社会から疎外され、凶行に走る志々雄の後継者たち
まだ学生だったわたしが、ニコニコ動画に投稿された『るろうに剣心』のMAD動画「フタエノキワミ、アッー!」でゲラゲラ笑っていた2000年代後半、すでに「格差社会」は流行語として定着し、就職氷河期世代を中心に若年層の非正規雇用が常態化しつつあった。
2007年初頭には赤木智弘の「『丸山眞男』をひっぱたきたい──31歳フリーター。希望は、戦争。」が論壇で注目を集め、翌08年には秋葉原通り魔事件、そしてリーマン・ショックが発生。
2011年の東日本大震災を経て、10年代末以降も川崎市登戸通り魔事件、京都アニメーション放火殺傷事件、さらには安倍晋三元首相銃撃事件と、見捨てられた男たちの「テロリズム」(※4)が連鎖していく。
維新後/戦後の社会から疎外され、凶行に走る志々雄の後継者たち。彼らは孤立したローンウルフのように見えて、じつはあの死者たち、いまだ報われずにいる300万の亡霊たちとひそかに連帯しているのではないだろうか。どちらもいわば割りを食い、社会に見放されているという点では共通している。
批評家の大塚英志が指摘するように、歴史の「古層」との安易な重ね合わせは避けるべきかもしれないが(※5)、わたしにはどうしてもそう感じられてしまう。この10年で「維新」や「新選組」といった言葉が、当たり前に政治記事に載るようになったせいかもしれない。
※4:音楽評論家/ライターの磯部涼は、元首相銃撃事件はもちろん、ここで挙げたような無差別殺傷事件を含めて「広義のテロリズム」と解釈している。磯部涼『令和元年のテロリズム』(新潮文庫/2024年)。
※5:大塚英志『二層文学論』。
『るろ剣』から『リコリコ』へ──引き継がれた市井の“平和維持活動”
『るろうに剣心』の新シリーズがはじまる前年、剣心とよく似た主人公が登場するオリジナルアニメが放送されている。
『リコリス・リコイル』と題されたその作品では、やはり不殺の誓いを立てた元暗殺者の美少女が、逆刃刀の代わりに殺傷能力のないゴム弾を装塡した拳銃でテロリストに立ち向かう。
彼女も剣心と同様、市井の人々の暮らしを守るために戦うのだが、それは同時にアイロニカルな現状肯定とセットになっている。体制転覆を狙うテロリストを打倒することは、作中の恐るべきディストピア社会を延命させることでもあるからだ。
そこでは身寄りのない少女たちが治安維持要員として使い捨てられ、社会の不満分子をひそかに抹殺することで見せかけの平和が保たれている。
それでも主人公の少女は、テロリストとの最終決戦のさなか、ほとんど露悪的なまでにこう言い放つ──「いまのままでも好きなものはたくさん」「世界がどうとか知らんわ」。
『るろうに剣心』から『リコリス・リコイル』へと引き継がれた市井の“平和維持活動”は、深いジレンマを抱えながら再び『るろうに剣心』へと戻ってくる。リメイクされた新シリーズでも、剣心は志々雄の野望を打ち砕くに違いない。
だが、いまやその道義的根拠はますます曖昧になり、単なる体制迎合と見分けがつかなくなっていく。
志々雄は自らの敗北、というか自滅について「時代が俺を恐れて奴(剣心)に力を貸した」と語ったが、この30年の歳月は剣心に味方してくれるだろうか。それとも、志々雄のカリスマにさらなる力を与えてしまうのか。
逆刃刀に見立てた傘を振り回し、九頭龍閃の会得に躍起になっていたあの頃の情熱は、中年にさしかかったいまのわたしにはもうない。リメイクされた剣心の横顔は、わたしの記憶のなかのイメージよりもずっとまぶしく、またどこか寂しげに感じられる。
©和月伸宏/集英社・「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 京都動乱」製作委員会
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