連載 | #2 はるしにゃんの幾原邦彦論──運命とメンヘラと永遠と

はるしにゃんの幾原邦彦論 Vol.2 ウテナと革命の精神分析にゃん

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ウテナにおける「転覆性」の問題

また、『ウテナ』は、「バトルロワイヤル系」が生まれるきっかけとなったとされている、カウンターの対象である「セカイ系」と見られることも多い。

改めて定義するなら、「セカイ系」とは、しばしば主人公とヒロイン、つまり「キミとボク」という個人的な関係性が、世界全体の問題──世界の救済や破滅と直結する作品群である。そこには、本来描かれるべき社会というものは存在しない。

しかし、あるいは『ウテナ』ほど「社会的」な作品はないかもしれない。それはどういうことか。

ジェンダー論には、社会構築主義なる考え方がある。社会体の構成員はまず「男/女」という2進法のバイナリーコードで処理され、それぞれの性別役割を配分される。しかしそうした「ジェンダー=男/女であるからにはXであるべきだ」という規範は、もちろん本質とはほど遠く、社会的な言語ゲームにおいて構成された共同幻想でしかない。

そうした作為性が本作に意図的に溢れかえっているのは、第1話において繰り返し強調される、硬直的なシステムに従事する女性教員と、それをものともしない奔放なウテナとの会話にも象徴的だ。

教師 天井ウテナ、あなたは新学期になってもそのへんてこな格好を続けるつもりですか?
ウテナ へんてこ?
教師 へんてこ
ウテナ 男子はみんな似たような格好をしてますよ?
教師 あなたは女子! だから、なぜ、男子の、制服を、着ているのですかああああ!?
ウテナ 女子が男子の制服を着ちゃいけないっていう校則はないな。問題ないです。じゃっ、そういうことで! 1話「薔薇の花嫁」より

王子様を夢みる彼女は軽やかに男装を行い逃走線を引く。ジェンダー規範などものともしない。

寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

このような、社会なるものの虚構性に自覚的でありつつそれを脱構築するような「転覆性」のいくぶんかは、序論で述べた通り、寺山修司の演劇と映画からの影響と見ることができる。

政治においても文学においても革命なるものが死んでしまった時代にあって寺山は、「外部」へと開かれたアヴァンギャルドな作品をつくり続けた。その際にあったのは彼の「虚構への敏感さ」である。

こうした感性は彼の短歌のシミュラークル性、すなわちオリジナルなどなく全てがコピーでしかないという開き直りや、『田園に死す』のラストにおけるメタフィクション、そして全般的な「消費社会との結託」──たとえば消費社会に倦み疲れた若者へ「書を捨てよ町へ出よう」と呼びかける姿勢などを見れば納得がいく。

永遠という幻想を欲望するウテナ

上に挙げた、「永遠」という「幻想」、そして『ウテナ』が巧みに内包している(消費)社会──「幻想と消費社会」といえば、独思想家・ベンヤミンの名がすぐに浮かぶ。

彼の概念に「ファンタスマゴリー」というものがある。幻灯装置を表すこの語を使って、ベンヤミンは、資本主義経済における「生き生きとした回帰的な幻想の創出」を抉り出した。

『ウテナ』で描かれる、アンシーを手に入れることで到達できるという決闘広場の上空に浮かぶ「プラネタリウム」のように映写された「永遠があるという城」とは、まさにこのファンタスマゴリーによってつくり出された「幻想」と同様の「錯覚」=「イリュージョン」でしかなかった。ここでいう「永遠」とは、「失われてしまった究極的な享楽」と言い換えられる。

そもそもウテナは、王子様という表象に幻想を抱き、王子様を求めるのではなく王子様になることを欲望する特異な存在である。これは精神分析学的には、「ファルスになること」を求めるということである。解剖学的な器官としてのペニスの意味もあるファルスだが、ここではその膨張的な性質からくる力とまとまりの象徴として用いられている。

そして、仏思想家・精神科医であるラカンによれば人間主体は発達の過程において、全能感や、母の愛の完全なる対象であるという母子相姦的な欲望、ファルスという究極的な存在であるという凄絶な享楽を断念し、「父の名(な)=父の否(いな)」というシニフィアン、つまり超越論的な記号に導かれ、「ファルスになる」という欲望が「ファルスを持つ」の欲望へと転換される。

これは存在の範疇から所有の範疇への移行である。つまり私たちは、全能ではありえないから「全能=ファルスになる」を諦め、その代替物として「ファルスを持つ」ことでそれに対処する。このファルスの代替物こそが、すなわち欲望の原因としての対象である。

「ファルスになる」ことは、男女が未分化であるがゆえに全的に母を求める前エディプス期的な欲動、即時的な享楽である。それに対して、エディプス期、すなわち性の違いに気付き、一番身近な異性である母か父に関心を持つことで、自分と同性の親に嫉妬を抱くとき──わかりやすく言えば言語活動の世界に生まれ落ちたとき、人は、空虚な記号に過ぎない言語をインストールする社会的存在となる。

さらに、同性の親に嫉妬を抱いた男児は、父に対する嫉妬自体に罪悪感を覚えることが指摘されている。それが、「去勢不安」である。

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そしてウテナにおいては、「ファルスになることへの断念=去勢不安」それ自体が「否認」されることになる。

これを政治的に換言すれば「〈不可能としての革命〉への志向が「去勢の否認」によって「倒錯的」に敢行されている」と言える。

前回の連載にて私は、人間主体は「神経症/精神病/倒錯」のいずれかに分類されるとしたが、彼女は鑑別学的には倒錯者なのである。そうであるがゆえに彼女は男装の令嬢なのだ。

ウテナという倒錯者と、アンシーというヒステリー者

欲望とは欠如に由来するものだが、彼女にとってその欠如とは幼少期における両親との死別による「永遠への不信と憧憬」である。彼女はしかし王子様との出会いによりその不信を否認し、天真爛漫な「王子様を目指す女の子」として生きていくこととなる。

他方でアンシーは、かつて王子様と性交したことによって、魔女と呼ばれ、また王子様をその身分から引き下ろしてしまった過去を持つ。彼女はこの世界の「光と闇」のなかで、光を抑圧し、自身の欲望を抑圧し、ただ「闇の世界における純-客体」となるように生きている。これは全時代的な意味での「従順な女」である。彼女は神経症の女性、厳密には性器が非性化されている不感症だが、その存在自体は全体としては蠱惑的でセクシュアルなヒステリー者だと言える。

ここでウテナは「」に、アンシーが「」に対応する。ウテナ論にはこの二人を「一人」、つまりユング的なエゴとシャドウの関係性と見、そしてストーリー展開をユング言うところの「個性化」という「セルフへの統合」とするものがあるが、私もそうした解釈は可能であるように思う。

エゴとは各人の個別的な自我、シャドウはその自我が抑圧しているものである。その抑圧されたものが意識化され、統一的な自己へと併合されていく過程が個性化だ。オープニング映像における両者の対比からもそれが見て取れるし、また、『デミアン』も「個性化」=「自己実現」による同性間の「友情」の物語であった。つまり、両者は、あわせて<1つの個性>なのだ。にゃん。

※連載第3回目、ウテナ論の後半に続く
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