五条悟と「なろう」から考える「最強キャラ」
次は、ちょっと話を変えて、古見くんが提案してくれた「五条悟から考える作中最強キャラがもたらすパワーインフレへの好影響・悪影響」について。
最強キャラの是非については昔から議論されていると思いますが、どういう意図がありますか?
五条って大人気じゃないですか。その理由は、見た目がカッコいいのはもちろん、最強キャラ故に見せ場があって、なおかつある程度のカタルシスが保証されているからだと思うんですよね。
絶対に負けないし、絶対に敵を圧倒できる。
例えば、15話の特級呪霊・漏瑚戦でも、虎杖が「今までのどんな呪い(バケモノ)よりも遥かに呪い(バケモノ)!!」だと思った漏瑚を一蹴した。
こういう作中最強キャラは昔からいますが、特に現代に求められる短期集中的なスピード感やカタルシスには有効だと思うんですよ。
その一方で、長期連載を見越したら悪影響があるんじゃないか、というところを考えていきたいんです。
なるほど、五条。とにかく作者にとって便利だなって思う。ワンパンで強敵を倒してくれるから、サクッと話を畳んで進められるし。
そうですね。出せばすごいし、仕舞うとピンチになる。
最強キャラがいるとすごい便利なんですよ。物語の中でインフレを起こさず、それぞれのキャラクターの格を担保できる。しかも、短期的な物語だったら進行する上でキーマンになれる。
例えば『鬼滅の刃』だったら、鬼舞辻無惨は継国縁壱の死後、作中最強だったじゃないですか。最強の無惨を倒したら勝ちという揺るがないシンプルな目標が設定できた。
五条悟ってキャラクターが生まれた背景には、わかりやすさがあると思うんですよ。例えば『幽☆遊☆白書』とか『HUNTER×HUNTER』とか、最強は誰か全然わからなかったりするじゃないですか。
それが面白さでもありつつ、一方でわかりにくさにも繋がってて。その点、『呪術廻戦』には「五条悟」という指標がある。現代のわかりやすさが求められる時代には、合っているキャラクターだなとは思いますね。
そうだね。ぼくは『呪術』をはじめて読んだとき、味方陣営にあらかじめ約束された最強キャラがいるってすごく珍しい作品だなって思ったんだけど、実は「なろう」系だとそんなことないというか、現代のフィクションではもはや普遍的な設定だともいえる。
そういう意味で「なろう」との類似性すら感じた。とにかく登場するだけで気持ちいいところとか。
気持ちよさは大事なポイントですよね。
味方に最強キャラがいる作品だと『魔人探偵脳噛ネウロ』とかもありましたが、『ネウロ』はバトル漫画じゃないですし、五条ほど前線に出っぱなしの最強キャラは確かに珍しいですね。
最強キャラの五条がいる一方で、虎杖に受肉した宿儺もいるじゃないですか。まだ全然強さの底も見えていないし、本気も出していない。
主人公であり敵でもある虎杖/宿儺の強さも担保しつつ、味方陣営にそれとは別の最強キャラがいるのはテンション上がりますよね。
ただ、最初に言った通り懸念もあって。味方陣営に最強キャラがいることにはきっと弊害もあるんですよ。
最強キャラが敵だったらそれを攻略すれば物語を締められるけど、味方だったら敵が攻略しないとそもそも物語を進められない(笑)。
封印という形で五条悟を一時退場させないと、他のキャラクターが活きてこないし、物語も進められなかった。
それなら、物語の側で最強キャラを決めるんじゃなくて読者の側で決めさせる方がよかったんじゃないかと。「大丈夫、僕最強だから」と本人に作中で語らせずに、敵を圧倒してその結果として読者に最強と認識してもらう方がよかったじゃないかなと思うんです。最強キャラなのに活躍できないのはもったいない。
その問題は面白い。まあ「なろう」だと気にせず進んでくけど(笑)。
「なろう」ディスってます? イエローカードですよ?
ディスってないよ!!!
作品のウェイトをどこに置くかの問題であって、共感とカタルシスが重要な作品では「最強」であることが大事で、そこに「最強とは?」みたいな問いは別に必要ないっていうだけ。
五条も作中でかなり丁寧に「最強」であることが強調されていて、そこに対しては誰も疑問は持たない。
五条悟がいたら何とかしてくれますからね。
まあ役割って観点からだと、どっちにしろわかりやすいんですよね。
五条という最強のトラップカードが伏せられていて、それをいつ発動させるかっていう読者との駆け引きがなされている。
読者はハラハラさせられてますよね。もし『ジャンプ』本誌の煽り文に「次週、五条悟復活」って書かれたら絶対トレンド入りするだろうし。
漫画家の力量が試されそうな部分だよね、そこは。
物語に関して言えば、古見くんが言うように五条が封印されて以降(第91話)、展開がどんどん深刻化しているよね。シリアスでにっちもさっちもいかない鬱な方向に走っている。
もし最初からこの展開を描きたかったんだとしたら、とても上手な使い方だなとは思う。
テーマとは反れてしまうかもしれないんですが、シリアスな鬱展開って最近すごい求められているような気がするんですよね。
マジ? そうなの? 逆だと思っていた。
深刻であるほどTwitterで盛り上がるというか「これはもう終わりだ」みたいなこと言うの、みんな好きじゃないですか。
人気キャラが死ぬ衝撃って凄まじいんですよね。『呪術廻戦』で言えば、七海建人が死ぬとか、釘崎の顔がグチャグチャになるとか。
『チェンソーマン』もそうですが、現代はより衝撃的な展開を求めているんじゃないかと思っちゃうんですよね。
僕も最近その傾向が強いという点は同意です。ただ、これまでの作品でそういう展開がなかった訳ではないと思いますが…。
ここ10年というか2010年代の話をするなら、鬱展開がない、いわゆる「俺TUEE」で無双するような物語が隆盛を極めていたんだけど、最近は揺り戻しが起こっているかもしれない。「なろう」でも、「俺TUEE」から「追放」系というジャンルが流行っているように。さっきから「なろう」の話ばっかりして意味わかんないキャラになってませんか、私?(汗)
『ジャンプ』の話をしてください。
「キャラクターが死んだら深いんでしょ?」みたいな揶揄、『進撃の巨人』が最初に流行ったころ言われていませんでした?『進撃の巨人』というか、そのフォロワーみたいな作品が流行った時期とかに。
『進撃』の流れはある気がしますね。メインキャラクターが死ぬとやっぱTwitterのトレンドに入るし。
いや、キャラクターがよく死ぬのと鬱展開って全然違うと思うよ。カタストロフィみたいなものは求められているとは思うんだけど、それはむしろ鬱展開ではなくて…。
躁展開?
そう。完全に躁展開。物語をドライブさせる、スピード感でしかないと僕は思う。割と消費的に殺されがち。
誰かが死ぬと、キャラクターの名前がトレンド入りするっていう現象は、それこそYouTubeでいえば、(過激なシーンなどを)視聴者がスクショしてSNSにアップしてバズるみたいな感じですよね。
どこまで狙っているかはわからないですが、結果的にはインスタントな話題がつくられる構造になっていますね。
でも『チェンソーマン』みたいなインスタントな死のほうがむしろリアリティがあると思う。人間なんて死ぬときは誰でもあっけない。『鬼滅の刃』とかメインキャラはかなり劇的に死んでいくじゃないですか。回想シーンが都度入れられて、新たな設定が「死」のために補強されて。淡々と死ぬのと劇的に死ぬの、本当に演出のために死が使われてるのはどっちなんだろうと。
キャラクターを殺すのにはそれが生むデメリットを引き受ける覚悟を持って描いて欲しいんだよね。覚悟という点で『呪術』は五条を殺さないで「封印」したのは少しずるいとも感じる。
それを踏まえて考えてみると、『呪術廻戦』における五条の封印って、主要キャラがどんどん退場していくような昨今の躁展開じゃなくて、むしろ進むことも退くこともできない、一番しんどい鬱展開じゃん。そこにあえて挑むのは、僕はチャレンジングだなと思う。
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その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
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