藤本タツキ『ルックバック』は修正されるべきだったのか 弱体化する批評の価値

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『ルックバック』の犯人は「凡庸な狂気」だったのか

もう1つ、もともとの『ルックバック』が本当に偏見や差別の助長につながるのか検討する上で、考えるべきはほんの数ページのみ描かれた犯人の描写である。斎藤氏は「幻聴」「被害妄想」などの描写から、犯人が「ひどく凡庸な狂気のイメージ」「意思疎通が不可能な狂人」を推測させ、「強いて言えば統合失調症が一番近い」ものであり、読者のステレオタイプを強化しうると懸念を示されている。斎藤氏に限らず、この点を憂慮した上での批判は他にも散見された。

しかし、『ルックバック』で描かれた犯人の描写は、「ひどく凡庸な狂気のイメージ」と考えるには程遠い。凡庸どころか、現実に存在した狂気そのものを描いているように思う。それは何より、この作品が現実をモデルとした私小説的な属性を鑑みる上で、明らかだ。

例えば、「元々オレのをパクったんだっただろ!?」という修正前の通り魔のセリフは、青葉真司が後に大阪拘置所で「京アニに自分の作品を盗用された」ことが犯行動機と述べた内容に限りなく近い。作品が投稿されたのが既に述べた通り、京都アニメーション放火殺人事件の僅か「2年と1日後」だったことも明らかに意図的だ。

もう1つ、モデルとして考えられるのが京都精華大学生通り魔殺人事件だろう。作中の「山形美大生通り魔殺人」があった1月10日とほど近い2007年1月15日に、マンガ学部に通う学生が、常軌を逸した興奮と怒りを見せる男により刺殺された痛ましい事件。こちらの犯人は未だ捕まっていない。

従って、通り魔の描写は精神障害者のステレオタイプというより、むしろ逆、いやに具体的に過去の凶悪殺人犯の人格をトレースした存在として描かれている。ここで付け加えると、彼ら凶悪殺人犯は少なくとも精神障害であることを理由に無罪となってはいない。

事実、2020年12月には京都地検により青葉真司容疑者の刑事責任能力を認定されている上に、そもそも現代日本の刑事法定で精神障害というだけで心神喪失を認められることはなく、およそ7つの着眼点を踏まえる必要がある(外部リンク)。

このように、犯人は「意思疎通できない殺人鬼」であるのは確かだが、しかしそのような殺人鬼は「凡庸な狂気」でも、「精神障害者のステレオタイプ」でもなく、現実に実在した人間そのものである。そして、われわれがテレビ等を通じてその存在と相対し、その暴力の犠牲者が今も苦しみ続けている。

わたしもまた斎藤氏が懸念する通り、今現存する精神障害への差別や偏見に対する懸念は理解できる。しかし、その懸念は現実に起きる凶悪殺人に際し、マスコミが何の根拠もなく「犯人は精神障害者の疑いがある」と報道し、その上SNSなどで「犯人は精神障害のため、無罪となるかも」と全くのデマを拡散する、現実に向けるべきではないのか。そもそも、このような暴力を防ぐことができなかった治安や、(精神障害と無関係に)貧困に陥り、殺人すら躊躇しない状況に陥る福祉こそが問題ではないのか。

(仮に犯人が精神障害ではなかったとしても)斎藤氏は『ルックバック』を通じて読者が、意味不明な言葉、狂気を思わす理不尽な悪に直面しただけで「精神疾患」を想定してしまうと述べているが、それは「読者が精神疾患のステレオタイプを持つ」と斎藤氏が読者像を(それこそステレオタイプ的に)想定しているのではないだろうか。

「通り魔」と「銃の悪魔」に共通する現実的スティグマ

話を犯人の描写に戻そう。犯人の描写は凡庸な狂気というよりも、具体的に(精神状態がどうあれ責任能力ありと判断された)凶悪殺人犯をトレースした「犯人」は、京本や藤野と比べて、いやに「呪われて」いる。言うならば、「現実というスティグマ」によりその存在が歪んだものとして描かれている。いや、描かれていた。

これは読者にとって、決して虚構から生じたあらゆる悪で感じ得ない、底冷えする恐怖を与えるものだった。徹底的に虚構の檻を作り上げ、その憎しみ、悲しみを、京本と藤野の2人に対してのみ向けるよう設計したにもかかわらず、2人を襲う悪意が、明らかに現実的なスティグマを帯びている。精神障害者ではない別の「凡庸な狂気」であれば、少なくとも読者はより「スッキリ」できただろう。

ただ、わたしはここに、藤本タツキの作品『チェンソーマン』において、早川アキにとっての仇「銃の悪魔」が何を表象していたかを思い返した。「銃の悪魔」は銃器への恐怖心から産まれた悪魔で、宙に浮かぶ巨体には無数の人間の顔が蠢き、頭部、背中、腕には無数の小銃が埋め込まれている。そしてその小銃のどれもが、AK-47やAR-15、M1911といった、われわれの世界にも存在し、そして無数の人々の命を奪った「実績」ある銃であることが、見て取れる

「銃の悪魔」は確かにわれわれの世界に存在せず、あくまで『チェンソーマン』の中で恐れ、憎まれる存在でありながら、明らかにその暴力性は、クライストチャーチモスクやコロンバイン高校などの銃乱射事件、さらには世界中の紛争地域で実際に人々に死を振るまいた、現実に生きるわれわれが遭遇した正真正銘の「悪魔」を表象していた。ここから、藤本タツキの不条理な創作の原点が、不条理な現実に対する怒りや悲しみに基づくことは疑いようもない。

あるいは『ファイアパンチ』にて、ある作中人物が、丁寧に作り込まれた救いのない虚構としての地球で生きる希望に、「中途半端に終わった『スターウォーズ』の続編がみたい」と話していた。常に藤本タツキは絶望だけでなく希望にまで現実的なモチーフを引用し、現実と虚構をまぜこぜにし、その臨海線を不定形なものとしていく

藤本タツキは前提として完璧な虚構を作っておきながら、しかしそれを自ら現実との壁を破壊し、わたしたちを混乱させた。それこそ、修正後に書き換えられた「誰でもよかった」という真に凡庸な狂気では描けない、響かない、その不条理に挑むことをやめないところに、藤本タツキの果敢さがある。

故に、『ルックバック』が2人の人生という虚構から悲劇を再構築する結論で憎悪や偏見と決別する覚悟を見せる一方、現実の不条理から目を背けずにいたことが、わたしを含む、あの2年前の致命的と言えるトラウマを乗り越えさせる挑戦でもあった。

従って、今日本で生活を送る精神疾患に苦しまれる方々、そして彼らに寄り添い、「通り魔」の描写がステレオタイプを強化するのではないかという懸念を提起した斎藤氏も尊重する。間違いなく、彼らが感じた「違和感」や「不快感」、そして真実は軽んじて良いものではないが、作品に対して修正をするべきだという意見には、やはり同意できない。

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15件のコメント

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匿名ハッコウくん

匿名ハッコウくん(ID:8357)

素晴らしい書評だと思います。

nichizarusine

日本猿ジュセヨw

この自分の言葉に寄ったような感想文みたいな記事がとにかく気色悪い

匿名ハッコウくん

匿名ハッコウくん(ID:6103)

https://kakuyomu.jp/works/16816700427029859905/episodes/16816700427029916338

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