光の描写のこだわり、リアリティの追求
──東地さんが背景美術をつくるうえでのこだわりについてお聞かせいただけますか?東地 美術的なことだけでなく精神的なことでもあるのですが、すべては光と影で構成されているというのが根本にあります。光を描きたいんだったら影を描かないと光を表現できない、影を描きたいんだったら光を描かないと影を表現できない。そういった当たり前の法則で背景を表現するのが自分の仕事かなと。
真っ白な画面を見たって人は、その光を眩しいとは思わない。けれど、真っ黒な中の空間に一点の光があると眩しく見える。そういう考えが一貫してあります。影をきっちり描くということは、光をきっちり描くのと同義なんですよね。画面的にはキャラクターに影響するのでつくるのは大変になるんですけど、大変になったとしてもやるべきであると私は思っているんです。 映り込みに関しても同じですね。すべての目に見えるものは、他の物質の影響を受けてこの色になっているという考えです。何も特別なことや、こういう風に見せなきゃって思っているわけじゃなくて、背景を表現していくと自然とこうなるんです。
例えば、窓に外の風景がなんとなく映り込んでいたりするじゃないですか。それを描くことによって、周りの風景が思い浮かぶというか、無意識に見ている人の感覚に届くんじゃないのかなと思うんですよ。 『花咲くいろは』に出てくる喜翆荘でも、奥の廊下を中庭の光が照らしてるんですよね。その窓の外の光が映り込むわけです。映り込みを描くことによってその奥を想像できる。そういうところまで意識を広げておくんですよ。
特に『花咲くいろは』では徹底してたんですが、朝日が昇る場所から日が落ちる場所まで、全編を通して絶対にブレてないんです。ここに立っていたらこう見えるというビジョンが頭の中ででき上がっていました。 『TARI TARI』からはちょっと趣向を変えて、こっちから光差した方がかっこいいんじゃないかという時は、(方角にこだわらず)嘘をついて良いんじゃないかという考えになりましたが。
──東地さんのように光の演出をこだわっている方って、他にもいらっしゃるんですか?
東地 もちろんこだわっている方は大勢いるんですけど、今のアニメ業界のシステムだと、背景だけでなく撮影さんが特にこだわりますね。入射光とか撮影スタッフの方で入れるパターンが他のところでは多いんじゃないかな。
ただ、私の場合は監督と同じスタジオ内で一緒につくっているからこだわることができる部分があります。監督と撮影さんは別々の場所にいるので、監督の意向が撮影スタッフにまでなかなか反映されない場合もありますしね。
だから、私は監督の意向を汲み、背景のプランを出して、それを採用してもらうという仕事をさせてもらうこともありますし、監督の意向を私の方から撮影さんに細かくお願いしてたりするケースもあります。 『花咲くいろは』のオープニングのこのカットって電車が通過しているだけなんですが、ものすごく複雑な構造になっているんです。
まず、1番奥に直射が当たっている実景がありますね。後ろの背景はほとんど動かないんですが、手前のビルは電車の動きに合わせてずれていくからブック分けが必要なんです。その手前に電車の壁があって、その次に初めてキャラクターたちがいるセルが来ます。
つり革も揺れるからブック分けする必要がある。それから手前の窓に映り込む空とビル。このビルもずれていくからブック分けしなくちゃいけない。そして、最後にタイミングよく太陽がチカチカするようにフレア(太陽光などがカメラのレンズに当たった時に画面内に発生する光の漏れ)を置くという指定を私の方でさせてもらいました。
手前から奥まで、これだけの素材に分かれてるんですよ。たった数秒のカットですが、それを実現するのにこれだけの工程が必要なんです。こういう複雑な工程っていうのは、監督が横にいて直接連携を取らないとなかなか実現できないものです。
──こうした背景のコンセプトも監督さんの意向が大きいのでしょうか?
東地 もちろん、監督の望みを叶えるのが私の仕事なので。とはいえ、P.A.さんで参加させていただいた作品の監督さんたちはけっこう任せてくれました。 これは、『花咲くいろは』で私の方から監督と演出さんにこうしたら良いんじゃないですかってアイデアとして出したものです。きっと、菜子が一生懸命これを可愛くつくろうと思ったんだろうというところから想像して、でもこのポスト自体は古くてアクリル板も劣化していて、中に薄くチラシが入っているのが見えたり。
実は、最初は菜子以外の家族の名前を設定していなかったんですが、この表札を描く時に演出さんと一緒に決めたんです。
──すごく生活感がありますね。こうしたディテールにも気を配っているんですね。
東地 剥がれたシールなどの細かい部分はレイアウトに描かれているわけじゃないので、別に必ずしも描かなくても良いんです。でも、もっとあんなものやこんなものがあった、ってお客さんに言ってほしいなと。その積み重ねが、作品の豊かさに間違いなくつながると思うんですよ。
『凪のあすから』に恋をした
──それでは、先ほどご紹介した『凪あす』への思いについて詳しくうかがえればと思います。東地 『凪あす』は、今でこそ評価をしていただいているものの、放送当時は決して成功作ではなかったんです。放送が終わった時には、自分の心の中に敗北感を感じていました。 普段は、背景美術をつくる時には感情を入れないっていうスタンスでやっているんですよ。作品の価値はお客さんが決めるものである、という1つの信念が自分の中にあって。自分がどういう感情で気持ちを込めて描こうが、それとは関係なくお客さんは作品を評価する。だから、絵に対して想いを乗せず、精神的には客観的なポジションで仕事をやっていたんです。
ところが、『凪あす』では感情が入ってしまった。実は、最初は『凪あす』の美術監督はやりたくなかったんですよ。なぜなら、ファンタジーが苦手だったから。
──特にどういうところが苦手ということなんでしょうか?
東地 人が映像で感動する、空気を感じるものってなんだろうって考えた時に、自分の記憶と照らし合わせて共感すると思うんですよ。例えば、学校とか教室とか、下校風景、街、お堂、そういうところをよくモチーフとして扱う作品って多いですけれど、そこは意識が共有しやすいんですよ。 例えば『Angel Beats!』の体育館とかですね。体育館ってどんな学園生活を送っていた人でも記憶があるじゃないですか。体育靴のキュッキュする音とか、バスケットボールのバンバンって音とか、あのツヤツヤした床を見た瞬間に匂いと記憶が蘇る、というのは舞台装置をつくる上でものすごく有効な手段なんですよ。
ただ、それがファンタジーとなると、見たこともない場所を描かなくちゃいけないわけじゃないですか。そうするとそこで情緒を出してって言われても、いやいや海の中で情緒ある風景なんて見たことないよっていう(笑)。
だから、最初は『凪あす』の依頼から逃げていたんですが、やらなきゃいけなくなってしまって。それでどうしたかというと、もう裸ん坊になるしかないなと。思春期の妄想や空想した記憶を持ってくるしかないなって。
そうやって10代の精神で描き始めると、お客さんが良し悪しを100%決めることなのに、自分の気持ちが絵に乗っちゃうじゃないですか。それはもう恋愛と一緒で、その乗った気持ちに対してお客さんが、いわば彼女が反応してくれなかったらショックですよね。 ──自分の作品に恋をしたと。
東地 そうそう。評価される作品のはずっていう超個人的な思いを入れてしまったんですよ、タブーを犯したというか……。放送当時、『凪あす』の反応は自分の想像より薄かった。それでクヨクヨするという経験を、まさか40歳を超えてするとは思わなかった(笑)。あんなに感情が乗っちゃったのは、ここ最近では初めてでしたね。
過酷な作業現場だった『Charlotte』
──そういった背景に自分の感情が乗るというのは、その後の『Charlotte』にも続いたのでしょうか?東地 『Charlotte』は従来のスタンスに戻ったかな。『Charlotte』でも自分の感情を乗せていたら、自分は完全に描けなくなっていたと思います。
『凪のあすから』以降は、実を言うとものすごく絵が描けなくなっちゃったんです。けれどそんな私でも仕事をいただけた。じゃあ美術監督としていかにクオリティーを維持するか、ということにすごく徹した作品でした。
現実問題、『Charlotte』って『Angel Beats!』と比べてスケジュールがとてもタイトだったんです。クオリティを維持するために個人的なエゴ、「自分の絵で見せたい気持ち」は早々に切り捨てました。『TARI TARI』で美術監督補佐をやってくれた宍戸文香さんに来てもらって、彼女にボードを手伝ってもらいながら、私は背景のブラッシュアップをする。とにかく本番の背景は崩さないために、役割をキチンと決めて取り掛かりました。 2人がかりで美術作業を分担しないと毎週300枚も捌けない。おまけに、最終話は世界中を回るわけですよ。あれは背景スタッフも大変な労力で、世界を回るってことは、それまでの話数のボードがひとつも使えないってことなんです。まあ過酷な状況でしたね。
そうやって、とにかくお客さんの期待を裏切らないようにすることに徹したのが『Charlotte』でした。だから、感情を乗せたのは後にも先にも『凪あす』だけですね。
──今後も『凪あす』のような作品に携わることがあると思いますか?
東地 どうですかね……作品とは出会いなので何とも言えないですが。でも、私の根底にある、人に感動、共感してもらいたいという想いは多分消えないので、「この作品が完成するなら死んでもいい」みたいな作品に出会えたらそれは幸せですよね。
人が感動するポイントってのは人それぞれで、10人いれば10通り感動のポイント、作品のスタイルがあるわけです。自分の場合は14歳の頃に出会った『王立宇宙軍』に心震えたわけですが、やっぱりそれくらいの年頃の感受性って大事だと思うんです。
そんな思春期の感動の仕方って、その時にしかできないんですよ。歳を重ねると、純粋なままだと心がもたないからどんどん弾力のある殻をつくって丈夫な心になっていくけれど、その分、繊細な何かがあったとしても何も感じなくなってしまう。大人ってそういうものだと思うんです。
だから、落としたらガシャンって割れちゃうような繊細な気持ちを持った思春期の時にしか味わえない感動ってあるんですよね。それに響く作品の世界観を描き続けたい、というのがずっと自分が持っている気持ちです。
背景は宝石を入れるための宝石箱
──東地さんにとって、アニメにおける背景の役割とは何なのでしょうか?東地 基本的に、アニメはキャラクターあってのお話なので、いかにキャラクターを魅力的に見せるかというのは常に考えています。例えば、一生懸命描いた背景でも、キャラクターが魅力的に見えるんだったら遠慮せずにバンバンぼかしてくれ、と言うことは多いです。
これは私の考え方なんですが、アニメにおける背景のポジションって、サッカーに例えるとゴールキーパーなんです。点を入れるのは前線に立っている選手たちであって、ゴールキーパーが活躍する試合は負けるんですよ。鉄壁のキーパーがいてこそ、安心してフォワードは攻められるわけですし。
別の例えで言えば、物語やキャラクターが宝石だとします。じゃあ背景は何かというと、その大事な宝石を入れる宝石箱かなと。もちろん肝心なのは中身ですが、その中身を演出する意味で箱は大事なんです。
背景も一緒で、その作品の世界観に合っているか、その作品そのものが輝いて見えるかどうかなんです。
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東地和生
美術監督
1974年生まれ
『サクラ大戦 活動写真』『攻殻機動隊S.A.C.』『パプリカ』などの美術監督補佐を経て、現在はP.A.WORKSの作品を中心に美術監督をつとめている。
代表作に『Angel Beats!』『花咲くいろは』『凪のあすから』など。
Twitter:@higashiji
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