作品の「周縁」に向けられた怒りと弱体化する批評
ここまで主に作品に添いながら、斎藤氏の議論に基づいて『ルックバック』の修正が妥当とは思えないという考えを述べてきた。ただ繰り返すように、斎藤氏による批判そのものは極めて有用であり、自分の議論が展開できたのも斎藤氏の記事が存在するおかげだ。作品に対する修正は過剰であるという結論は変わらないものの、それでも批判点としては重要だと思う。むしろ、本当に懸念するべきは、このような『ルックバック』を巡って様々な価値観を持つ人々が、作品が提示した創作への希望と絶望、不条理への抗いをすっかり忘れ、斎藤氏や描写に批判した人々に対して暴言を吐く(吐かれる)、あるいは「所詮○○だから」というステレオタイプを拡散するなど、作品の外側で二項対立的な憎悪をぶつけ合うことではないだろうか。
実際、斎藤氏がnoteに書かれた懸念には『ルックバック』だけでなく、その作品の外側に対して向けられている。
既に斎藤氏が言及する前から、作品における「通り魔」の描写に対する意見、感想、批判が、主に精神障害者の方や、医師から寄せられていた。しかし、そのような意見に対しては、精神疾患に対する差別意識に基づく、半ば反射的な「心無い反応」が多かったという。それにつけても残念だったのは、何人かの当事者が勇気をふるって抗議の声を上げたのに、「そういうとこだぞ」といった心ない反応が多かったことだ。「そういうとこだぞ」という言葉は「発信されてもいないメッセージを勝手に受けとっている時点で病んでいる証だぞ」と言いたいわけだ。なるほど、もし彼らが「この漫画は“私”のことを批判している」と主張したのなら、それは確かに妄想的な思い込みの可能性があるだろう。しかし当事者が言いたいのは「本作の通り魔の描写は“私たち”を差別している」という主張であり、ここには——議論の余地はあるとしても——合理的な根拠がある。「そういうとこだぞ」という反応には「患者が合理的に考えられるはずがない」「稚拙な論理の穴を突いてはずかしめたい」「そもそも患者の妄想語りなど訊くに値しない」という三重の差別意識がこめられているように思う。こうした反応を見るにつけ、果たしてこの社会においてアンチスティグマ運動が実を結ぶ日が来るのだろうか、という無力感にうちひしがれる。「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?より
筆者が確認する限り、事実として『ルックバック』への「批判に対する批判」という形では、感情的かつ反射的な反論は散見された。
このような反論に当事者たちが失望したのは想像に難くなく、従って斎藤氏らが「修正」を求めるに至った作品への強い批判は、作品だけでなく作品の周縁に対する実体験に基づくものではないだろうか。
事実、斎藤氏の『ルックバック』に対する批判をまとめたnoteは、作品と作品周縁への批判が、「それにつけても残念だったのは」という形で混同しているように見えるのは、むしろ当事者として患者が晒される差別への恐怖を、われわれより何倍も身近な立場で接せられてきた斎藤氏の心情として、切実なものに思う。
さらに、このような意見を踏まえた上で「修正」された現状、当時の何倍もの「心無い反応」、具体的には「アイツらのせいで作品が壊された」「クレームに対して屈した」ような意見が多く見られた。既に議論自体、修正の是非というよりも、修正を肯定した人々、否定した人々の間での二分化、すっかりSNSで見慣れたサイバーカスケードの様相を呈しており、偏見や差別はほとんど解消したように思えない。
「修正」によって直接的に偏見や差別が悪化したわけではないが、少なくとも、作品の周縁においては、いよいよ対立が深まり、偏見や差別の解消には至らなかったと言える。これは『ルックバック』に限らないが、集団極性化が起きるSNSにおいて、あらゆる感情が地続きになってしまうことから、何らかの倫理的妥当性について検討することは極めて難しい。どうしても、「アイツ」への感情が混ざり、それはやがて「アイツら」まで肥大化する。
この背景を踏まえると、さらに「修正」は果たして必要だったのか疑問に思う。繰り返し述べた通り、『ルックバック』は極めて慎重かつ大胆な手段で、悲劇の再構築と現実への挑戦を同時に投げかけたもので、それは賛否を呼ぶものであれ、精神疾患への偏見、大量殺人がもたらすトラウマなど、様々な点で議論する格好の題材となった。そもそもこれほど踏み込んだ作品を無料で公開すること自体が、藤本タツキと集英社なりの社会に対する挑戦だったと考えられる。
しかし現実には、作品の批判にとどまらない「修正」という有無を言わさない議論が進み、しかも修正に対して寄せられたバックラッシュ的意見の中には「アイツらのせいで」のような被害者的な怒りが含まれており、修正前と何も変わらない対立が生まれている。当然、著しく公序良俗に反する表現は適宜修正する必要もあるかもしれないが、『ルックバック』に関しては修正が何の解決にもならなかったように思う。
何より、今回の「修正」に対するもっとも重要な懸念点として、今後、作品に対する批評それ自体が、「作品に修正を強要する暴力、差別」とみなされ、攻撃されることである。現に、『ルックバック』への批判は、理性的な意見を含めて「表現の自由を奪うのか」という批判に晒される。逆に、一度修正された作品を肯定することが、「何らかの差別を助長しているのではないか」という批判に晒されるかもしれない。
本当にどうしても必要な「修正」を除けば、後から世論の意見を反映して作品を修正することが慣習化すると、今後は作品への肯定的/批判的意見までもが修正を退ける/促す意見として、より大きな文脈に巻き込まれかねない。そうなると、作品について肯定や批判するどころか、もう論じること、作品の批評それ自体がリスクとみなされかねない。これはファンコミュニティの健全さ、さらには作品を含む文化そのものを蝕む危険があるのではないだろうか。
総じて、『ルックバック』が現実の不条理に対する抗いを、虚構の再構築と試練の一瞬で、わたしたちに創造の可能性によって希望を与えた一方、それについて議論するわれわれの批評は無力で、脆弱だった。現実に対する虚構の可能性が、大いに輝かしく見えたと思えば、その虚構に対する現実の可能性が、あまりに乏しかったことが同時に証明されたことは、皮肉と言わざるを得ない。
※記事初出時、一部作中の表現に誤りがございました。お詫びして訂正いたします。
『ルックバック』を巡って
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Jini
ゲームキュレーター/ライター/ゲーマー日日新聞主宰
3000万pvブログ「ゲーマー日日新聞」→月額購読者800人のnote「ゲームゼミ」 | 著『好きなものを「推す」だけ』テレビラジオ出演や各紙連載など
・ゲーマー日日新聞
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15件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:8357)
素晴らしい書評だと思います。
日本猿ジュセヨw
この自分の言葉に寄ったような感想文みたいな記事がとにかく気色悪い
匿名ハッコウくん(ID:6103)
https://kakuyomu.jp/works/16816700427029859905/episodes/16816700427029916338