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POPなポイントを3行で

  • 福嶋亮大×宇野常寛対談
  • なぜいま「怪獣を通じた戦後史」が書かれるべきなのか?
  • いまこそ、メタ言説である批評と、同時にそれを突破できる愛が必要

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なぜ今「特撮」の戦後史なのか? 福嶋亮大×宇野常寛 対談 vol.1
昨年末に刊行された、文芸批評家・福嶋亮大(ふくしま・りょうた)の新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。



文芸からサブカルチャーまで、東アジアの近世からポストモダンまでを横断する多角的な批評を試みる福嶋の「ウルトラマン論」は、戦前までさかのぼった映画史における円谷特撮、そして戦後サブカルチャー史の中での「昭和ウルトラ」を位置付ける著作となっている。



そして同書の企画者が、宇野常寛(うの・つねひろ)。著書『ゼロ年代の想像力』(早川書房)『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)『母性のディストピア』(集英社)などを刊行、批評誌『PLANETS』の編集長を務める。



全4回を予定するこの連載では、初代の『ウルトラマン』(1967年)から半世紀以上が過ぎたいま、なぜ「特撮」だったのか、『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』では何を、どのように、そしてなぜ描きたかったのか、著者である福嶋と同書の企画者である宇野の特別対談を通して、明らかにしていきたい。


対談構成:佐藤賢二 リード:和田拓也

歴史喪失の危機にある「特撮」

宇野常寛(以下 宇野)初代の『ウルトラマン』(1967年)から50年以上が過ぎたいま、特撮はもっと文化史的な視座からの批評があっていい段階にあると思うんですね。

2018年12月には、映画監督の樋口尚文さんもこの問題に触れていました(外部サイト)。すでに1960~70年代の作品に関わったオリジネーターのスタッフが大量に高齢になり、どんどん歴史的な検証が難しくなっているいまだからこそ、オーラル・ヒストリーの収集に並行して特撮は批評や研究がもっと盛り上がっていないといけない。

そういった中、福嶋さんの新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』が、1960年代の円谷プロ作品を中心に、しっかりジャンル横断的な批評をしていることの意味は大きいと思うんですよ。

宇野常寛

福嶋亮大(以下 福嶋)僕はこの本を書く予定は全然なかったんですが、『シン・ゴジラ』(2016年)の公開直後に高田馬場で宇野さんと会ったとき、庵野秀明監督がアマチュア時代に手がけた『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(1983年)などの話で盛り上がった。

その後でさっそく「うちのメルマガでウルトラマン論をやらないか?」と誘われたんですね。宇野さんからは「編集者として自分が一番適任だと思うから」とまで言っていただいて、そうなるとちょっと断れないなと思って(笑)。特撮は熱心なファンの方々も多いから、僕みたいな新参者は反発されるんじゃないかという恐怖も多少ありましたけど。

宇野 僕も、特撮作品についてのTV番組での発言を、それも特撮番組の関係者に捏造されたかたちで広められたことがあります。ファンコミュニティがムラ社会化していて、外側からの視線を排除する力学が強く働いている。でもこういった傾向が特撮文化にプラスに働くとはどうしても思えないわけです。

そこで、僕が知り得る限り最良の書き手に文句なくいいものを書いてもらい、特撮ファンだけでなくその外側にも読んでもらえるものをつくりたかったんです。

真摯な「批評」の後退と現代のネット言説の問題点

福嶋 ありがとうございます。今回はシンプルに言って、自分の好きなものについて書けたのが良かった。よく言われるように、ゼロ年代の評論は社会学化した。その結果として「好きなもの擁護」を封印して、書き手の立ち位置も含めて自己言及的に検証するというメタな振る舞いが定着していく。

ただ、そういう作業をやっていると、だんだん空虚になってくる面もあるわけです。本当に自分が守りたいものは何か、本当に自分が好きで語らねばならないものは何かがわからなくなってきて、結果として『〇〇社会』みたいな大雑把なムード優先の本ばかりになってくる。そういう傾向をひしひしと感じていたタイミングで、宇野さんにウルトラマン論を持ちかけられたんですね。これは非常にありがたかった。

福嶋亮大

福嶋 今のは社会学の話ですが、たとえば、百田尚樹氏の『日本国紀』にも似たことを感じます。僕はざっと立ち読みしたくらいだけど、筆者自身に本当に国家を守らねばならないとか、日本の伝統は大事だとか、そういう信念があるようにはまったく思えない。Wikipediaを参考に浅いリサーチをして集めた情報を、とりあえずまとめただけという印象ですね。

彼は本当の意味では日本を好きではないし、伝統も好きではなく、基本的にもともとテレビ屋なので視聴率が取れればいいという、そういう空虚さを感じてしまう。いわばネーションなきナショナリストだと思う。

一方で、最近では、芥川賞の候補として古市憲寿氏の『平成くん、さようなら』が注目されている。結果的に、半年前の「美しい顔」騒動などすっかりなかったことにして文芸界隈の編集者ははしゃいでいるわけで、この忘却力には驚くけれども(笑)。

一見すると古市氏と百田氏は遠いようだけど、僕からは近い人に見える。自分の中で守らなければならないものはなくて、ただコメントによって現実を操作するテレビ屋的な能力が長けている。

宇野 たしかにあの二人は思想は全く違うけれど、「コメンテーターとして求められる役を演じている」再帰的なテレビポピュリストという点でも共通しているかもしれない。

福嶋 まさにそういうテレビポピュリストが2010年代末の論壇や文壇で浮上してきている。ドナルド・トランプのミニチュアみたいなものです。

それに対してはもう一度ベタに、本当に自分が好きなもの、守らなければならないものをそれぞれが素直に、しかし他者に通じる形で知的に語ったほうがいいんですよ。

宇野 それは僕の依頼動機にもけっこう重なるところがある。僕のデビュー作だった『ゼロ年代の想像力』(2008年)は、批評家として書いたというより、「PLANETS」の編集長として、それまでやってきたことを編集者の視点でまとめた本だったと自分でも感じてた。 宇野 刊行時、宮台真司さん(※1)が「若い書き手による、単なる“好きなもの擁護”を超えた、時代を切り拓くサブ・カルチャー批評を、僕らは長いあいだ待っていた。」という帯文を寄せてくれたんですね。

この推薦文はすごくありがたかったんだけど、一方では、たとえば富野由悠季監督の作品とか平成『仮面ライダー』シリーズとか、自分の本当に好きなものを封印して書いた本だという、あの本の弱点というか、ちょっと僕が計算高くやってしまった部分をえぐられてしまった気がしていた。『リトル・ピープルの時代』(2015年)は、その反省で書いた本なんだよね。 福嶋 表紙もそのまま仮面ライダーだし。

宇野 僕は最初、「村上春樹が好きな団塊世代が間違って買うような表紙にしてください」と言ったんだけど、装幀を担当してくれた鈴木成一さんがあえてオファーを無視してああなった(笑)。その結果、本当にいい表紙になったと思う。やっぱり宮台さんや鈴木さんの目は誤魔化せないんですよね。

だから、そういうのは大事なんですよ。批評というのはメタ言説なので、いやでも対象に距離が出てしまう。しかし、同時に批評は本来つながらないはずのものがつながる奇跡が必要。そのためには距離を取るメタ的な視線と同時にそれを突破できる愛がないといけないと思ったんですよね。

福嶋さんにウルトラマン論をお願いしたのも、福嶋さんなら昭和ウルトラに対してこの二つを併せ持っていると思ったからです。

このタイミングでちゃんと戦前までさかのぼった映画史の中での円谷特撮、あるいは戦後サブカルチャー史の中での「昭和ウルトラ」を位置づける作業が絶対に有益だと考えたうえで、しかし、流行とか論壇のシーンとは一切離れたところでやってほしかった。

福嶋 そうですね。状況論ばかりで申し訳ないですけど、今のインターネットは「模倣の装置」と化していて、結果としてひとびとは自分の本当の欲望や愛を忘れてしまっている。他人の関心にしか関心がない。これはとても不幸なことです。

宇野 ネット右翼だって本当に国を守りたいのではなくて、単に不満がたまってるだけだからね。

福嶋 1980年代は「差異化」の時代と言われていましたね。新しい商品やキャッチコピーで差異を作っていくことが資本主義をドライブするエンジンだった。

しかし、現在はどちらかといえば「同じであること」が価値になってしまっている。他の人と同じようなことを同じような口調で言って、なんとなく連帯するふりをしているわけだけど、そういうことをやっていると自分の欲望を見失ってしまうし、本当の意味で社会や日本を捉えることもできない。愛を理論的なパースペクティブにまで高めるような批評が必要です。

宇野 僕の編集してるメルマガ「PLANETS CHANNEL」も、ネットメディアでありつつ、インターネットの空気から外れたものをやることをコンセプトにしてる。誰かの顔を見ながら、同調したり、逆張りしたりするゲームには一切価値がない。だから、ネットの「旬の話題」を基本的に全部無視して、ネット世界の隠れ大手になることを目指してこつこつやってるんです。

「大阪万博2025」が逆照射する昭和ウルトラシリーズの現代性

福嶋 そのおかげでこの本も出せたわけです。もう一つ付け加えると、円谷英二とウルトラマンシリーズは1970年の大阪万博と並走していた

そして今回も、図らずして本の刊行と同じタイミングで2025年の大阪万博開催が決まった。万国博覧会とは世界を視覚化して陳列するイベントですが、今はネットにアクセスすれば何でも見ることができるからたいして意味がないわけです。そういう意味では時代遅れのパッケージです。

しかし、万博を批判するためにテクノロジーそのものもまとめて批判してしまう傾向もあって、そちらも非常に良くない。大前提として、僕は人工知能であれ、モノのインターネットであれ、どんどん進歩してほしいと思う。

ただ、それを載せるパッケージとして、万博は明らかに時代錯誤でしょう。面白いテクノロジーをつまらないパッケージにたたみこんでしまうという失敗を、我々はずっと繰り返してきたように思います。

宇野 パッケージがだめだと、万博のようなかたちで広く世界に「お披露目」する意味がないですからね。

福嶋 それを突破するためには、まず技術を尊重しつつ、その技術を育てるパッケージが必要となる。本来「作品」とはそういうものだと思うんですよね。

『ウルトラマン』という作品はもともと円谷英二(1901~1970年)という映画の技術者がいて、その息子世代に当たる1930代生まれの人たちが中心となって、テレビという装置のなかで作られたものです。スタッフは特殊撮影という技術が大好きだった。そもそも「特撮」はジャンルの名前である以前にテクノロジーの名前です。しかし、上原正三さんや佐々木守さんのような脚本家が、その技術とは本来関係がないはずのイデオロギーや物語性を作品に宿してしまったわけです。

そういう分裂的なところに、僕は『ウルトラマン』の現代的な意味があると思うんですね。技術を捨てるわけではなく、技術をそのノイズも含めて多面的に展開していける作品が必要なんです。そういう立論は、万博をプロパガンダ的に推している人にも、万博を批判している人にもない気がする。

宇野 1970年の万博も、当時の高度成長と資本主義の象徴として賛否両論ありました。まさにその当時の昭和ウルトラシリーズは、1960年代の健全な批判的技術主義の結晶と位置づけられるんですね。

円谷英二の世代は純粋な技術屋だったので、技術自体はイデオロギーを超越して、『鉄人28号』みたいにリモコン次第で善にも悪にも使われる。『マジンガーZ』の原作の冒頭でも、巨大な力を持てば神にも悪魔にもなれるという話が出てくる。実際に円谷英二の特撮技術は、戦時中『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)などの国策映画に使われたという一面もあったわけです。 宇野 福嶋さんは昭和ウルトラシリーズを、円谷英二の息子の円谷一(1931~1973年)の世代が持っていた、批判的技術主義による父の世代へのアンサーだったと位置づけているわけですね。

福嶋 そのとおりです。批判的技術主義は良い言葉ですね。

円谷英二は生粋の技術者で飛行機オタクだからイデオロギーは本来関係ない人なんですよね。ただ、とにかくかっこいい飛行機を画面の中で飛ばしたいという欲望が、結果的に戦時中の国策映画と共犯関係を結ぶわけです。戦後もとくに怪獣映画を作りたかったわけではなかった。

そもそも、飛行機を愛するモダニズムの美学からすると、怪獣というのは非常に変で醜いものだったわけです。しかし、日本に原子爆弾が炸裂した後、かっこいい飛行機を撮るだけでは限界だということで『ゴジラ』(1954年)という怪物が登場することになる。 福嶋 それでも円谷は晩年には怪獣作家と呼ばれるのを嫌って、飛行機映画に戻ろうとしたんです。ある意味で円谷英二の美学は『ゴジラ』によって裏切られ、しかし、それが非常に大きな花を咲かせたという逆説が面白い。そうして、円谷の欲望を半ば裏切って生まれた怪獣ものをさらに大きく育てていったのが、『ウルトラマン』を作った息子世代の面白いところだと思う。

宇野 ある意味では、戦争の影を乗り越える試みだったわけですね。

福嶋 さらに言うと、怪獣に対する愛着は特撮に限らず、戦後サブカルチャーのなかでずっと続いてきたと思うんです。

アニメでいえば、宮崎駿は基本的に怪獣作家だよね。『風の谷のナウシカ』の巨神兵、『となりのトトロ』の猫バス、『もののけ姫』のオツコトヌシ(乙事主)、『崖の上のポニョ』のポニョなども、広い意味では怪獣みたいなものです。 福嶋 宮崎も円谷と同じく飛行機のシャープな世界を愛している一方、同時にそれとは対極にあるような怪獣を描いている。この本では、飛行機と怪獣の分裂を「戦後サブカルチャーの美学的な二重人格」という言い方で説明しました。作家の美学と、それを裏切ってしまう何かといったものが濃密に凝縮されているのが、特撮というジャンルなんです。

宇野 特撮というテクノロジーが20世紀前半に生まれて、それはイデオロギーから自由であったがゆえに、どのような思想とも結託し得た。

飛行機から怪獣への流れは、こうした技術主義の持つグロテスクさを特撮映画が自ら表現していった結果とも受け取れるわけですよね。円谷一や、ウルトラシリーズのシナリオを担当した金城哲夫(1938~1976年)、上原正三(1937年~)の世代は、そのグロテスクさを引き受けたうえで、怪獣というモチーフを多様化して建設的な批判的技術主義とも言える昭和ウルトラの世界を作ったわけです。

第2回へ続く

サブカルチャーを深く知る、インタビュー記事

福嶋亮大(ふくしま・りょうた) //

文芸批評家

1981年京都市生まれ。京都大学文学部博士後期課程修了。現在は立教大学文学部文芸思想専修准教授。文芸からサブカルチャーまで、東アジアの近世からポストモダンまでを横断する多角的な批評を試みている。著書に『復興文化論』(サントリー学芸賞受賞作)『厄介な遺産』(やまなし文学賞受賞作)『辺境の思想』(共著)『神話が考える』がある。

福嶋亮大(ふくしま・りょうた)

宇野常寛(うの・つねひろ) //

評論家/批評誌〈PLANETS〉編集長

1978年生まれ。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『母性のディストピア』(集英社)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多数。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。

宇野常寛(うの・つねひろ)

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