連載 | #5 宇野常寛が語る『母性のディストピア』(全6回)

宇野常寛が語る『母性のディストピア』vol.5 押井守が仕掛けたハッキング

宇野常寛が語る『母性のディストピア』vol.5 押井守が仕掛けたハッキング
宇野常寛が語る『母性のディストピア』vol.5 押井守が仕掛けたハッキング
宇野常寛『母性のディストピア』連続インタビュー。ラストを控えた第5回目では、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』という「母性のディストピア」そのものによって高橋留美子を告発した押井守にフォーカス。

自身も抗えなかった「母性のディストピア」に対して、世界の真実を告発するための確信犯としてのテロリズムという別の戦い方を始めた押井守。それらは『機動警察パトレイバー the Movie』シリーズや『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』によって試されたものの、2000年代以降はその手法すら捨ててしまう。

何らかのかたちで父になろうとしながらというプロジェクトに挫折して、カリフォルニアン・イデオロギーに通じる内部からの変化に挑戦した押井守。その後、世界に対して無関心になった彼は、どのように「母性のディストピア」に対峙していくのか。

その行方から転じて、家長崩れの矮小な父性の軟着陸先として失敗しながらも、新しさを秘めていたモビルスーツ『新機動戦記ガンダムW』へとつながっていく。

刊行されている『母性のディストピア』(外部リンク)を片手に、紐解いていきたい。

取材/インタビューテキスト:碇本学 文:米村智水、おんだゆうた

高橋留美子的な排除に対するハッキングとテロリズム

──押井守作品について聞かせてください。宇野さんは押井守作品だと『パトレイバー』あたりから見始めた感じですか?

宇野 世代的な問題だろうけど『機動警察パトレイバー』の映画版の1作目、2作目から入った感じかな。

──『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の後に押井さんは『天使のたまご』、実写の『赤い眼鏡』『ケルベロス』を撮ってから『機動警察パトレイバー』シリーズが始まります。そこで「犬」的な世界から「猫」的な世界ということを書かれていますが、その流れで、皮肉にも少年たちの外部への脱出の意思が、それ自体が父になることだと押井は位置づけると書かれています。

押井さんもまた「母性のディストピア」に陥っていくということだ、と諦めたということですか?


宇野 諦めたというか、別の戦い方を始めたんだと僕は解釈している。「父」となって外部に出ること、つまり革命ではなくてハッキングとテロリズムの方向に行くということだよね。「母性のディストピア」=戦後民主主義からの外部への脱出であるというそれはまあ、全共闘的なロマンチズムだよね。

──彼自身はその世代だったんですか?

宇野 高校生活動家だった。全共闘で挫折している押井守はそれが不可能だと知っている。

──世界を変えることができないってことを知っている世代なんですね。

宇野 この世界の母性の外部へ出ることは残念ながらできなかったというのが『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』であり『赤い眼鏡』(外部リンク)。私たちは触れることはできないけれど、「外部」というのは確実に存在する。だからたとえ触れられなくてもその存在を意識しないと、人間は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のラムちゃんの高橋留美子的な排除の論理を行使してしまうので、モラルの問題として絶対的な外部というものが必要であり意識しておかなければならない、という立場だよね。

そんな押井が唯一、個人のモラルの追求ではなく世界に対する対峙方法として見つけ出したのが、世界の真実を告発するための確信犯としてのテロリズム。

不可能なシステムの外部への脱出を試みるのではなく、内部からシステムをハッキング的に攻撃することで、なんとか外部の存在を知らしめることはできる。その手法を試したのが『御先祖様万々歳!』だった。この手法を発展させたのが『機動警察パトレイバー the Movie』の帆場であり、『機動警察パトレイバー2 the Movie』の柘植(つげ)なんだよ。これは同時に押井守の映像論、アニメ論でもあるわけだ。『機動警察パトレイバー2 the Movie』で後藤隊長が柘植の意図を解説するじゃない? 

「情報を中断し、混乱させる。それが手段ではなく目的だったんですよ。これはクーデターを偽装したテロにすぎない。それもある種の思想を実現するための、確信犯の犯行だ。戦争状況を作り出すこと、いや首都を部隊に戦争という時間を演出すること、犯人の狙いはこの一点にある。」これってそのまま映画のコンセプトの解説でもあるわけだ。

そもそもアニメというのは基本的にメタ劇映画であるという高畑勲から受け継いだ押井守のテーゼなんだよね。すべてのものが、作家が意図したもの以外は存在しないから。

押井守『機動警察パトレイバー the Movie』amazon.jp

──完全なる虚構の世界ですね。

宇野 映像はリアルではなくリアリティ、つまり現実そのものではなく人間が共有しやすい現実感で人間にアプローチするもので、それをもっとも実現しやすいのはむしろ作家の意図以外存在できないアニメである、というのが彼らの基本姿勢。だからこそ優れたアニメ作家は、必然的にメタ劇映画的な意識を持たざるをえなくなる。だからこそ押井の描く「状況」を演出するテロリストは演出家としての押井の分身にもなる。

ここで結構大事なのは今でいう情報社会論だよね。押井守ってコンピューターカルチャーをわりかし早く自作に取り入れた人で、なんせバブルの頃に重機のOSがハッキングされてテロが起きるなんて映画をやっているくらいだからね。

押井守という戦後社会から情報社会への転換点

──すごいですよね。映画の『パトレイバー』が好きな人は、今起きていることが映画で描かれていたことだって言ったりしますし。

宇野 『機動警察パトレイバー2 the Movie』は映画論であり映像論になっていて、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『イノセンス』というのはネットワーク社会論映画になっている。これって単に流行りものを入れました、ということではないと思う。『母性のディストピア』本編で詳しく論じたけれど、ここで押井守が情報論的な視点を入れたからこそ、映像論と戦争論が重ね合わされた『機動警察パトレイバー2 the Movie』があり、ネットワーク社会下の身体と実存を主題にした『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』がある。

押井守『機動警察パトレイバー2 the Movie』amazon.jp

宇野 この本の前半は戦後社会論で、後半は情報社会論になっているわけだけど、その転換点にあるのが第5部の押井守論。第3部の宮崎駿論まで戦後的な「矮小な父」と「肥大した母」の問題の展開を現代的な視点で論じていて、第4部の富野由悠季論で「ニュータイプ」というモチーフとの関わりの中で情報社会論との接続が始まる。そして第5部の押井守論で完全に接続されている。戦後社会の成熟の問題はこの押井守論を挟むことによって情報社会論に接続されていくわけなんだよね。

「母性のディストピア」から脱出するために何らかのかたちで「父」になるというプロジェクトは押井守で完全に挫折した、というのが僕の見立て。押井はもっとも自覚的な作家だから、彼は外部に出て父になるのではなくてハッキングすることによって中から物事を変えていく、という発想を一時期だけ試してみるわけなのだけど、この発想はのちのカリフォルニアン・イデオロギーにすごく通じるものがある。

ただ、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』以降の押井守はこの手法を捨てている、というか別の主題に移行している。この辺も本に詳しく書いたので、そっちを読んでほしいけれど『イノセンス』のあたりでは、少なくとも世界に対しては無関心になっていると思う。良くも悪くもね。

押井守『イノセンス』

──素子がネットの中にいて見守る存在になっていくというのは、もはや「母性のディストピア」に包まれてしまった世界になっているということですよね。押井守監督作品では長編アニメーション映画だと最後が『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』になっています。

宇野 だいぶ前だよね。2008年公開だから約10年前。

──僕も劇場に観に行ったんですけどなんとも思わなかったんですよね。

宇野 いやあ、そうねえ。

──あの頃の繰り返される日常系の問題というか。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』も繰り返しているのではないかという話があったりとか、その先に描きたいものが見つからなかったんでしょうか?

宇野 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は押井さんがいろんなインタビューで言ってるけど、自分の思い通りに編集できなかったらしいんだよね。編集権が完全じゃなかったから本人的には不本意なところがあるみたい。だから『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』を押井守の責任として批判したりするのはフェアじゃない気もする。

押井守『スカイクロラ』amazon.jp

宇野 この作品は最後に加瀬亮が声優をやっている主人公の函南優一が日常の外側に超越性を見出すんじゃなくて日常の中に混在する超越性を見出すべきだと延々と説教するじゃない?

あれは人間ではなく人形、つまりキルドレ的な現代人がどう成熟していくのかっていう問題に対する押井守のかなり直接的なメッセージで、まあ、言っている事自体はすごく共感できるのたけど、ふたつ突っ込みがあって、一つはそれセリフで言うなよってこと。それまで90分ぐらいの映画の中で80分ぐらい経った後に出てくるわけ。じゃあ今までの80分ってなんだったのって思う。

もう一つが、だったらティーチャーと戦わなければいいじゃんって思うのね。だって、日常の中に小さな超越性を見出してポストモダン的な厭世観を克服できるんだったら外部と向かい合ってティーチャーと戦う意味ないじゃん。

──しかも、そのティーチャーは存在としては映画に出てきません。

宇野 やりたかったことはわかるんだけど、すごく破綻してる映画だと思う。やっぱりいろんなインタビューを読むと編集権が完全じゃなかったことをかなり気にしてるんだよね。

──自分がやろうとした方向にうまく舵を取れなかった部分があると?

宇野 本来、ディレクターズカット版をつくれるから劇場版は妥協してくれみたいな取引があったんだけど、それが幻に終わってしまっているらしいね。

自分の想像力を超えたところにある隔絶されたもの

──宇野さんは押井作品だとどれが一番好きなんですか?

宇野 それはさあ、もう『機動警察パトレイバー2 the Movie』に決まってんじゃん! 

──すごく声が大きくなった(笑)。本当に好きなんですね。

宇野 圧倒的に『2』だね。『アラビアのロレンス』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動警察パトレイバー2 the Movie』と、僕の中の三大映画に入るよ。

──あっ『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』も入ってるんですね。

富野由悠季『動戦士ガンダム 逆襲のシャア』amazon.jp

宇野 もちろん入ってるよ、絶対的な絶望があるからね。

──そこまで絶望が好きなのはどうしてですか?

宇野 結局さ、「他人の物語」を受け取ることの意味ってそこしかないじゃん。自分の想像力を超えたところにある隔絶されたものに出会う。そのことによって自分が絶対的に変化してしまうというその体験だよね。『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』ってまさにそれだったんだよね。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』って本当に日本の戦後的なアイロニカルな成熟という回路が破綻しているということを、最もラディカルに描いた作品だと思う。

モビルスーツという拡張身体を通じたアイロニカルな成熟すらもこの国は失敗してしまっている。しかも、それが江藤淳、村上春樹的な矮小な父性の問題というよりは高橋留美子的母権の問題が背後にあるっていう、圧倒的にグロテスクな構造を突きつけているわけだよね。

『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のヤバさはいまだにすごいなと僕は思うし、だから富野由悠季作品だったら一番は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』かな。あとは『機動戦士Vガンダム』。で、押井守は『機動警察パトレイバー2 the Movie』だね。中二のときに観たんだけどもうハマりすぎて、後藤とか荒川のセリフを常に暗唱しているヤバい15歳だった

──それはヤバいし……怖い。

宇野 いまだにセリフが言えちゃうもんね。

──当時の衝撃があるからずっと押井さんを観続けているし作品について考えている部分もあるんですか?

宇野 そうだね。

──押井さんが都市のことやネットワークについて描かれたことが宇野さんにかなり影響を与えてますか?

宇野 そりゃあそうだよ。僕はOS──オペレーションシステム──という言葉を中学生のときにTSUTAYAで借りた『機動警察パトレイバー the Movie』で知ったからね。当時はWindows 95も出てなかったよ。

──公開が1989年だからギリギリ90年代にも入ってなかった頃の作品ですよね。ネット関係の仕事をしている人がわりと『機動警察パトレイバー the Movie』が好きっていうのはかなり聞くんですがその影響なんでしょうか、世代というのもあるかもしれませんが……。

宇野 いや、そういうわけでもないとは思うんだけど、逆はあったろうね。『機動警察パトレイバー the Movie』を観て、押井のこうした感性を支持していた団塊ジュニアのオタクたちは、同時にこの本で指摘した新しい教養人としての「オタク」のポテンシャルを秘めた存在でもあったってことだと思うよ。ただ当時、彼らの関心の中心にあったのはむしろゲームかなと思う。

──押井守論の『アヴァロン』についてのところで「広大なネットワークに覆われたこの現実はもはやゲームと等価である」とゲームについても書かれています。

宇野 『アヴァロン』はまあ、画づくりがやっぱり今見ると、いや当時もかな。少し安っぽいので評価が低くなりがちだけど、僕は大好き。

押井守『アヴァロン』

──『アヴァロン』は最後に現実的なことがガバッと出てくるんですよね?

宇野 隠しステージがただのワルシャワだったという話。

──「現実かい!」みたいな。

宇野 もちろん本当のワルシャワかどうかはわからないというか、たぶん違うんだろうけど、要するにあそこで押井守が描きたかったのは来るべき完全にネットワーク化された社会はゲームと等価であるということでしょ? 外部を失った世界で生の実感なんてあるわけがない、という。

──「世界はネットワークに接続された無数の物語たち──ラムの胎内」と書かれています。

宇野 要するに出口がないということ。一つの物語から脱出できないというよりは、脱出したと思ったら別の物語の中だった、という状態だね。

──「仮にある胎内から脱出できたとしても、そこは『絶対的な現実」ではなく別の物語の胎内にすぎない』と続けて書かれてもいますね。ここでは書かれていない作品もたくさん撮られてはいます。長編アニメが近年なくて他の作品は書くほどのことがないファンコミュニティ的なものしかないと言われています。

宇野 最近の押井さんはセルフパロディ的なものが多いからね。でも、舞台版『鉄人28号』は傑作。

──2009年に上演されてますね。なんでこれを押井さんがやったんでしょうか?

宇野 横山光輝が生きている頃にアニメ版の企画があったものが亡くなった後に流れ着いて舞台版になったらしい。

──これって『機動警察パトレイバー2 the Movie』的なものなんですか?

宇野 いや、そういうものではないね。『鉄人28号』の設定を活かした押井守なりの戦後論というか、60年代論だね。碇本くん的には宮崎、富野、押井と3人とも思い入れのない作家だと思うんだけど誰を一番観てるの?

──僕は初めて映画館で観た作品が『耳をすませば』(脚本・宮崎駿)だったんですけど、映画館で映画を観たっていう体験としては覚えているんですけど……3人ともまったく思い入れがなくてガンダムといえばSDガンダムになっちゃうし。

宇野 でも、そういう人に読んでほしいよね。

──そんな感じで読んでいるので知らないことがたくさんあってこれがこうなっていたんだとかワクワクしながら読めましたね。アニメを見てなくても読める本になっていると思います。

宇野 うん、アニメを見てなくても読んでわかるというふうに僕もかなり意図的に書いているからね。『リトル・ピープルの時代』は結構売れた本だったんだけどさ、決定的な弱点として村上春樹と平成仮面ライダーを全部読んで見てる人間なんて日本で本当に僕ぐらいしかいないんじゃないかって。

──それはかなり限られてしまいますね。

宇野 本当に僕以外いないんじゃないかなって思った。

──平成仮面ライダーだと昭和仮面ライダーとは客層が変わってますよね、イケメンっていうことの需要だったり。本が出た後に「アメトーーク!」で仮面ライダー芸人とかが放送されたりして認知度も上がっていきました。そういう変身する前の部分がクローズアップされていきましたよね。40歳ぐらいのお母さんだと子供と一緒に見てましたみたいな人も多いです。

中身はないが新しい『新機動戦記ガンダムW』

──イケメンつながりで先ほどの続きとして『新機動戦記ガンダムW』について聞かせてもらってもいいですか?

池田成『新機動戦記ガンダムW』amazon.jp

宇野 『新機動戦記ガンダムW』は、放送時は好きではなかったんだけど、今思うとあれはすごく重要な作品だと思う。同じ1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』があってこちらの方が旧ガンダムというか富野由悠季的なんだよ。シンジくんはアムロやシャアの直系なんだよね。

──そして『機動戦士ガンダムF91』のように母親のつくった機体に乗るっていう。

宇野 そう。『エヴァンゲリオン』っていろんなもののハイブリッドだし、宮崎駿や富野由悠季や押井守の血が、もう全部入っている。庵野秀明は二次創作的な作家だと半ば自分でも言ってしまっているわけなんだけど、特に碇シンジというキャラの造形がロボットアニメとすれば圧倒的にガンダムの影響下にあるわけなんだよね。だから本当にアムロとシャアがあんな死に方をしてウッソがカテジナにあんなにも否定されまくった結果、シンジくんがストレートにエヴァに乗れるわけがないんだよ。

──乗りたくないと言うしかない。

宇野 それはアムロとシャアがあんな死に方をしたせいなんだよ、シンジくんがあんなにもあそこで戸惑うのは。『エヴァンゲリオン』の方がはるかに富野ガンダム的なんだよ。当時「ガンダム」というタイトルを受け継いだ『新機動戦記ガンダムW』の方がまったく違うものに生まれ変わっている。

オープニングの映像を見てほしいんだけど、いきなり全能感丸出しのイケメンの少年がなぜかタンクトップでアイドルっぽいポーズをとっている所から始まる。主題歌はTWO-MIXという声優の高山みなみがやっていたユニットなんだけど、その主人公のヒイロくんをはじめとするイケメンが5人出てきてドヤ顔するのね。「聖闘士星矢ガンダム」とも言うべき中性的な美少年の5人がガンダムのパイロットっていう。

──BLとかの二次創作にももちろん繋がって人気が爆発していく。

宇野 その方向でも実際にかなり大きな人気になっていく。全能感バリバリの美少年だからね、もう少年の成熟や大人への憧れだとか全然なくなっている。基本的にはイケメン同士の関係性のストーリーになっていて、ロボットアニメの意味が完全に変わってしまった。そこにおけるモビルスーツは完全にイケメンのアクセサリー以上のものにはなっていない。

ある意味感動するのが、戦争をやっているのにそれがイケメン同士がイチャイチャするための背景でしかない。ナレーションとかで状況が説明された後にイケメンAとイケメンBがフルートとバイオリンで何十秒も合奏するという謎のシーンがあった。僕は『新機動戦記ガンダムW』は作品としてすごく中身があるかどうかと言われたらそこまでは思わないんだけど、『エヴァンゲリオン』は古いものをいかに終わらせるかというものだったのに、『新機動戦記ガンダムW』はまったく新しいゲームを始めてしまったことは間違いない。

──その影響がその後の「機動戦士ガンダム」シリーズにも出てくるという。

宇野 ただやはり『新機動戦記ガンダムW』にはさ、戦争と平和みたいなテーマも一応出てくるんだけど、表面をなぞっているだけで実際は何もないわけ。イケメンがイチャイチャするための背景でしかない。この本の第6部で書いたことなんだけど、それは家族的な縦の関係ではなくて友愛的な横の関係であるわけで、現代的な主体の在り方だと思うわけね。でもそれがまったく政治性と接続できていないということが問題。正確には政治性ではなく、公のこと、世界の問題だね。世界と個人、公と私、政治と文学が断絶してしまっていて、大きなものと小さなものの新しい接続回路が獲得できていない問題であって、そこに今の日本のアニメーションの課題があると思う。それをやろうとして失敗したのが『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』(外部リンク)だった。

──消費の仕方が『新機動戦記ガンダムW』から完全に変わったんですね。

宇野 まあ、変わっちゃうし、これってある意味で正しいといえば正しい。つまりアムロとシャアがあんな死に方をしたら家長崩れの矮小な父性の軟着陸先としてのモビルスーツなんてプロジェクトはその時点で失敗してるわけなんだよ。生みの親が自分でそこは破壊してしまったわけだしね。同年に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』は古いロボットアニメを引きずっていたんだけど、『新機動戦記ガンダムW』は中身はないけど新しかった。

──今でも通用するものとしてありますからね。先ほどの「SDガンダム」の話に戻しちゃうんですが、「騎士ガンダム」シリーズには騎士ウイングガンダムが出てくるじゃないですか。あれは設定だと守護天使ヒイロが変身するっていうそれまでの人間とガンダムが同じ二頭身で同居している世界ではなく、ヒイロはその顔のままで登場してさらに変身して騎士ウイングガンダムになるというそれまでのシリーズではありえなかったような設定があるんですよね。

宇野 それはいい指摘だね。まあロボットの意味の違いだろうね。アムロにとって拡張身体がファーストガンダムだったから騎士ガンダムをアムロが操縦するっていうことはガンダムが擬人化された時点でありえないんだけど、最初からビルドゥングスロマン的な使命を帯びていない『新機動戦記ガンダムW』だからこそSDになってもヒイロとウイングガンダムが同一化できるんだろうね。

──あれを見たときにすごい違和感があって。最初の「騎士ガンダム」だとアムロが主人公じゃなくて擬人化された騎士ガンダムが主人公なんだっていう驚きがあったのに、ウイングガンダムぐらいになると同一化しちゃうんだなって思いました。

宇野 だから『新機動戦記ガンダムW』って結構大事な作品なんだよね。父から与えられた機体に乗り少女を経て父になるという回路はまったくなく、最初から全能感バリバリで成長する必要がないって世界なんだから。

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宇野

評論家

1978年生まれ。評論家。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多数。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。

碇本

ライター

『水道橋博士のメルマ旬報』にて「碇のむきだし」、『週刊ポスト』にて「予告編妄想かわら版」連載中。

連載

宇野常寛が語る『母性のディストピア』(全6回)

評論家・宇野常寛の6年ぶりの単著『母性のディストピア』は、宮崎駿、富野由悠季、押井守という3人のアニメーション作家に焦点を当てている。 彼らはどのようにして「母性」と対峙したのか、その精神性は社会にどのような影響を与えたのか。 「政治と文学」から「市場とゲーム」へと価値観が移り変わっていく社会を示唆した本作をさらに深く読み解くための、超ロングインタビュー。

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