古着・文学・漫画…北九州のポップカルチャーに触れる
北九州に多くのものをもたらした「森鴎外旧居」
北九州市は、文学と所縁の深い土地でもある。中でも「舞姫」などで有名な文豪・森鴎外の旧居に足を運んだ。 ドイツ留学経験をもつ医師であり、かつ軍人である森鴎外の赴任は当時かなりセンセーショナルな話題だったそう。そんな森の話を聞くため、多くの人間が旧居を訪れたそうだ。ぼくりり「この一文、すごく綺麗な文章ですよね。“綺麗な砂が降るだけの雨を皆吸い込んで、濡れたとも見えずにいる。” まさにいま眺めているここが舞台なんですね」
森鴎外の当時のおもしろいエピソードがある。小倉に着任してすぐのこと。人力車に乗ろうとした鴎外だったが、乗車拒否をされてしまう。理由は、定価分の料金しか払おうとしなかったから。当時の炭鉱ブームに沸く北九州の成り上がりの富豪は、定価の何倍もの賃料を払っていたのだ。借家は町の南側になっている。生垣で囲んだ、相応な屋敷である。庭には石灰屑を敷かないので、綺麗な砂が降るだけの雨を皆吸い込んで、濡れたとも見えずにいる。真中に大きな百日紅(さるすべり)の木がある。垣の方に寄って夾竹桃(きょうちくとう)が五六本立っている。森鴎外『鶏』より
森鴎外は、このことに対して新聞に「我をして九州の富人たらしめば(私がもし九州のお金持ちであったならば)」と記し、もっと文化や芸術・学問にお金を投じるべきだと、当時のひとびとのお金の使い方を批判した。森鴎外は、軍医として赴任した2年10ヶ月という短い期間ながら、当時の北九州に多くのものをもたらしたのだ。
死後もコンテンツとして消費されるということ…「松本清張記念館」
作家・松本清張も北九州市出身だ。北九州市立松本清張記念館は、彼の作家人生を紐解くことができる貴重な資料館だ。 ぼくりり「ネットですべてがアーカイブされてしまうとはいえ、死後も他人が自分の家を見てありがたがるなんてこと、普通はないと思うんですよね。森鴎外も、亡くなってから自分の家が文化的な価値を持って、多くの人に自分の人生や作品を分析されるなんて、夢にも思わなかったでしょうし。偉人になるのって大変なことなんだなぁと思います」。 ぼくりり「僕は自分自身をコンテンツとして消費されたり、自身の方向性や意図を分析されたり解釈されることに抵抗があるんです。僕と僕が生み出した曲はまったくイコールではなくて、全部架空の物語だと思って聴いてほしいです、個人的には」文豪ゆかりの地で、創作に対するぼくりりさんの本音もチラリと覗いた瞬間だった。
漫画好きのオアシスこと「北九州市漫画ミュージアム」
次に向かったのは「北九州市漫画ミュージアム」。SF漫画の不朽の名作、『銀河鉄道999』で知られる松本零士を名誉館長に、北九州市が運営する漫画の総合施設だ。一般社団法人アニメツーリズム協会が発表する、『訪れてみたい日本のアニメ聖地88(2018年版)』にも選出されている。 北九州市はメディア芸術創造拠点に向けた取組みを進めており、漫画文化の振興に取り組んでいるのだ。「北九州国際映画祭」や「北九州ポップカルチャーフェスティバル」なども開催された。 特にすごいのは、「読む」の閲覧コーナーだ。蔵書数は約5万冊と漫画喫茶並みで、入館料が1日400円、年間パスが2000円と破格の値段設定。漫画好きには夢のような場所だ。ぼくりりさんも大の漫画好きで知られている。漫画の話題になると話が止まらず、つい旅程をオーバーして滞在してしまった。 ぼくりり「年間2000円は衝撃です。ここに住みたい...。もはや読まなくても、いるだけで楽しいですよね」 「ネームもたまに描いたりします。作品としてアウトプットしたことはないけど、いつか漫画も描きたい」とぼくりりさんは創作にも意欲を燃やしつつ、名残惜しそうにその場を後にした。街の未来は、カルチャーがつくる
「街に人が戻って来ている」。そんな職員の方々の言葉は、多岐にわたる就業支援など行政の様々な取り組みが実を結んだ結果と言える。小倉駅に近い商店街を中心に、空き家や空きビルを利用した若者のためのリノベーション推進なども、要因のひとつだ。
「賑やかになっているという実感もありますし、町内で変えていこうという勢いがあります。特に若者が頑張っている」
古いビルを活用した文化芸術創造のためのクリエイターや、商店主のための拠点となっている「メルカート三番街」の古着屋「GUGU」で働く田中あやさんはそう話す。 ぼくりりさんの好きな作家は伊藤計劃(いとうけいかく)、楡周平(にれしゅうへい)。最近読んだ本は伊坂幸太郎の「火星に住むつもりかい」。ここでは、同行していた編集者のすすめで中島らも「今夜、すべてのバーで」をお買い上げ。
酒あるところに、人がいる。北九州を体現する「角打ち」
北九州市で絶対に外してはならないのが「角打ち」だ。角打ちとは、酒屋さんで買ったお酒をそのまま酒屋さんで飲むというもの。中抜きの卸し値で、しかも朝から飲めるという、にわかに信じがたいシステムだ。 最近少しずつお酒の美味しさに気づいてきたというぼくりりさん。20歳になってまだ1ヶ月もたたない彼と一向がお邪魔したのは「アサヒ屋酒店」。創業は昭和31年、約65年間北九州の呑んべえを見てきた、知る人ぞ知る角打ちの名店だ。 お客の95%が常連というのは間違いないようで、近所から集まった常連で賑わっているのが店の外からもわかる。一度中に入ると、家飲みと錯覚してしまうくらいにアットホームな雰囲気でお酒が交わされている。 「酒は売るほどあるからね」と迎え入れてくれたのは、北九州角打ち文化研究会会長の須藤輝勝さん。筋金入りの角打ち好きだ。 いまでも北九州市には150軒ほどあるという角打ちの店。昔は数え切れないくらいあったそうだ。東京では御徒町や新橋、浜松町にもあるというが、須藤さんは「やっぱり北九州の角打ちがいいね」と強く推す。「北九州ではひとりで店に入っても、こうやって輪に入ってワイワイできる。最初は他人でも、隣同士がすぐに一緒に会話をはじめて飲み始めるんですよ。『酒あるところに人がいる』。北九州の角打ちの醍醐味です」 ぼくりり「(福岡産のお酒を飲んで)すごく飲みやすい! ようやくお酒が飲めるようになったのが嬉しくて仕方なくて、いまいろんなお酒にトライしてるんですが、日本酒ってこんなに美味しいんですね!」
店主の吉田茂さんは、10年前にお父さんが亡くなり、5年前にお母さんが病気になってからは、日中は宝石商を、そちらが終わるとアサヒ屋酒店の店主としてカウンターに立ち、お母さんとともに店を支えている。
「いまはコンビニだってあるからね、単純にお酒を売る酒屋さんとしてはやっぱり難しい。このあたりにあった酒屋さんもなくなって、ウチだけになってしまったけどね。でもね、お客さんはお客なんだけど、利害関係のない友達みたいな感じ。これがたまらなく嬉しくて、仕事を終えてすぐにお袋を手伝いに来るんよ。お酒を飲みながら仕事できる。最高っちゃ(笑)!」 そして、「あら〜、テレビに出て、頑張りよるとね〜。お父さんお母さんは大変よ〜」と笑顔で迎えてくれたのは昭和11年生まれのお母さん。酒造の家に生まれ、酒蔵の息子だった旦那さんに嫁ぎ、その後小倉で酒屋を始めた。以来、この店で温かい料理を提供し続けている。
「北九州はだいぶ変わったね。前は八幡製鉄所と工場の煙がすごかったけど、本当にキレイになった。外で働く男たちの代わりに奥さんたちが子供のために、行政の方々と一生懸命取り組んだとよ」
お母さんはそう話す。北九州の婦人会が立ち上がり、自発的に大気汚染の状況を調査。そして、企業や行政に改善を求める積極的な運動を起こしたのだそうだ。結果、現在では公害を克服した街のモデルケースとして、世界から評価されている。 アサヒ屋酒店では、お母さんの部屋も盛り場に変わる。恐る恐る入ると、「東京からよう来たね! 飲まんね飲まんね!」と温かく迎え入れてくれた。「もう一軒行こうや兄ちゃん!俺らが北九州のうまい店に連れってってやる!」と盛り上がるまで時間はかからなかった。
お酒が人と地域の垣根を取り払い、生まれも、言葉も、生き方も異なる、数時間前まで赤の他人だった人同士が同じ話題で笑う。これ以上ない、お酒の楽しみ方だ。「いいお酒の飲み方をしているよ」と、ぼくりりさんに先輩風を吹かせて偉そうに語ってしまうほど、気持ちよくなってしまう。 ぼくりり「観光じゃ絶対にたどり着かないですよね。東京にはなかなかないし、不思議で新鮮な雰囲気でした。本当によかったです」
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和田拓也
Editor / Writer
1986年生まれ。サッカーメディア「DEAR Magazine」を運営する傍ら、「HEAPS Magazine」などWeb媒体を中心に執筆・編集を行っている。ストリートやカウンターカルチャーが好きです。
Twitter: @theurbanair
Instagram: @tkywdnyc
SIte: http://dearfootball.net
山口雄太郎
Photographer
1987年長野県生まれ。
神田外語大学外国語学部国際コミュニケーション学科卒業。2010年ナショナルジオグラフィック国際写真コンテスト風景部門優秀賞、2015年上野彦馬賞入選、2014年・2017年清里フォトアートミュージアムヤングポートフォリオ作品収蔵。
http://www.yutaro-yamaguchi.com/
1件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:1829)
いかんばい