世界的注目を集める新海誠監督の映画最新作『天気の子』。
本作は『君の名は。』に引き続き高いエンターテイメント性を保ちつつも、描かれる内容について賛否両論を呼ぶなど話題には事欠かない。 インタビュー後編では、セカイ系の文脈から語られる『天気の子』や、これまで一貫して“運命”をモチーフにしてきた新海監督の胸中について聞いた。
取材・文:森田将輝 取材・編集:新見直
新海誠(以下、新海) これまでのファンにはもちろんのこと、多くの方々に届けたいと思っていましたが、SNSでいろんな面白がり方をしていただけているのは嬉しいなと思っています。
中には「2000年代の美少女ゲームのようだ」と言っている方々いて(笑)。僕は昔、美少女ゲームのOP映像を制作したこともあったのですが、当時を知っている30〜40代、あるいは50代くらいの方が『天気の子』を楽しんでくれていることに同じ時代を生きてるんだなという嬉しさを感じます。
その方々の感想で「本当は夏美ルートと陽菜ルートとが存在して…映画版はトゥルーエンドだ」といった意見もSNSで見かけるのですが、その気持ちも分からなくはないんですよね。選択の分岐が見えるみたいな(笑)。面白いこと言ってるな、と思いながら読ませていただいてます。 でも世間では映画を観ても、SNSでつぶやかない人の方が大半のような気がしています。
30人のクラスでいうと10人くらいはSNSなどで感想を書いてくれているのかもしれないけど、20人は映画を見ても「良かった」とか「つまんなかった」の一言で済んでしまう。
映画全体の観客の割合として、圧倒的多数は後者のような気がしているんですよ。
だから、コアなファンに向けて美少女ゲーム的な文脈をどうつくるかとか、そういうことは全く考えていないです。結果的にそういう文脈でも楽しめるものになったのなら嬉しいですけど。
いい意味でも悪い意味でも、映画を観るということは単純に体験として「面白かったのか、つまらなかったのか」という動物的な反応が一番大事だと思うんですよね。
「映画が伝えたいメッセージに賛同できなかったのに、思わず泣いてしまった」といったことを言われるのが一番嬉しいし、何かが出来たような気がします。
──結果的に30〜40代に届いたということもそうですし、作品として「セカイ系の統括」という捉え方もされているようですが、それに関してはどう思いますか? 新海 そういう意識も、自分には全くありませんでした。今自分が一番気になっているテーマや、みんなが共有しているような気がする空気感の描き方が、結果的にセカイ系に見えると言われてるだけだと思うんです。
たとえば2000年代初頭にセカイ系は批判も含めて、「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」という言われ方をよくされていました。
でもなんで「社会」がないのかと考えると、2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかったからだと思うんですよね。
僕も『ほしのこえ』などでそういう作品をつくってきましたが、リーマンショックや3.11よりも以前のことなので、「日本経済は衰退していくけどなんとなくこのまま終わりなき日常が続くんだろう」みたいな気分がみんなの中にあったと思うんです。
もちろん社会や経済が重要じゃなかったということとは少し違うんですが、そういう気持ちの時はわりと「社会」が透明な存在だったから作品のテーマにはなりづらかったんだと思うんですよね。つくり手の人たちも社会の見え方が薄い映画をほとんど本能的につくっていたんだと思います。だから僕も、当時から「セカイ系をつくっている」という意識はありませんでした。 僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。
デフォルメされたものであったとしても「警察」がずっと出て来るし、主人公たちは「お天気ビジネス」を通して様々な人と出会い、働いてお金を得ようとするわけで、それはそこに「社会」がないと出来ないことです。
僕のつくるものがそういうものになってきているということは、僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚があるからこそだと思っています。
だからアニメーションの中でも必然的に「社会」があることが必要になってきている。今はそう感じています。
新海 今回の作品をつくるにあたって意識していたことはたくさんありますが、「世界はこういうことがあって今の形になったんだよ」という、昔話でいう起源譚のようなものを意識していました。
民間伝承とか口承文学として伝わっている昔話であるとか、昔から続いてる風習とか、そういうものを作品の題材にしていくというのは、特に『君の名は。』から意識的に行っています。
例えば、作中にはお盆のならわしや鳥居、あるいは「巫女」という言葉が物語のモチーフとして出てきます。そういうものは田舎で育った自分が子供の頃から接したり目にしてきたりしたものなので、ある程度実感を持って掘り進められるという気持ちがあって、モチーフに選んでいます。
西洋風のファンタジーや近未来のサイバーな世界をモチーフにする方もいると思いますが、僕は前作と今作は、そのように自分の実感をどうやって映画の中で扱っていくかを考えてやっていました。
──新海監督は、中沢新一の『アースダイバー』は読まれましたか? Twitterで本棚に写っていたのを拝見しました。
──『アースダイバー』は史実だけでなく、それこそ神話とか伝承といった要素さえ連綿と受け継がれ、我々の住む地図を規定しているという趣旨ですね。
新海 そうですね。スカイツリーや東京タワーといった東京の電波塔が建っている場所が、昔は霊的なところだったという記述など、なるほどと思ったりしました。
ただ『アースダイバー』を読んだのは脚本が書き終わったぐらいの頃だったと思うので、直接的な影響はないと思います。
ただ、『万引き家族』では貧困にある人たちそのもののどうしようもなさも描いていて、彼らに肯定的な作品ではないように感じたんですが、その点は、新海監督はどのように感じましたか?
新海 『万引き家族』はすごく社会的な映画だと思いました。『天気の子』は貧困問題に正面から取り組んだ作品では全くなく、アプローチが全然違っています。僕の映画では、ただ単純にどういう状況であっても楽しそうに生きてる少年少女を描いてみたかった。
食材を買うお金がこれしかなくてこういう食材しか手に入らなくても、その中でササッと鮮やかに美味しそうなものをつくってくれるみたいな。
ラストシーンもそうなんですが、どういう状況であったとしてもそれでも笑顔を見せるような姿をみて、自分自身が励まされたいという気持ちがあったと思います。
『万引き家族』はすごく面白い作品で、いろんなことを考えさせられる映画ではあるけれど、与えようとしている後味は随分違うなと思いました。
──題材は近いけれど、アプローチの仕方が異なる?
新海 そうですね。是枝監督に伺ったわけではないので、作品でやろうとしている目的は分かりませんが、随分違うんだろうなとは思います。
──「自分自身が励まされたいという思いがあった」とおっしゃられました。個人的な意見で恐縮ですが、これまで手がけられたどの作品と比べても、確かに『天気の子』には「肯定したい」という思いが一番表れていたように感じましたが、それはなぜなんでしょうか?
新海 ……なんでなんでしょう? 制作段階からずっと「最悪の開き直り」「最悪の現状肯定」のように思われる危険がある映画だというのは思っていました。ラストの描き方にしても、開き直りと捉えられてしまうものだと。
──予告編でもはっきり口にされていますが、彼らの行動が、ある種、世界を変えてしまうと。映画『天気の子』予報②
新海 ひと言ではうまく答えられませんが、たとえば現実の世界や社会の行く末に対して「このままで良いのだろうか」という心配は、当然自分の中にもあります。でもだからこそ、僕がこの映画の中で見たかったのは、悩むよりも「自分たちは次の世界に行くよ」って軽やかに飛びこえる若者たちの姿です。
RADWIMPSの『グランドエスケープ』の歌詞の中でも「ここではない星へ」という歌詞が出てくるし、『風たちの声』の中でも近いフレーズが出てくるんですが、若い人たちに対して「もうこっちなんか捨てて先へ行ってくれ」という気持ちがあるのかもしれないですね。
──ありふれてた言説ではないものを、テーマとして描きたかった?
新海 この映画のメッセージはこれですよとインタビューのなかで一言で表すのは難しいです。言いたいことややりたいことは、今作で言えば114分の映画一本につまっているので。なかなか上手く言葉で説明出来なくて申し訳ないです。
──こちらこそ野暮な質問をしてしまい大変恐縮です。作品はメッセージを乗せる器じゃない、ということは承知しておりますが、こうした機会をいただいたのであえてうかがわせていただきました。
新海 運命を信じるか信じないかという点では、僕は運命というものを信じてもいないですし、なんとも思ってないんです。
人生に決まったコースがあるわけではないだろうし、半分は自分の意志が必要だと思うんですが、ほとんど半分は条件反射で、その都度その都度で判断し選択してきた結果によって今に至ってると思うので。
自分がこの世界に生まれてきた役割があるんじゃないか、とも思っていません。だから運命についてはなんとも思っていないです。
── 一貫してモチーフにされている、というご自覚はある?
新海 『君の名は。』なんかはRADWIMPSの曲の中にも「運命」という歌詞がありますし、モチーフになっているところはありますね。
ただ、『天気の子』の帆高や陽菜にしても、どんな運命であっても生きていくと思うんです。どうあっても生きていく2人であってほしいというのがこの映画に関して唯一強く思っていることで。
例えばさっきの美少女ゲームの話じゃないですが、帆高が映画とは違うルートを選んだとしても、それでもやっぱり生きていってほしいし生きていく世界はあると思うんですよ。
僕は今回、『天気の子』は強い意志を感じる力強い映画になったと思うし、そういう映画にしたいと思ったんです。
それで自分自身も、この先も映画をつくっていく体力や気力みたいなものを、自分の映画の中の少年少女の行動によってもらえたらいいなという気持ちがありました。 ──ルートという言葉がありましたが、物語を描く際にはいくつもあるルートの中から一つを選び取って描いているのでしょうか。
新海 そうですね。人生が選択の連続であるように、もちろん物語づくりも選択の連続ではあるんです。脚本を書く過程というのは、白紙の段階ではあらゆる可能性があって、一行書く度にその分、可能性が減っていくわけですよね。
最後にはもうこれ以上ありえないという形に脚本を持っていくんですけど、それでも無数にあり得たかもしれない別のバリエーションというものはあって、どれが優れているのかはわからない。
僕は田舎出身なんですが、東京でこの仕事をしていない、田舎に住んでいる別の自分というのがどこかにいる気が今でもするんですよ。毎日八ヶ岳をみながら車を運転して職場に通い、家で家族と食事をして、といったような、東京とは違う風景をみて毎日生活している自分が確実にいるような気がしているんですね。
僕は今の人生のほうが色んな面白い経験ができてる気もするんですけど、どっちが正しいかというのは僕には決められないし、向こうは向こうのほうがいい人生だったって思ってるかもしれない。
渾身の力で出した『君の名は。』が誰にも省みられなかった自分もいる気がするし、もっと言えば自分のデビュー作『ほしのこえ』も気持ちを込めてつくったはずなんだけど、鳴かず飛ばずで「アニメーションなんか向いてない、やめた」っていう自分もどこかにいる気がする。
そんな風に、今の自分じゃない自分がどこかにいる、それも複数いるという妙な実感のようなものがあるんです。 それが映画制作の上でもあって、僕がつくったこの『天気の子』はもうこの形しかありえないと思っているんですけど、でも他にももっと形があるかもしれないし、帆高や陽菜のラストの選択も他の形もあったかもしれないというような感覚はあるんですよね。
だから、最初の話に戻ってしまいますが、選択の分岐が見えるというのも分からなくはないな、と感じています。
『天気の子』のラストで帆高や陽菜はああいう選択をしましたが、皆さんだったらどういう選択をするのか。色んな感想が聞けるのを楽しみにしています。
(c)2019「天気の子」製作委員会
本作は『君の名は。』に引き続き高いエンターテイメント性を保ちつつも、描かれる内容について賛否両論を呼ぶなど話題には事欠かない。 インタビュー後編では、セカイ系の文脈から語られる『天気の子』や、これまで一貫して“運命”をモチーフにしてきた新海監督の胸中について聞いた。
取材・文:森田将輝 取材・編集:新見直
セカイ系の文脈から語られる『天気の子』
──『天気の子』は、SNSはじめ、新海監督の旧来のファンからも好意的に受け止められている印象です。これまでのファン層にも届けようと意識はされていたのですか?新海誠(以下、新海) これまでのファンにはもちろんのこと、多くの方々に届けたいと思っていましたが、SNSでいろんな面白がり方をしていただけているのは嬉しいなと思っています。
中には「2000年代の美少女ゲームのようだ」と言っている方々いて(笑)。僕は昔、美少女ゲームのOP映像を制作したこともあったのですが、当時を知っている30〜40代、あるいは50代くらいの方が『天気の子』を楽しんでくれていることに同じ時代を生きてるんだなという嬉しさを感じます。
その方々の感想で「本当は夏美ルートと陽菜ルートとが存在して…映画版はトゥルーエンドだ」といった意見もSNSで見かけるのですが、その気持ちも分からなくはないんですよね。選択の分岐が見えるみたいな(笑)。面白いこと言ってるな、と思いながら読ませていただいてます。 でも世間では映画を観ても、SNSでつぶやかない人の方が大半のような気がしています。
30人のクラスでいうと10人くらいはSNSなどで感想を書いてくれているのかもしれないけど、20人は映画を見ても「良かった」とか「つまんなかった」の一言で済んでしまう。
映画全体の観客の割合として、圧倒的多数は後者のような気がしているんですよ。
だから、コアなファンに向けて美少女ゲーム的な文脈をどうつくるかとか、そういうことは全く考えていないです。結果的にそういう文脈でも楽しめるものになったのなら嬉しいですけど。
いい意味でも悪い意味でも、映画を観るということは単純に体験として「面白かったのか、つまらなかったのか」という動物的な反応が一番大事だと思うんですよね。
「映画が伝えたいメッセージに賛同できなかったのに、思わず泣いてしまった」といったことを言われるのが一番嬉しいし、何かが出来たような気がします。
──結果的に30〜40代に届いたということもそうですし、作品として「セカイ系の統括」という捉え方もされているようですが、それに関してはどう思いますか? 新海 そういう意識も、自分には全くありませんでした。今自分が一番気になっているテーマや、みんなが共有しているような気がする空気感の描き方が、結果的にセカイ系に見えると言われてるだけだと思うんです。
たとえば2000年代初頭にセカイ系は批判も含めて、「個人と個人の物語が間の社会をすっ飛ばして世界の運命を変えてしまう」「作中に社会が存在しない」という言われ方をよくされていました。
でもなんで「社会」がないのかと考えると、2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかったからだと思うんですよね。
僕も『ほしのこえ』などでそういう作品をつくってきましたが、リーマンショックや3.11よりも以前のことなので、「日本経済は衰退していくけどなんとなくこのまま終わりなき日常が続くんだろう」みたいな気分がみんなの中にあったと思うんです。
もちろん社会や経済が重要じゃなかったということとは少し違うんですが、そういう気持ちの時はわりと「社会」が透明な存在だったから作品のテーマにはなりづらかったんだと思うんですよね。つくり手の人たちも社会の見え方が薄い映画をほとんど本能的につくっていたんだと思います。だから僕も、当時から「セカイ系をつくっている」という意識はありませんでした。 僕は、『天気の子』は「帆高と社会の対立の話」、つまり「個人の願いと最大多数の幸福がぶつかってしまう話」だと思っているので、今作の中では「社会」は描いているんですよね。
デフォルメされたものであったとしても「警察」がずっと出て来るし、主人公たちは「お天気ビジネス」を通して様々な人と出会い、働いてお金を得ようとするわけで、それはそこに「社会」がないと出来ないことです。
僕のつくるものがそういうものになってきているということは、僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚があるからこそだと思っています。
だからアニメーションの中でも必然的に「社会」があることが必要になってきている。今はそう感じています。
選んだモチーフの意図
──『君の名は。』でもそうでしたが、伝承や神話を意図的に作品の題材として取り上げられているのはなぜですか?新海 今回の作品をつくるにあたって意識していたことはたくさんありますが、「世界はこういうことがあって今の形になったんだよ」という、昔話でいう起源譚のようなものを意識していました。
民間伝承とか口承文学として伝わっている昔話であるとか、昔から続いてる風習とか、そういうものを作品の題材にしていくというのは、特に『君の名は。』から意識的に行っています。
例えば、作中にはお盆のならわしや鳥居、あるいは「巫女」という言葉が物語のモチーフとして出てきます。そういうものは田舎で育った自分が子供の頃から接したり目にしてきたりしたものなので、ある程度実感を持って掘り進められるという気持ちがあって、モチーフに選んでいます。
西洋風のファンタジーや近未来のサイバーな世界をモチーフにする方もいると思いますが、僕は前作と今作は、そのように自分の実感をどうやって映画の中で扱っていくかを考えてやっていました。
──新海監督は、中沢新一の『アースダイバー』は読まれましたか? Twitterで本棚に写っていたのを拝見しました。
新海 はい、読みました。『アースダイバー』に限らず、東京の地形の本は何冊か読んだのですが『アースダイバー』はその中でも「日本の地形の成り立ちはどうなってるのか」ということが書かれていて、おもしろい本でした。図書館用のハードカバー版小説一式をいただきました。『天気の子』でも書けるタイミングがあればいいなあ…。 pic.twitter.com/uhEzHqvRwT
— 新海誠 (@shinkaimakoto) December 28, 2018
──『アースダイバー』は史実だけでなく、それこそ神話とか伝承といった要素さえ連綿と受け継がれ、我々の住む地図を規定しているという趣旨ですね。
新海 そうですね。スカイツリーや東京タワーといった東京の電波塔が建っている場所が、昔は霊的なところだったという記述など、なるほどと思ったりしました。
ただ『アースダイバー』を読んだのは脚本が書き終わったぐらいの頃だったと思うので、直接的な影響はないと思います。
『天気の子』で描きたかったテーマ
──前半のインタビュー(外部リンク)で、監督は『万引き家族』をご覧になって、やりたいと思ってることが近いと感じたとおっしゃっていました。ただ、『万引き家族』では貧困にある人たちそのもののどうしようもなさも描いていて、彼らに肯定的な作品ではないように感じたんですが、その点は、新海監督はどのように感じましたか?
新海 『万引き家族』はすごく社会的な映画だと思いました。『天気の子』は貧困問題に正面から取り組んだ作品では全くなく、アプローチが全然違っています。僕の映画では、ただ単純にどういう状況であっても楽しそうに生きてる少年少女を描いてみたかった。
食材を買うお金がこれしかなくてこういう食材しか手に入らなくても、その中でササッと鮮やかに美味しそうなものをつくってくれるみたいな。
ラストシーンもそうなんですが、どういう状況であったとしてもそれでも笑顔を見せるような姿をみて、自分自身が励まされたいという気持ちがあったと思います。
『万引き家族』はすごく面白い作品で、いろんなことを考えさせられる映画ではあるけれど、与えようとしている後味は随分違うなと思いました。
──題材は近いけれど、アプローチの仕方が異なる?
新海 そうですね。是枝監督に伺ったわけではないので、作品でやろうとしている目的は分かりませんが、随分違うんだろうなとは思います。
──「自分自身が励まされたいという思いがあった」とおっしゃられました。個人的な意見で恐縮ですが、これまで手がけられたどの作品と比べても、確かに『天気の子』には「肯定したい」という思いが一番表れていたように感じましたが、それはなぜなんでしょうか?
新海 ……なんでなんでしょう? 制作段階からずっと「最悪の開き直り」「最悪の現状肯定」のように思われる危険がある映画だというのは思っていました。ラストの描き方にしても、開き直りと捉えられてしまうものだと。
──予告編でもはっきり口にされていますが、彼らの行動が、ある種、世界を変えてしまうと。
RADWIMPSの『グランドエスケープ』の歌詞の中でも「ここではない星へ」という歌詞が出てくるし、『風たちの声』の中でも近いフレーズが出てくるんですが、若い人たちに対して「もうこっちなんか捨てて先へ行ってくれ」という気持ちがあるのかもしれないですね。
──ありふれてた言説ではないものを、テーマとして描きたかった?
新海 この映画のメッセージはこれですよとインタビューのなかで一言で表すのは難しいです。言いたいことややりたいことは、今作で言えば114分の映画一本につまっているので。なかなか上手く言葉で説明出来なくて申し訳ないです。
──こちらこそ野暮な質問をしてしまい大変恐縮です。作品はメッセージを乗せる器じゃない、ということは承知しておりますが、こうした機会をいただいたのであえてうかがわせていただきました。
新海誠にとっての「運命」
──最後に1つだけよろしいでしょうか。監督は『運命』というものを、どういうものだと思っていらっしゃいますか?新海 運命を信じるか信じないかという点では、僕は運命というものを信じてもいないですし、なんとも思ってないんです。
人生に決まったコースがあるわけではないだろうし、半分は自分の意志が必要だと思うんですが、ほとんど半分は条件反射で、その都度その都度で判断し選択してきた結果によって今に至ってると思うので。
自分がこの世界に生まれてきた役割があるんじゃないか、とも思っていません。だから運命についてはなんとも思っていないです。
── 一貫してモチーフにされている、というご自覚はある?
新海 『君の名は。』なんかはRADWIMPSの曲の中にも「運命」という歌詞がありますし、モチーフになっているところはありますね。
ただ、『天気の子』の帆高や陽菜にしても、どんな運命であっても生きていくと思うんです。どうあっても生きていく2人であってほしいというのがこの映画に関して唯一強く思っていることで。
例えばさっきの美少女ゲームの話じゃないですが、帆高が映画とは違うルートを選んだとしても、それでもやっぱり生きていってほしいし生きていく世界はあると思うんですよ。
僕は今回、『天気の子』は強い意志を感じる力強い映画になったと思うし、そういう映画にしたいと思ったんです。
それで自分自身も、この先も映画をつくっていく体力や気力みたいなものを、自分の映画の中の少年少女の行動によってもらえたらいいなという気持ちがありました。 ──ルートという言葉がありましたが、物語を描く際にはいくつもあるルートの中から一つを選び取って描いているのでしょうか。
新海 そうですね。人生が選択の連続であるように、もちろん物語づくりも選択の連続ではあるんです。脚本を書く過程というのは、白紙の段階ではあらゆる可能性があって、一行書く度にその分、可能性が減っていくわけですよね。
最後にはもうこれ以上ありえないという形に脚本を持っていくんですけど、それでも無数にあり得たかもしれない別のバリエーションというものはあって、どれが優れているのかはわからない。
僕は田舎出身なんですが、東京でこの仕事をしていない、田舎に住んでいる別の自分というのがどこかにいる気が今でもするんですよ。毎日八ヶ岳をみながら車を運転して職場に通い、家で家族と食事をして、といったような、東京とは違う風景をみて毎日生活している自分が確実にいるような気がしているんですね。
僕は今の人生のほうが色んな面白い経験ができてる気もするんですけど、どっちが正しいかというのは僕には決められないし、向こうは向こうのほうがいい人生だったって思ってるかもしれない。
渾身の力で出した『君の名は。』が誰にも省みられなかった自分もいる気がするし、もっと言えば自分のデビュー作『ほしのこえ』も気持ちを込めてつくったはずなんだけど、鳴かず飛ばずで「アニメーションなんか向いてない、やめた」っていう自分もどこかにいる気がする。
そんな風に、今の自分じゃない自分がどこかにいる、それも複数いるという妙な実感のようなものがあるんです。 それが映画制作の上でもあって、僕がつくったこの『天気の子』はもうこの形しかありえないと思っているんですけど、でも他にももっと形があるかもしれないし、帆高や陽菜のラストの選択も他の形もあったかもしれないというような感覚はあるんですよね。
だから、最初の話に戻ってしまいますが、選択の分岐が見えるというのも分からなくはないな、と感じています。
『天気の子』のラストで帆高や陽菜はああいう選択をしましたが、皆さんだったらどういう選択をするのか。色んな感想が聞けるのを楽しみにしています。
(c)2019「天気の子」製作委員会
新海誠『君の名は。』インタビュー
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作品情報
天気の子
- 原作・脚本・監督
- 新海誠
- 音楽
- RADWIMPS
- 声の出演
- 醍醐虎汰朗 森七菜 本田翼 吉柳咲良
- 平泉成 梶裕貴 倍賞千恵子 小栗旬
- キャラクターデザイン
- 田中将賀
- 作画監督
- 田村篤
- 美術監督
- 滝口比呂志
全国東宝系公開中
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