さすがに中学生は『チェンソーマン』読んでないでしょう。
いやいや読んますよ。はっちゃけた悪魔とかデンジのキャラ付けも中学生は大好きだと思います。僕が中学生だったら永遠に何の悪魔が最強か考えてました!
他に好きなシーンだと、アキくんが死ぬ瞬間もめちゃくちゃエモかったですよね。
的確に心をえぐってきますよね。
死ぬことそのものよりも、銃の悪魔に憑りつかれてしまったことが確定してしまう、扉を開けたシーンが一番びっくりしたかな。「アキくん……」って。その扉を開けるに至るまでの描写も緻密で、本当に上手くて。
あそこはその前のエピソードで、開けちゃダメだって言われて終わるんですよね。
その後かかってくるマキマさんの電話の絶望感たるや。あと他にも好きなシーンは、マキマさんの家でいちゃついてたら、パワーがケーキを持って来て、パワーが瞬殺されるところも。
怖っ!て。『チェンソーマン』はホラー漫画ではないんだけど、底知れないマキマさんの存在感はめちゃくちゃ怖かった。なんで急に殺すの!?って。「恐怖が悪魔の強さの根源」という設定にある通り、マキマさんの怖さの描き方は最高に説得力があった。
悪魔の描き方がほんと怖いですよね。
マキマさんの「ママみ」「バブみ」から考える現代性
次のテーマは、にいみさん持ち込みの「デンジとマキマの関係性って何だったの?」です。
どういうことでしょ?
『チェンソーマン』ではパワーやマキマさん、レゼとデンジの関係みたいに、いろんな愛の形も描かれてたじゃないですか。
俺は、デンジとパワーは欲望とかじゃなくて、ほんとに親愛の情としての家族になったんだと思って読んでたんだけど、マキマさんとデンジの関係だけはずっとよくわかんなかったの。恋愛なのか、何かの思慕の情なのかがあんまりよくわかんなくて。
ええ? でもやっぱ、エッチなお姉さんとやりたいっていうのはあったんじゃないですか。マキマさんは自分なりにデンジを利用してた。で、デンジはマキマをエッチなお姉さん(異性)だと思ってた。
俺も基本的にはそれだけだと思う。女王様と奴隷というか。マキマさんはデンジ自体に興味ないからね。だからこそ、デンジは最後のマキマさんとの勝負に勝つことができた、という描き方だった。興味がないからデンジの存在に気付けなかった。
そうか。でも、マキマさんは「チェンソーマン」への憧れを持っていた。それに藤本タツキが以前ダヴィンチのインタビューで、「最近はすごいドキュメンタリーを見て、結構それに影響受けているんだ」と言ってて。
それで、孤児院のドキュメンタリーを見た時に、「あらゆる子供たちが母親を求める。母親の顔なんて覚えてない、存在すら知らないっていう子たちも、なぜか母親を待ってるんだと。それがすごく印象的で、デンジとマキマとの関係性になぞらえたところがある」みたいなことも言ってて。
「最初に見た人を親だと思う現象」ね。
そう。それを踏まえて、デンジにとってマキマは母親でありかつ恋愛の情を抱く対象とも考えられるじゃん? そこがどうなっているのかちょっと不思議だったかな。
私は割とストレートに受け取りましたけどね。「男の人は女の人の中に母性を見る」みたいな。
母性もそうでし、ドMってことでは! 誰かに支配されたい、庇護下にありたいっていう欲求は自然と誰にでも全然あるよ。その逆も然り。ぼくも完全にそうですもん。オギャッオギャッ👶
(なんやこいつ……)今、「バブみを感じてオギャる」みたいな用語もあるじゃないですか。そういうことかなって。
それはそれでもう古くない…?
わりといまだにみんな「ママ~~!」って言ってるじゃん!
安心感もそうだし、自分で何かを決断できないとか、強い目標とかが特にない人にとっては、マキマさんのような強い存在に支配してもらったほうが、お互いにとってメリットがあるんじゃないかな?
むしろ、庇護下に置かれたい・守ってほしいというのは非常にマジョリティーな精神性だと思う。デンジに目標らしい目標が無いのも、その感覚が反映されている。
「マキマさんの言うことを聞けばいい」みたいなこと言ってましたもんね。
そうそう。だから相性は良かったはずなんだよ。
今話してて思ったんだけど、『チェンソーマン』の変わってるポイントとして、最終的にデンジはマキマさんへの思慕の情みたいなのを、食べることで乗り越えるよね。
デンジはもともとは馬鹿でいい、むしろそれが幸せなんだぐらいに言ってたけど、やっぱり自分の頭で考えなきゃどうにもならないってことに気付いて。
そうだよ! 反知性的な感覚が正義になったり、大部分を占める少年漫画でそれを主人公に言わせる、それこそがカウンターになってる。
考えることを手放したら実は幸せにならないって気づいて、最終的にどんな方法でも殺すことができないマキマさんを食べることで抹消するっていう方法を自分で考案して実行する。
父性を殺すことで乗り越えていくっていう話はよくあるけど、男の子が母性を殺すことで乗り越えるって話はあんまりないなと思った。
ぼくは父性・母性では考えてないけど。デンジは単純に真理に気づいちゃったわけじゃん。
自分は何も考えてなかったけど、その行動のせいですべてが裏目になって、考えるようになって、そうするとマキマさんみたいな支配欲求との対立構造が生まれる。それに気づいてしまったからには倒すしかない。
そう、だから俺はそれがすごい新しいなと思った。要は母性に甘えるでもなく、父性を殺すでもなく、母性もある種暴力的に乗り越える。
それこそ「バブみ」みたいなところでとどまればいいのに、その先をすごい暴力的な形で解決したっていうのが、今この時代に描かれる必然性があったなと。
なるほど!!! その観点は面白いし、新しいと思います。
僕は母性の支配を乗り越えるっていう意味だと、新しくはないと思いました。
いきなり否定されました。
ジャンプでいうと『約束のネバーランド』とかもそうじゃないですか? 支配してくるマザーとそれから逃げる子どもたちっていう。
確かにそういう手法を取ってる漫画もあったね。ただ、暴力を行使して克服するという意味では、『エヴァ』とかみたいに同性同士で描かれがちじゃない?
ここまで暴力的にしか母性を乗り越えられないということは、ある種「母性も暴力なんだ」っていう考えの裏返しなんだと思う。その感覚はすごい現代的だなと。
父性をどう乗り越えるか、みたいなのは王道的で文学的な物語の主題で、そういう意味では古典的だもんね。現代では真綿のような母性とどう対峙するか、というほうがリアリティがあるのかもしれない。
今は毒親とかヘリコプターペアレントも社会問題として注目されてますし。その感覚とか時事性もモチーフになってるんですかね。
なるほどね、親による支配って結構ありますからね。
母親って最初は子どもにとっては優しさも含めて絶大な支配力を持ってるじゃないですか。そういう支配に対する怒りには普遍性があって、それを取り込んでるんじゃないですかね。
私はその「ママみ」を乗り越えるというテーマよりは、もっと単純化して初恋の終わりみたいなものを『チェンソーマン』からは感じましたね。最初に好きになった人を好きじゃなくなるっていう少年の成長的な話。
デンジは年上のエッチなお姉さんに憧れて、性欲の対象として好きになる。その後親愛を覚えて、愛について考えて、初恋を乗り越えるみたいな話かなと思ってます。
それも思います! 「マキマさんって、こんな味か」って一人ごちる、見開きコマの寂寥感。ある種の青春ともいえなくもない……。
食べるってことは生きるためにすごい重要なことだからね。(※この座談会の収録語に発売された短編集『22-26』のあとがきでまさにこの辺の話も掲載されていました!)
あそこはわりとタツキ先生の性癖かなと思いましたけどね。皆さんにとってマキマさんはどんな存在ですか?
ここまで聞いた上でも、僕はマキマさんが一番好きっす👶👶👶👶
藤本タツキが描き続ける”喪失”と”通り魔”の意味
改めて、藤本タツキ先生の作品全体やその作家性を語っていきたいと思います。じゃあまずは、「デビュー作から最新まで、描かれ続けた喪失と、その向き合い方」というテーマです。
僕が持ってきたテーマですね。
なんか小難しいな!
藤本タツキの創作理論とかにも繋がっていきそうですね。それはさておき、"喪失"はかなり彼の作品を通してのテーマになってると思いますね。
そうだね。最初の読み切りから『ファイアパンチ』『チェンソーマン』『ルックバック』まで、どの作品にも「通り魔」とか突然の人類規模での終焉みたいな、喪失や不条理が出てくる。
多くの作品で、それらとキャラクターたちがどうやって向き合っていくのかが描かれてるんですよね。今回改めて読み返してみて、彼の漫画の根底にあるテーマは、そういう理不尽や喪失とどう向き合っていくのかということなんじゃないかなと思った。
向き合ってましたか? 例えば『ファイアパンチ』の主人公・アグニは妹の死という喪失に向き合ってはいなかったように見えました。彼は最終的に、妹の死を克服はできなかったと思います。
どう克服したかじゃなくて、ずっと忘れないでいるみたいなのも、向き合い方の1つの描き方だったんじゃないかなと思うんですよ。
アグニは同じことを繰り返してるように見えて、妹の面影を持った人と出会って、一瞬和やかな時間を過ごしもしたけど迷い続けてるんですよね。
中には喪失を忘れられずに囚われちゃってる人もいるっていうことを描いていたんじゃないかなと。あとは、ドマが言ってたように、短期的に食人で飢えを凌いでも、その文化が残ると犠牲と禍根が生まれてしまう。作中では実際、めちゃくちゃ復讐を繰り返すじゃないですか。
『ファイアパンチ』は、喪失や不条理に向き合い切れず、その連鎖に囚われ続ける人の話だと僕は思ってます。
他の作品はどうなんですか?
『チェンソーマン』では、ポチタ(チェンソーマン)の能力が、食べた相手の存在を消してしまうというものなんですよね。みんなの記憶からも存在が消えてしまうって、喪失の中でも最上級じゃないですか。
そんな喪失の象徴みたいな力を持ったポチタは誰かに抱きしめて欲しくて、不条理の象徴みたいな支配の悪魔(マキマ)も対等な関係を欲してた。
『チェンソーマン』では、デンジと彼らの関係を通して、喪失や不条理そのものと向き合ってたんだと思います。
そうだね。
大切な人を亡くしたりとか、どうしようもなく理不尽に奪われたりとか、そういうマイナスから物語がスタートしてる。
抗えない事故みたいなものに不幸にして遭遇した時に、どうやってそこから立ち直ってるかっていうところを物語の起点にしてるような印象は受けますね。
短編集『17-21』のあとがきに、震災を経験してボランティアにも参加したけど、自分たちが1日作業しても全然瓦礫が片付かなくて、無力感を味わったって書かれてて。
そういった経験が作品にすごい色濃く出てるんじゃないかなと思います。
震災の話をすると、藤本タツキ先生は秋田県出身で、東日本大震災の影響をモロに受けてた東北で青春時代を過ごしてる。震災後もすぐに山形県の美大に入るわけですが。そのバックボーンと、さっき僕が言った作中に描かれる「事故」「通り魔」みたいなものは、リンクする。
最近、『ジョジョリオン』でも宮城県出身の荒木飛呂彦がかなり震災を比喩して「良いことをしてても悪いことしてても、どんなに徳を積んでも積まなくても、結局最悪なことは起きる」っていう話をやっている。震災的な不条理にどう対峙していくか。
震災と同じく、通り魔がいきなり学校や電車に現れるのって、被害者側には全く原因がないけど、起きる時は起きてしまう。避けようがない何かにぶち当たった時の無力感や治癒みたいなのは強く意識してるはず。短編集『17-21』読んでても、漫画自体はまだ学生時代に描いていたやつだから若さがすごい見えるんだけど、とにかく通り魔が出てきて。僕が読んだ感想は「マジで通り魔めっちゃ出てくるな」でした。
へえ~。私、短編集はまだ追えてないんです><
4本のうち半分は通り魔が出てきます。
『ルックバック』で通り魔の描写を巡ってインターネット上ですごい議論されたけれど、藤本タツキ先生にとっては話題性やショッキングな演出を狙った一過性の表現ではなく、ずっと前から自分の中で象徴的なモチーフとして扱っていたことがわかるんです。
通り魔も、チェンソーマンでいう「銃の悪魔」も避けられない災害の象徴ということですよね。
そうです。これは完全に短編集のあとがきを読んでから気づいたというか──誰でも読めば露骨に気づくあとがきなんだけど──だから「通り魔」は震災のメタファーみたいに言えるのかもしれないなって思います。震災的・通り魔的な自分の選択とか徳ではどうにもできない不条理・不幸・理不尽が物語の起点にある。
『恋は盲目』っていう生徒会の会長が役員に告白しようとするギャグ漫画にも通り魔が出てきて。その時は勢いで通り魔を無視して追い返すみたいな感じの解決をしてました。
そうやって抗えない災害にどう向き合っていくかがテーマになっていると。
震災に加えて、悲しい事件があった時も同じく無力感を感じたって書いてましたね。漫画家は福祉とか社会の安全とかに直接はつながらない仕事なので。
どう幸福を描いたとしても、被害にあっている人を現実的に助けるのは難しいということですね。
でも、そういう不条理に対するアンサーは藤本タツキ先生の中ではたぶん出てる。それが『ルックバック』や『ファイアパンチ』でも描かれた創作論なんだと思う。映画だけが、漫画だけが、つまり物語や想像力だけがその不条理や不幸を越えていける──というかそうじゃないといけない、という覚悟すら感じました。
そうですね(なんか話がめっちゃガチになってきたぞ……!)。にいみさんとかコバヤシくんは、藤本タツキさんのテーマは何だと思いますか?
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その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
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