、命題になると思うんですよ。
言ってしまえば、エレンは大切な人たちを守るため、自らが手を汚す役割を受け入れた。彼は自ら進んでその未来を選択したようにも見えたけど、実は、始祖の力によって、虐殺の未来を知っていたという話だったじゃないですか。彼は、自分がそれを選択する未来を知っていた。それって、すごい決定論的に見えるんですよね。
運命に抗っていなかったってことですか?
そう。エレンは結局、そうと決められている自分の運命をそのまま受け入れて、その先を他の人に託してしまったように僕には見えてしまったんですよね。
だとすると、本作において一体誰が自由を手に入れたんだろうか、という問いが立ち上がります。
『進撃の巨人』は、最終回まで本当に救いのない話でしたよ。誰も自由を手に入れてないように感じた。
ラストも、パラディ島のエルディア人たちが生き残った人類からの報復を恐れて、軍備を増強していたじゃないですか。
戦争は無くならないし、差別も無くならないし、人間が生きることによって「負」はどうやっても付きまとうと。
いくらやっても終わらない、残酷な世界っていうのをまざまざと見せつける終わりだったのかなと。
だから「すごい良い話だった……」みたいな感想が最終回の掲載日に結構ネット上であふれてて、すごい違和感があった。
「自由」とは、多くの選択肢の中から選べる状態ですよね。そういう意味で、エレンは最も自由に肉薄してたと思いますけどね。
エレンは、ミカサとすべてを捨てて逃げることもできたと思うんですよね。実際、別ルートを選んだ場合みたいなシーンも、最終話の直前に描かれましたし(第138話「長い夢」)。
そう、2人はすべてを捨てて逃げることはできたし、僕はやるべきだったと思う。
それを考えると、選択肢は存在したんだから、エレンは自由ではあったんじゃないかなとも思えて。
そうだね、あの結末もエレンが望んでやったことだからね。
意思は何にも縛られてないというか、その未来を見た上で選択したことだったっていうことですかね?
みんな思い出してくれ!! すべてが終わったあとの、最終回のエレンの告白を。
「仕方が無かったんだよ…」って。エレンにとっては、過去も未来もなくて、すべて同時に存在するものだったから、頭がめちゃくちゃになってしまったんだと言ってたじゃないですか。
確かに、そうじゃない未来もあった。けど、エレンには選びようがなかったという意味であれは選択肢じゃない。本当はこうであってほしかったという祈りが見せた“夢”に過ぎなくて、結局エレンはこの運命を受け入れるしかなかった。大切な人たちを守るためにはそれしかなかったんですよ。
でも最終回のその告白でも、エレンは「お前達に止められる結末がわかってなくてもオレはこの世のすべてを平らにしてたと思う」って言ってる。エレンは、生まれながらにしてそうしたかった。
その直後に、「何でかわかんねぇけど…やりたかったんだ…どうしても…」と、生後まもないエレンが描かれているシーンでしょ?
「エレン、お前は自由だ」と父親から言葉をかけられているあそこはまさに、エレンは元々の性質とか生まれ落ちた環境、それらをひっくるめた運命というものに抗えなかったっていうのを、皮肉的に描いているシーンだと僕は思ったんですよ。
なるほどー。たしかにそういう見方もできるな。あれだけ強大な力を持ってしても、運命には抗えなかったと。
僕は、もう少しメタな視点から見てますね。
『進撃の巨人』が言いたかったことは、つまり「誰かが自由になるということは、その裏側で誰かが不自由になる」だと思うんです。
それはまさに。
最終章は「一番自由になろうとしたエレンが、一番みんなを不自由にする」をやりたかったんじゃないかな、と。
自由の裏側には支配しかない、だからあの展開にせざるを得なかったんじゃないでしょうか。
作劇上の都合と言ったらよくないんですけど…。
僕の結論は真逆なんですよ、前提は都築くんと一緒なんだけど。今都築くんが言ったことは、裏を返せば「誰かが犠牲になれば、誰かの自由は獲得できるかもしれない」ということでもある。
エレンは、殺戮者になるという呪われた運命を受け入れて、自分自身が犠牲になった。手段は真逆なんだけど、みんなの代わりに自らが十字架を背負うことで民を救ったという意味で、イエス・キリストと同じ役割を果たしたんだと思うんです。こんなこと言ったらまじで怒られそうだけど……
その結果、みんなが「自由」になる可能性が生まれた。最終話で、散々殺し合った者同士が対話の席につくというところまでは辿り着けた。
もちろん、また戦争が繰り返されるかもしてないけど、もしかしたら平和になるかもしれないっていう未来の“揺らぎ”は描いていたと感じる。
という意味で、「エレンは不自由を引き受けることで、未来に自由を託した」みたいな終わり方だと思ったの。
たしかに、そうとも読める。でも、もっと諫山先生は苛烈に現実を描いているなと思ったけどな。
もちろんアルミンたちもいいこと言っているし、自由に辿り着くために良い線いってるんだけど、残念ながら彼らはどうせまた喧嘩するし、また裏切ったりしますよ。
みんなの話を聞いてよくよく考えると、ミカサだけかな。本当に自由を託されたのは。最後、ミカサは一人でいるじゃないですか。結局人間は一人にならないと真の自由だなんて言えないわけです。
ミカサが一番自由を託されているというのは、よねさんと同意見。
すべてのエルディア人は、道と座標で繋がっているからこそ、最後の最後で歴代の九つの巨人が助けに来てくれた話があったじゃないですか(第137話「巨人」)。その一方で、始祖ユミルがフリッツ王に囚われ続けた理由は実のところ、愛情だったことがラストで明かされますよね。
縁によって助けられたこともあった。けど元を辿れば、そもそも自由を束縛し、この悲劇を生み出した大元は、断ち切り難い人と人との縁だとも言える。
「人が自由になるためには、人との関係を断たなければならない」っていう皮肉的なテーマも、裏側には流れているんですよね。
うん。ミカサが2000年の呪縛からユミルを解放したのも象徴的。あれはエレンとの決別とも当然重なっているし。
ミカサがエレンの首を自分の手で切り落とした場面で、後ろには感情を取り戻したユミルが笑ってたのも、そういうことですよね。
そう、エレンを殺すことでただ一人完全に自由になったミカサが、あの瞬間、ユミルを王の束縛から解放した。
もちろん一人だと、孤独と戦う必要もあるかもしれないし、それは一般的な幸せとは言えないかもしれないけど、自由ってそういうものなんじゃないかな。ちゃんとその残酷さをわかって描いているのがすごいなって思いますね。
時として、人を愛するっていうことすらも、人を縛り付けてしまうってことですね。
この記事どう思う?
連載
その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
0件のコメント