『鬼滅の刃』と『チェンソーマン』──同時代のヒット作が描く、対照的な死の扱い方
次はよねさんのテーマ「劇的な死/日常的で無価値な死」ですね。どういうことでしょうか。
序盤の話題だった”喪失”の話とも関係するんですけど。話に挙がった『鬼滅の刃』と『チェンソーマン』はすごく良い対照的な作品になってるなと思って。
ほうほう。
連載時期も被っていて、『チェンソーマン』と『鬼滅の刃』が連載してた当時って、毎週月曜日になったら『チェンソーマン』か『鬼滅の刃』、どっちかの関連ワードがトレンドに入ってたんですよ。
その超人気作品のそれぞれに特徴的なのが、キャラクターの死の描き方でなんです。『鬼滅の刃』はどんな登場人物とかでも、敵キャラでも味方キャラでも、すごい死に意味を持たせるというか。
「劇的な死」っていうことですね。
そう。「こういう背景を持っていて、こういうことを考えてたキャラクターが、こういう無念な、非業な、しかし価値ある死を遂げました」みたいな──死をすごい尊い大事なイベントであるかのように、説明的に描く。
一方の『チェンソーマン』は真逆で、キャラクターの掘り下げとか行わないまま、どんな物語を持っていたのかもよくわからないまま、主人公とも特に仲良くならないまま気づいたら死んじゃう。
でも現実っていきなり地震とかが起きてバッて何も考えられないまま死んじゃうし、電車に乗ってたら急に隣の人に刺されたりする──その時、別にその死に意味や価値なんてない。ただの不運で悲しくて、それだけです。でもそっちの方が俺は共感できると言うか、リアルで真摯だと思う。
私も死のリアルさというか扱い方は、私も藤本タツキの作品のすごさではあるかなと思います。
『チェンソーマン』で一番好きなのもそこなんです。死の描き方があっさりとしてて、淡白な感じ。事実として「死んだ」という事象だけがあるというか。
姫野先輩が「幽霊の悪魔」に全部持ってかれるシーンとかマジで怖かったです。先輩は死を覚悟して「私の全部をあげるから」ってお願いしたのに、全然ダメで。
そのダメな感じがむしろ良い。少年漫画は本当にやりがちな展開なんだけど、自ら命を投げ出すことでいちいち目先の問題が解決していたら、死ぬことがいいことみたいになっちゃう。
『チェンソーマン』に出てくるキャラクターは、本当に容赦なくあっけなく、しかも情けなく殺されるっていうのが徹底してていいなって思います。
そうですね。徹底して、死が無意味だし怖く描かれてますよね。だからこそ、アキくんが姫野先輩の仇を討った時に、タバコに「気楽に復讐を」って書いてあったのがすごくきました。
僕は、この死の描き方は冨樫義博ともすごくリンクしてるなと思います!
また冨樫!!! 『鬼滅の刃』との対比で言うんだったら、別にフィクションでは現実をそのまま描く必要はなくて。
もちろん現実では当たり前のように人は死ぬし、意味なんかないし、劇的な死なんてない。だけど、現実はそうじゃないからこそ、死を特別なものとして描こうっていう欲望は物語の一つの大事な役割ではあって。
藤本タツキがそう描いてないのは間違いないけど、『鬼滅』は『鬼滅』としてそういう物語としての役割を全うしてると思う。
そう思います。
にいみさんの話を聞いてて思い出したんだけど、センセーショナル・過激なものってそれ自体がSNS時代におけるマーケティング手法になる部分があるじゃないですか。炎上マーケティングといえばわかりやすいけど。それは漫画でいえば「どこでどう人気のキャラクターを殺すか」という話にもなると思います。
物語の中でどうやって情感たっぷりで残酷にキャラクターを殺すのかっていうのは、漫画の中で重要な技法になっている。『鬼滅の刃』は死を徹底的に劇的に描くことによって、バズった漫画だと思う。
そう思います。
だから死んだら毎週、「誰だれが死んだ」ってネットで書かれた。でも『チェンソーマン』はその間逆のやり方で、こうやってバズってたのがすごいなと。
それもよく分かる。そして新たに分かったことがある。俺が『チェンソーマン』で早川アキを好きなのは、彼の死がすごく特別な死として描かれてたからだろうな。
え?!
明らかに序盤から、「噛ませ犬」というか、死亡フラグだらけで。さらに早川アキだけ、ちゃんと死ぬ前にみんなで仲良く旅行に行くエピソードがあって。
でもそれでも、死ぬシーンなんて直接描かれてないし淡白だと思うよ。
アキくんが最初死んだことがわかったのも、銃の悪魔の被害者一覧に名前が入ってたからでしたね。作中のトップ5に入るであろう重要人物をこんな殺し方するかあって思いました。
いっぱい載ってる一般市民の中のたった一人でしかないっていうね。
早川アキに関しては死ぬことは約束されてたし、あえて死の瞬間を描かないことがむしろその死の特別性を際立たせてたと思うけどね。
うーん……。でもそれはかなり漫画読み慣れてる人の「この人は死ぬ」だとは思いますよ。それは漫画のキャラクターの立て方であって、死の描き方は、確かに『鬼滅』の特別な死と、日常的な死という対比は成立するとは思いますね。
早川アキの死に関しては、「未来の悪魔」から死亡宣告を受けていたり、とか「呪いの悪魔」から余命宣告を受けていたりして。そういう意味だとやっぱり他のキャラクターよりは丁寧に、デンジに対する喪失を作るための物語上の仕掛けはあったなとは思います。
その上で『チェンソーマン』だから、お約束の死亡フラグすらもすかしてくるのかと思いきや、正面からそれを回収していったなっていう驚きが俺にはあった。だから、早川アキが人気が出るのは一番自然だと思う🤗
なるほど〜〜!
デンジにとっての特別な死という描き方ではあったんですけど、その死もただの一つの死でしかないよっていう。漫画としては、『鬼滅』は全ての死に意味があるみたいな感じは確かに対比としてあるなっていう感じはありますね。
そこに希望を見いだす人もいると言うか、フィクションの一つの手法ではあるとは思いますね。
それでも俺は良くないと思う。死を美化したり、「死ぬことがかっこいい」みたいになるのはよくない。100歩譲って良しとしても、それが商業的なフックになるのは悲しいっす。死を劇的に描くのは、倫理的ではないと思う。非倫理的な『チェンソーマン』こそ倫理的です。
よねさんの言ってることはわかるけどね。『鬼滅の刃』は大正時代のお話だったじゃん。大正時代はあの後、戦争になだれ込むわけよ。一億玉砕で、ある種お国のために死ぬっていうことを美しく思わないといけない時代だったから、その時代背景を踏まえて『鬼滅』やあの世界に生きる彼らにとって、死は未来に繋がる尊いものだと描かれるのは、ちゃんと物語的な必然性があると思う。
物語にはそれぞれの必然性があって、そこに沿った作劇が倫理的じゃないとは一概には俺は言えないと思う。
大正とか昭和とかで、死が特別なもの、意味のある神聖な物になったのが、災害とか通り魔とか、そういう事件を経て、死なんて無意味なんだ、無意味に突然に現れるんだという時代性が出てきた。『チェンソーマン』がそれを反映してるっていうのは、納得感はありますね。
時代背景ごとにリアリティがあるという話だけど、ここは現代だからね!? 俺はやだよ。死ぬ時に走馬灯みたいに過去の人生を思い出したりとかして、「自分の人生、意味のあるものだった」みたいな。そんな感慨って嘘じゃん。事故で死ぬ人とか、殺される人とか、そんなこと考えられないし、それは自分かもしれない。
そうですね。死が劇的なものになってしまうと唐突な死がある人が報われないというか。
だからその死の描き方すらも、震災とか事故とか、そういうテーマ性と繋がってるのかなと思う。
それはそう思いますね。
”無意味な死”については、時代の要求はあるような気がしてます。ガンダムで『鉄血のオルフェンズ』という作品があったの覚えてますか?
懐かしい(笑)。
あの作品もかなり死が淡々として、無意味なものとして描かれるんですが、あれが始まるまでガンダムって、淡々と人殺す主人公が求められてた部分があるんですよ。
戦争なのに「人を殺せません」みたいに嘆く主人公にリアリティがなくて、「兵士だったら淡々と人を殺せ!」みたいな意見が一部に根強くあって。
へえ。
ガンダムにおける不殺主人公アンチみたいな派閥は一定数いて……。僕は『鉄血のオルフェンズ』が好きな層はチェンソーもサメも好きだし、『チェンソーマン』が好きだと思うんですよ。
さっき言ってた”屈折した自意識”の話ですね。
そうですね。そういう共通点も少しあるのかなって思います。
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その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
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