前回から引き続き、富野由悠季が作り上げてきた膨大な作品を中心に語りながら、彼がどのように母性と対峙していったのかを考えていく。 富野の代表作「ガンダム」シリーズだけでなく、『ブレンパワード』や『聖戦士ダンバイン』、そして「SDガンダム」まで話は広範に渡った。日本が誇るロボットアニメの巨匠の可能性と限界とは?
10月26日に刊行された書籍『母性のディストピア』(外部リンク)と併せてご覧いただきたい。
取材/インタビューテキスト:碇本学 文:米村智水
収録されなかった「『SDガンダム三国伝』と彷徨える男性性」
──『母性のディストピア』内で、『ガンダム Gのレコンギスタ』は物語が消滅している、と書かれていましたね。宇野 消滅と言うか、まあ空中分解だよね。いや、よく見るとちゃんと話は繋がっているんだけど、そうは見えないでしょ? なんでそうなっているかっていうと、「現実がそうだから」というのが富野由悠季のコンセプト。要するにアニメという究極の虚構を使って、現実のような乖離した状況をわざわざ作り上げている。それが『Gのレコンギスタ』という作品。現実がそうであるように、登場人物の会話から状況を推理するしかない。 ──それがどこのことなのか、何のことなのか非常にわかりにくい作りになっています。
宇野 要するに、情報化されきった現代の愚民というか──Googleに調教されきった人たちに、ちゃんと考えなければ理解できないものをぶつけてやりたかったんだと思う。現代は誰もが情報発信能力を持つわけで、人間の意思が加わって整理されている情報が溢れている。その結果、単純化されたわかりやすい情報にしか人間が対応できなくなっている。
誰もが情報発信能力を持つことによって、物語る力も上がっていると思う。その結果自分の物語を語りはじめた人々の発信で、世界が覆われた状態になっている。ただ、「物語る」って本来はそんなに生易しいものじゃない、ってことなんだろうね。ネットの脊髄反射的な、安易な知性でこの物語を受け止められるか?っていう、まあ富野由悠季の嫌がらせみたいなものだよ。
──何回見ても話がよくわからない脚本になっているんですよね?
宇野 メモを取りながらじゃないとわからない。やりたいことはわかるんだけど、一方で富野さんはもっと他にやるべきことがあるだろうとも思う。
──今回『母性のディストピア』では触れられていない富野作品についてはどう考えていますか?
宇野 『閃光のハサウェイ』をはじめに、いくつかの小説作品も大事なんだけど、今回は分量的に入れることができなかった。80年代は多作だったから『戦闘メカ ザブングル』や『重戦機エルガイム』については除外していて。またどこかで機会があったら書きたいね。
──1983年の『聖戦士ダンバイン』については書かれていましたね。ヒロイック・ファンタジーの先駆け的な作品だったという話もありました。
宇野 うん、『聖戦士ダンバイン』を中心に書いてます。本編では書き忘れたんだけど、実は漫画版『風の谷のナウシカ』にかなり対抗意識があったみたいなんだよね。 ──あっ、だからああいう世界観なんですか。
宇野 どうもそうらしい。
──西洋の世界観を舞台にしたファンタジー作品というと『ロードス島戦記』も有名です。
宇野 それよりも5年ぐらい早い時期にやっている。『ドラゴンクエスト』ですら1985年の発売だからね。
──早すぎますね。そして『聖戦士ダンバイン』のころから男性性がなくなっていく。
宇野 女性の登場人物の多くがオーラバトラーに乗る。その前の『戦闘メカ ザブングル』あたりから、男児の拡張身体だったはずのアニメロボットに女性が乗っていく。
──登場する女性キャラクターの多くがロボットに搭乗するって、富野さんぐらいしかあの時代にはやってないんですよね。僕は『聖戦士ダンバイン』って、ビジュアルしか知らないので。
僕が子供のころに見ていたロボットアニメを思い出すと『魔神英雄伝ワタル』や『魔動王グランゾート』とかなんです。乗り込むんだけどガンダムみたいなリアル志向ではない、ちっちゃい機体でした。 宇野 『魔神英雄伝ワタル』や『魔動王グランゾート』はSDガンダムの影響を受けていて、ロボット自体も擬人化されてきていたよね。
実はこの本のベースになった連載「政治と文学の再設定」には『SDガンダム』論があった。そもそも日本のロボットアニメというのは奇形的なものなんだよ。人間が乗り込んでいる時点で、本当はロボットでもなんでもない。少年の成長願望そのものだからね。モビルスーツというのはさらにその奇形で、自分の拡張身体なのに一方で工業製品として描かれる。そうすることで思春期のゆらぎを描いていたんだけど、『SDガンダム』ではさらにその等身を落として擬人化するという、何重ねじれているのかわからないものになっている。
──そうですよね、『騎士ガンダム』シリーズだと、さらにおかしなことになってSDガンダムがさらに大きな合体したSDガンダムに乗り出しましたよね。
宇野 そうそう、機甲神エルガイヤーとか聖機兵ガンレックスとかね。SDガンダムをSDガンダムが操縦するっていう謎の世界に突入していって(笑)。あれってめちゃくちゃ面白くてそこについて書いた原稿があるからどこかで評論集とかに入れたいなと思っている。 ──それすごく読んでみたいです。
宇野 「『SDガンダム三国伝』と彷徨える男性性」というタイトルで、機会があったら出版したい。イベントでこの本を買ってくれた人のための付録にしてもいいかもしれない。SDガンダムってすごくおもしろくてさ、メインデザイナーの横井孝二さんにメルマガでインタビューしたんだけど、やっぱり鳥山明のデザインワークの影響が大きいみたいなんだよね。つまりアニメロボットとジャンプ的想像力との結合でもあったりする。
──あと時代的には『ビックリマン』もですかね。
宇野 うん、80年代の児童カルチャーとジャンプとガンダムとの悪魔合体という非常に面白いものになっている。僕もSDガンダムは好きなんだけど、そのSDガンダムというバンダイ的なものにライバル玩具会社が対抗意識で制作したものが『魔神英雄伝ワタル』や『魔動王グランゾート』なんだよね。
──宇野さんってリアルタイムで見てました?
宇野 僕は小四とかでリアルタイムで見てたよ。
──僕も小学校に入ったぐらいで見ていました。「ガンダム」というと僕はSDガンダムのイメージになっていて。プラモデルのBB戦士と、カードダスの騎士ガンダムとか。最初に「円卓の騎士」という言葉を知ったのも騎士ガンダムなんです。
宇野 皇騎士(クラウンナイト)ガンダムとか灼熱騎士(バーニングナイト)ガンダムF91とかの世界だよね。
──僕らぐらいだと西洋の物語が入ってくるのが『ドラゴンクエスト』や『騎士ガンダム』みたいなもので、大きくなってあれの元ネタってこれだったんだって知ることがありましたよね。
宇野 元の連載にはあった『SDガンダム』論は外伝的な形で出版しても面白いかもしれないね。
──そもそも『SDガンダム外伝 騎士ガンダム』でしたからね。
宇野 そう、SDガンダムのさらに外伝という(笑)。最近だと『SDガンダム三国伝』とかあるけど、あれは本当に意味がわからない。曹操ガンダムとか劉備ガンダムとかね。
いつかその辺も出版したいと思ってる。集英社がいいといえばすぐにでも電子書籍で出せるんだけどね。
──それらの『SDガンダム』シリーズという作品はどのような点が画期的なのでしょうか。
宇野 日本的な妖怪として、モビルスーツが再定義されているんだと思う。
──『SDガンダム』って僕らが小学生の時代にあって、中学生とかに入ると下の世代は『ポケットモンスター』が流行っていきました。今だと『妖怪ウォッチ』がそうかもしれません。その低頭身のキャラクター文化っていうものは脈々と続いていますね。
宇野 それは『コミックボンボン』『コロコロコミック』的な小学生児童カルチャーの系譜だね。そういった話も一回書いてみたいなとは思ってる。
──そこから大人になった僕たちが受けた影響もあるでしょうしね。80年代に一斉を風靡した『ビックリマン』みたいなキャラをさらに擬人化していくみたいな感じがありました。
宇野 『SDガンダム』は言ってみれば「カッコかわいい」の美学。二頭身だからこそのカッコよさを、僕らは感じていたはずなんだよね。
──「SDガンダムBB戦士」というプラモデルシリーズも人気で、立体で作れるというのも大きかったですね。説明書に短いコミックのようなものがついていて、『ビックリマン』シールの後ろに書いてある物語の断片が描かれていて、ストーリーはもっと広くて背景があるんだよって教えてくれていました。
宇野 そうやって想像力を喚起させていたよね。
──その結果、二次創作が作りやすくなったのかなと。
宇野 うん、おもちゃってやっぱり遊ぶものだから。基本的に二次創作ツールなんだよね。
──今もバンダイで『SDガンダム』の復刻みたいなものとか出ているのってターゲット的に僕らの世代ですよね。
宇野 思いっきりね。僕も「聖機兵ガンレックス」とか大人の財力を使って買っちゃったもん。
アニメからアイドルへ「進化」する母性
──『Vガンダム』では男性的な自己実現を挫折し、肥大した母性同士が争う世界で、すべての戦いを女性に肩代わりさせる物語だと本に書かれていたのですが、これってアイドルを応援している現代に通じていると思ったんです。宇野 うん、まさに富野由悠季の天才的な予言性だよね。たださ、事態はもっと複雑で今のライブアイドルグループのファンたちの自意識としては仮託してるんじゃなくて一緒に戦ってる、なんだよ。アイドルが「私がんばります」って言ってるけど、選挙で実際に金を払っているのはオタクたちだからね。
昔、僕も秋元康論を書いたけど、歌詞の一人称が「僕」である。つまり、あなたたちの代わりに私たちが戦いますじゃなくて一緒に戦いますってことなんだよね。それはAKB48グループが参加型アイドルとして成功していることであって、守る/守られるという関係とはちょっと違うんだよね。
──AKB48グループは共闘という感じなんですね。
宇野 だからこそあれだけ動員力があると思う。「母性のディストピア」の高度なシステム化だよね。受け取るだけの物語から参加するゲームに進化している。
──資本主義的なものと一緒になっていく。
宇野 あそこにいる一体化の要求──一緒に戦いましょうっていう気持ちは村上春樹的な「代わりに戦ってもらう」でも、江藤淳のような「守ってやる」でもない第三の欲望なんだよ。だから「母性のディストピア」の第三形態というか、それを超えた厄介なものに進化していると思う。第一部の戦後社会論の言葉で言い直すと「情報技術の支援によってより肥大した母性のディストピア」だね。性的なねじれの問題はここでは相対的に後退し、システムがそれを肩代わりしているから別の表現のほうがいいのかもしれないけれど。
──極めて現代的なということですね。
宇野 現代的でもっとも進化したものだと思うね。まあ、もちろんアイドルと言ってもいろいろなグループがいて、いろいろなファンがいるわけだけど、外側から見ているほど、参加型のライブアイドルを支えている人たちは自分が父であるという感覚は強くないと思う。
──父になるという欲望はないんですね。兄妹だとかそういう感覚に近いんでしょうか?
宇野 自己同一化の欲望が一番近いんじゃないかな。擬似恋愛と自己同一化のアマルガム。だからこそ質が悪いし、だからこそ批判力もある。
──だとすると『母性のディストピア』で書かれているような中間的なもの?
宇野 いや、また違う問題系のものだよね。アイドルの問題はどっちかというと現実優位の問題だよね。モニターの中の虚構である他人の物語を受け取るよりは、モニターの外側の現実である自分の物語の方が現代では優位になっている。だから自分が「参加できる」「現実」が支持を集める。アニメからアイドルへのサブカルチャーの中心の移動というのは、要はそういうこと。
──参加していることで自分の物語とアイドルの物語を同居させているわけですね。
宇野 そう、個人が発信能力を持つことと他人の物語が飽和したことで、相対的に自分の物語を語ることが楽しくなってしまった。ただ、個人の物語というものは凡庸だから、いかに自分の物語に他人の物語を組み込んでいくか、ドラマチックな他人の人生にいかに関わるか。
他人の物語に自分が参加することで半ば自分の物語と化すこと。それが一番求められていてそれがライブアイドル。それを当時システム化したのがAKB48で、どちらかというとその問題系だね。これは僕はあまりセクシュアリティの問題だとは思っていない。男女逆にしても成り立つからね。というか、秋元康がやったことというのはどちらかと言えば女性ファンを対象にした男性アイドル市場が培ってきたものを男性ファン向けの女性アイドル市場に応用したものだよね。
宝塚とか、今だったら2.5次元の舞台だったりとか、女性市場の文化を男性市場に応用したものなんだよ。もちろん、これは江藤淳的「厄介オタ」や村上春樹的「説教厨」のような、僕が『ゼロ年代の想像力』の頃から批判し続けている困ったオタクたちを擁護してるわけじゃない。そういう奴らには僕は軽蔑しか感じない。わかっていると思うけど、一応断っておくとね。
開放的な母性を模索する
──『母性のディストピア』内で批判されていた『ブレンパワード』についても聞かせてください。宇野 この作品についてはネガティブに書きすぎたかもしれないってちょっと反省してる。『ブレンパワード』は言ってしまうと「母性のディストピア」は不可避なんだからもう母性と和解しないといけない、ということ。その試み自体は面白いんだけど、その手段としてニューエイジ的なものが前面化してくるとしんどいわけだよ。 ──1998年の作品なので、オウムの時代でもありますね。
宇野 オウムはダメだけど、ちゃんとしたニューエイジは大丈夫なんだというのが『ブレンパワード』なわけであって。
そこでもっと多面的に描ければよかったと思うんだよ。あそこで富野由悠季が描いた母との和解のイメージは結構魅力的だと思うんだよね。ただ、片方では母との和解というのは「母性のディストピア」の復活でもあるわけね。結局「僕はお母さんに認められないと救われません」という世界観だから。
あのオープニングもヤバいじゃない。女性が全員裸で乱舞しているという(笑)。いまAmazonプライムか何かで見れるから、見て欲しいんだけど、あれは富野由悠季が理想の母性を描くことによってララァ的な排除の論理に引きずられないような関係性を模索したんだと思うんだよ。
これは書けばよかったんだけど、要はメインヒロインの宇都宮比瑪と、サブヒロインのネリー・キムがいるわけだ。富野由悠季作品の常でサブヒロインは死んじゃうわけなんだけど、主人公の勇にとってはそっちが本命なわけ。そしてエンディングでメインヒロインとサブヒロインの二人が和解するのね。高橋留美子だとラムちゃんはあたるとしのぶがセックスすることを許さないじゃない。
──好きとか言ってたり、遊んだりしてるうちはいいよってぐらいの。
宇野 ネリーのことを忘れられない主人公の勇を、ヒロインの比瑪が受け入れるというラストなんだよね。あれは富野由悠季的な母性との和解のイメージというか、要するに夫=子を胎内に閉じ込めない開放的な母性のビジョンというのを彼なりに模索していたんじゃないかな。ただの浮気願望のような気もしなくもないけど(笑)。
──心には別の人がいても受け入れますよっていう感じに聞こえますね。
宇野 ヒロインの比瑪ちゃんっていうのは戦災孤児を何人か育てているわけ。つまり富野由悠季なりに家族から擬似家族、拡張家族への発展を模索しているんだと思う。そうすることによって排除の論理を体現する母性ではなく、開放的な母というものを模索しようと思っていたのが『ブレンパワード』だったと思う。ニューエイジ的なモチーフの連発に愕然とする一方で見ていてすごく心地いい作品。富野由悠季が試行錯誤する開放的な母性というものが非常に心地いい作品なんだよね。
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宇野
評論家
1978年生まれ。評論家。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多数。企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。
碇本
ライター
『水道橋博士のメルマ旬報』にて「碇のむきだし」、『週刊ポスト』にて「予告編妄想かわら版」連載中。
連載
評論家・宇野常寛の6年ぶりの単著『母性のディストピア』は、宮崎駿、富野由悠季、押井守という3人のアニメーション作家に焦点を当てている。 彼らはどのようにして「母性」と対峙したのか、その精神性は社会にどのような影響を与えたのか。 「政治と文学」から「市場とゲーム」へと価値観が移り変わっていく社会を示唆した本作をさらに深く読み解くための、超ロングインタビュー。
1件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:2882)
>そもそも日本のロボットアニメというのは奇形的なものなんだよ。
言ったもん勝ちか?意味不明の断定口調に草不可避。逆張りで目立ってみました かよw
80~90th国産テクノロジーの原光景は無視かw
原初の宇宙の戦士まで奇形とは恐れ入る;w
ガイジかコイツは😂wwww(その上でなにも無い。)
Kaの言及も知らないか?何の疑問も無いはずだがこのモグリ野郎は何なんだよwww
ホントに「チョロい商売」をお持ちで…🖕😂
>三国伝』とかあるけど、あれは本当に意味がわからない。
何言ってんだコイツ。白旗上げるなら絶版にしろよアホ自慢野郎。w
─こいつの事だから元祖、レイアップ🇯🇵/とバンダイコリア感ビシバシの三国伝(中身の無いシナリオ、建前でも児童向け作品⇒キャラクターに必然性の無い【露骨で下劣な性描写】─崔とか某井筒🇰🇷の作風なんだが)
─これらを「クソいい加減に」シタリ顔で同列で語って勝手に異次元妄想出しそうだな😂
もうツッコむ気も失せたよクチから詐欺師野郎w
最後に述べるなら、この手のエセ倭リベが
作劇の『ビジネス的側面』をロクに一切触れないのは何だ
そして日本民族の「🌍地球レベルで見た民族性」
─クソ甘ヱ根性と叙情過分・理性性の欠如
こいつはあと何十年経てばシタリ顔で書くね?
河合隼雄「母系社会 日本の病理」と上記の一行。
─こいつの絨毯模様みてぇな文字の羅列と紙束は「一気に反エコロジー極まる燃えるゴミと化した」と思うが。
フロイトの妄想癖だけを猿真似する無能。
二酸化炭素増やすな。🖕👩💼何度も言う。「テメーは何様だノイズメーカー」
もこうとかシバター未満のカス