あえて「児童相談所の道を示さない」という誠実な答え
そもそも、社会派の作品として読むのは間違っていると思います。ただのモチーフでしかない。社会の動きとか全く描かれなくて、タコピーとしずかちゃん中心に物語が進んでいるし。
映画『スタンド・バイ・ミー』のような漫画なんだと思った。アレだって、家庭内の問題は結局解決されないじゃん。友達との関係や経験の中、子供から大人へと成長して自然に乗り越えていく。
でも『スタンド・バイ・ミー』は、格差とかは描かれていたけど、社会問題自体をそんなクリティカルに扱っている作品じゃないじゃん。物語の軸になった死体だって、登場人物たちが生み出したものでもない。
『タコピーの原罪』には虐待やいじめ問題に起因する死体が物語の真ん中に横たわっている。それに日本では、中・高校生が両親の介助をしなきゃいけないヤングケアラーの問題とかめちゃくちゃ社会問題化しているわけですよ。
でもそれは、長くある根本的な家庭問題であって──。
それはそうなんだけど、高齢化が極まってそれが前景化して問題視されている今だからこそ、青春物語における単なるモチーフとして割り切るのは、読者にとって難しいと思う。少なくとも俺にとっては難しかった! そこに感じ方の乖離があるんだと思う。
みんな発想が大人すぎるわ。『タコピーの原罪』が掲載されていたのは『少年ジャンプ+』だよ?小・中学生が読んでたらきっとそんなこと思わないよ。少年の心を大事にしてこ?
そこが俺の引っかかっているところなんだけど……。正直、少年少女が読む漫画だからこそ、俺個人としては、もっと他の可能性を示してほしかった。現に家庭問題で苦しんでいる子供も当然読むわけだし。
どういうこと?
この漫画で描かれたように、問題を根本的に解決することなんて現実ではできないけれど、“対話”してその痛み・辛さ・悲しみを共有しあうことで当人たちが救いを得るということはある。そういうメッセージはもちろんありうると思う。
でも『タコピーの原罪』では、子供達や両親以外にも、学校の先生や警察とかも出て来るじゃん。それなのに児童相談所の人が出てこないとか、東京までひとり遠出してきたボロボロの少女を見かけて誰も声をかけないし通報しないとかは、正直ちぐはぐに思えちゃう。
ちぐはぐだったとしても、あの終わり方自体はよくない? 新見さんの言ってることもわかるんだけど。実は、あの解決はかなり真摯というかそれしかない一手だとも思いますよ。
僕もそうだと思います。
現実として、児童養護施設とか児童相談所とか出てこなくてもああいう解決は全然あるし。かなり乱暴なことをいえば、むしろあの解決方法でしか本当は救えないって俺は思う。
児童養護施設・児童相談所に相談すれば解決するって考え方こそ、現実を見ていないでしょ。
もちろん、実際にはセーフティネットが機能しない現実はある。そもそも、行政や第三者が家庭に介入するのが極めて難しいっていうのもよくわかります。
それでも、天下の『少年ジャンプ』のWeb版として無料で誰でも読めるもの、少年少女が読むものとして、社会にSOSを発信するみたいな方法もありうるってことは示してほしかったと俺は思うけどね。
その観点からでも、むしろ逆だと思うな。
子供の周りにいる大人・世間が、その子の抱えている問題に気づいて行動すべきであって……。子供が自ら児童養護施設・児童相談所に掛け合わないでしょ。
それなら社会の描き方が中途半端なんだよね。例えば、第8話「しずかキングダム」で警察がしずかちゃんの家で事情聴取してるくだりがあるけど、あんな明らかにネグレクトされて荒れ果ててる家の現状を警察が見たら、一時保護するか、児童養護施設・児童相談所の人を連れてくると思うよ。
クラスメイトからの話を聞いて、重要参考人として事情聴取しにいった。普通に考えて、お父さんがいないこと、お母さんが家にろくに帰ってないことが明らかになるはずだから。
それもちょっと幻想だとは思うんだけど。そういう風に描いた方がいいってことね?
逆に、社会を全く描かないという方法もある。でも、中途半端に社会が描かれている。物語上のリアリティレベルが、ちぐはぐに見えちゃう。
第2話でしずかちゃんとまりなちゃんの関係が劣悪だって気づいたとき、なんでハッピー道具・仲直りリボンを使わなかったのか、とか……。あれがありゃ、秒で解決できんだろがい!!!
最後に明かされた、自分を犠牲にして「ハッピー力?」を消費すればもう一回過去に戻るハッピーカメラを起動できますよみたいな設定も、何そのデウス・エクス・マキナ!?
それはやっぱりSF的に読みすぎてるようには思います。整合性を求めすぎというか……。
そもそも、変な漫画だし、ちぐはぐなところはあるけど、それがむしろこの作品の魅力になってると思いますよ。
そうですね。だからそこは、受け手それぞれの好みだと思います。俺は、ちぐはぐさが気になった、というだけ。
この作品には社会への諦観があるし、それが読者の共感を呼んでいるっていうのはすごいよくわかります。
そもそもタイザン先生が描きたかったものは違ったんじゃないかな。
モチーフが社会派すぎて期待感があまりにも高まった結果、読者としては違和感を覚えたってことですよね。
そもそも家庭の問題は解決することが難しいし、結局当人たちの気の持ちようで、何とか耐え忍ぶしかない。それは一つの誠実な答えだと思うけどね。
インターネットでは「これ結局幸せじゃなくない」とか「家庭問題が解決していないじゃん」とか意見が散見されていたけれど、僕はそれが誠実な答えだと思う。
しかも、『タコピーの原罪』ではその答えについてちゃんと描かれていた。それが“おはなし”ってキーワードだったんだと思う。
行政の介入って、“おはなし”とは真逆じゃないですか、現実の事件を見ても、児童養護施設・児童相談所に行きたがる子供っていないじゃないですか。親とは引き離されるし、知らない環境でもまた上手くいかないかもしれないし。
だからこそ、その道もあると安易に示さない方が、“対話”して他人と相互的な関係を築くことで救われるっていう一本の道筋を示すのに徹した方が、より救える子供は多いんじゃないでしょうか。
そうかな? 第三者の介入で救われる場合だってあるんだから、そういう回路だってあるんだということは示してもいい。けど、この物語では、その方法では救われなかったと描くことはできるわけで──。
新見さんの言うとおり、インターネットでも確かに「第三者機関への道を示すことで、より良くなるのでは?」と言う批判がされている。細田守さんの『竜とそばかすの姫』でも同じような批判があったけれど。
でも、その読み方って正しいことを言ってるように見えて、この”おはなし”の強度、もっと言えば“物語”の可能性をすごく軽視していると思います。
よねさんがもうひとつ持ってきたテーマがその話ですかね?続いては「お『はなしがハッピーをうむんだっピ!』について考える」に行きましょう。
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その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
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