『ファイアパンチ』『チェンソーマン』で知られる漫画家・藤本タツキ氏が、集英社『少年ジャンプ+』で公開した読み切り『ルックバック』。ああ、わたしが昔の月日に戻れたらよいのだが、
神がわたしを守ってくださったあの日々に。
そのときには、彼の灯火がわが頭上に輝き、
彼の光によってわたしは暗闇を歩んだ。 『ヨブ記』第二九章
公開直後から大きな反響を呼んだ143ページに及ぶ傑作は、しかし、一部の反応を受けて本編の内容に修正が加えられた。
その後、単行本の発売が決定。またその際、著者の意向を受けて再度セリフ表現が変更されることがアナウンスされている。藤本タツキ著『ルックバック』については、発表後、8月2日に内容を一部修正いたしましたが、9月3日発売のコミックスにおいて、著者の意向を受けて協議のうえ、セリフ表現を変更している部分がございます。
— 少年ジャンプ+ (@shonenjump_plus) August 27, 2021
ご理解いただきますよう、お願い申し上げます。
少年ジャンプ+編集部
本稿では、改めて表現が変更される単行本の発売にあわせて、『ルックバック』が描こうとしたもの、そして発表直後に施された修正について、作中のモチーフとなったであろう事象を踏まえながら考えてみたい。
※本記事には『ルックバック』の全編ネタバレ、および『ファイアパンチ』『チェンソーマン』の一部のネタバレが含まれます。
文:Jini 編集:恩田雄多
目次
藤本タツキ『ルックバック』の衝撃
2021年7月19日に突如として公開された藤本タツキの漫画『ルックバック』。その内容は圧巻だった。ある小学校の学年新聞で、毎週ひたむきにギャグ漫画を連載する藤野は、ある日、自分の隣に掲載された京本の作品を読み、あまりの画力に絶句する。そして自分の才能まで見限ろうとするが、その時、京本に藤野こそ自分にない「面白かった」「毎週連載していた」という才能に憧れていたことを指摘され、2人は共に漫画家として切磋琢磨する。
藤野と京本。2人の創作を巡る尊重と愛憎。挫折し、成長し、変化し続ける人間性。作り、作られ、そしてまた作られる、創作という名の呪いにかかった若者たちの姿を、時折、ユーモアを交えながら描く。それだけでも十分に『ルックバック』は名作に足り得ただろう。
しかし、物語は突如、とてつもない質量の不条理が降り注ぐことで、カタルシスは奪い去られてしまう。
さらなる高みを目指し、京本は1人、芸大への進学を果たした。一方、プロの漫画家として漫画を書き続ける藤野。そこに、京本が入学した美大が通り魔により襲われたという報道がテレビから流れる。藤野はすぐ京本に電話をかける、しかし出ない。そこへ母親からの着信。恐らく、母親はこう伝えたのだろう。「京本が刺された」と。
この瞬間、読者の誰もが全くの不意打ちにより激しく動揺したと思われる。これまでおよそ100ページにわたり、ただ丁寧に、トランプタワーを積み上げるかのごとく描かれてきた、藤野と京本の成長。それが一切の伏線もなく、全てが台無しにされてしまう。それは到底フィクションにあってはならない、質量ある不条理だった。
なぜ、藤野と京本の好敵手、あるいは同盟とも言える関係は、全く無関係な「通り魔」によって切断されなければいけなかったのか……? 動揺し、困惑する読者は、すぐにこの作品が公開された2年と1日前、2019年7月18日に起きた、京都アニメーション放火殺人事件を思い出さずにいられなかったはずだ。
たった1人の人間の憎悪が、36名もの命を奪い、33名に極めて重い傷を与えた、あまりにも痛烈な事件。この事件がもたらした絶望と悲嘆は、この後押し寄せた国内外からの「#PrayKyoani」の痛ましいまで声も容易に想像することができる。
あの時、少なくとも自分の心の中で、何かが致命的に壊れてしまった。パキッと絶対に壊れてはいけない何かが壊れる音を、たしかにわたしは聞いた。数々のアニメーションで、世界中の人に希望を与え続けた彼らが、何の罪があってこんな目に合わなければいけないのか。数々の不条理を経験してもなお、いまだかつてない致命的不条理だった。
「なんで描いてるの?」に対する究極的答え
藤本タツキが事件にどのような印象を覚えたか定かではない。だが、喜怒哀楽を浮かべ続けた藤野が、事件を目の当たりにして「私のせいだ……」「なんで描いたんだろ…」「描いても何も役に立たないのに……」と自我を崩壊寸前まで追い詰められる様子は、まさにあの現実を前にして無念さに打ちひしがれた多くの人間、とりわけ創作を愛する人々の心境を代弁するかのようだった。そのうえ白眉なのは、この絶望から(恐らく藤野の脳裏で)一瞬にして場面が小学校の卒業式まで巻き戻り、「京本が藤野の誘いに応じなかった世界」という劇中劇が再構築されることだ。この世界では、京本は自力で芸大に合格。プロの漫画家にならず「カラテ」の道場に通い始めた藤野のキックによって、「犯人」から救われる。そして京本は無事家に帰り、藤野宛に漫画を描くという、痛烈な現実を痛快な虚構で塗り替えてしまう。
この手法が、クエンティン・タランティーノ監督の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の影響にあることは、最後のコマにそれらしいパッケージが唯一描かれることからも、否定の余地はないだろう。 同映画は1969年のハリウッドで起きた女優シャロン・テートが惨殺された事件を、レオナルド・ディカプリオ演じるリックと、ブラッド・ピット演じるクリフが、実行犯のカルト集団をボコボコにすることで未然に防ぐ物語。50年前にハリウッドを襲った不条理を、現代におけるハリウッドスター、フィクションのイコンである2人が覆してしまう、まさにフィクションの反逆とも言えるストーリーが痛快だった。
しかし、『ルックバック』はその痛快な夢から、わずか28ページで覚めてしまう。藤野に救われたはずの京本が4コマを描いた時には、既に藤野はジャージではなく喪服に身を包んだ、辛く、過酷な現実に立ち返っている。そして藤野は、現実の京本がかつて描いた4コマ「背中を見て」を読み、もう帰る人はいない部屋へ踏み込む。
「だいたい漫画ってさあ… 私 描くのはまったく好きじゃないんだよね」
「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」
藤野はその問いに答える代わり、自分のアトリエに帰還し、液タブと向かい合うコマで物語は終わる。暴力を放棄し、虚構を忘却し、現実に向き合い続ける。
かつて『ファイアパンチ』で「悪者は死ぬだけである程度のカタルシスが生まれるからね~」「面白ければ何してもいいんだよ」とトガタに映画愛もろとも代弁させたあの藤本タツキが、殺すことも夢見ることもなく、あの悲劇に対してなおペンを握る背中で、現実に生きるわれわれができる唯一のカタルシスで答えた。
この現実から夢へ、そして夢から現実へ帰還する構造により、『ルックバック』は虚構が現実的な暴力に対していかに無力か打ちひしがれ、しかし、だからこそ再起する藤野の創作者としての精神に、強く駆り立てられるようになる。最後のコマ、漫画を書き続ける藤野の背中に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』らしきパッケージが放置されているのは、作品への敬意と決別を兼ねているかのようだ。
よって本作が伝えんとするものは、ただ創作行為への賛美でもなく、しかし京アニを襲った暴力への糾弾でさえなく、無論のこと精神障害者への憎悪でもない。
最期に京本に問われた「なんで描いてるの?」という問いへの答え、すなわち創作という行為がどれだけ無力であっても、自分たちにできることはただ「創る」ことに他ならないんだという、藤本タツキや多くのクリエイターが到達した極限の心理状態にあったのではないかと思う。
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Jini
ゲームキュレーター/ライター/ゲーマー日日新聞主宰
3000万pvブログ「ゲーマー日日新聞」→月額購読者800人のnote「ゲームゼミ」 | 著『好きなものを「推す」だけ』テレビラジオ出演や各紙連載など
・ゲーマー日日新聞
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15件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:8357)
素晴らしい書評だと思います。
日本猿ジュセヨw
この自分の言葉に寄ったような感想文みたいな記事がとにかく気色悪い
匿名ハッコウくん(ID:6103)
https://kakuyomu.jp/works/16816700427029859905/episodes/16816700427029916338