他人に理解されなくても、自分がわかっていれば良い 藤井の達観が揺さぶる価値観
藤井が特異なのは、他人の評価におもねることがないところです。
先ほどまで散々に藤井のことをネガティブに書き連ねましたが、作中で何を思われようとも当の本人はどこ吹く風。気にしていません。
あるいは彼を面白い人、みんな誤解していると言ったある登場人物の称賛に、全く表情を動かさず「みんなに理解してもらうのは難しいと思います。自分がわかっていればいいです」と藤井は返します。
この言葉に、他人の評価で揺らがない彼の本質が詰まっている。
他人はあくまで他人で、自分は自分であるとの達観です。
他人に認めてもらう必要のない藤井の言動は、打算がなく誠実で、嘘がありません。すべて本音です。
そんな姿が承認欲求などといった、他人の目線をどうしても意識せざるを得ない、現代的な悩みを持つ登場人物たちの価値観を転向させ、それがそのまま読者の価値観を揺さぶる痛快さを生んでいます。
反面、その生真面目な性格は、嘘をついた方がいい場面でも嘘がつけない、社会性の乏しさと表裏一体であるという描かれ方もされています。
無理をしてまで他人に好かれようとは思わないと話す藤井のスタンスは清々しいですが、人によっては面白みのない人とも思われている。
藤井の生き方は尊い一方で、作中では幸せの形は人それぞれで違うとつぶさに表現されており、藤井を超人として扱わないところに本作のバランス感覚の良さがあります。
藤井の中庸であることが生む美しい孤立を、全肯定しない。そこに本作の良さがあるのです。
表情が豊かだった前作『リボーンの棋士』の主人公と、無表情の藤井
『路傍のフジイ』を読んでいて最初に痺れたのが、表情にほとんど変化がない主人公を置く作者・鍋倉夫さんの挑戦です。
幼少期から一貫して無表情な藤井は、鍋倉夫さんの前作『リボーンの棋士』で喜怒哀楽の表情を見せてくれた主人公・安住浩一(あずみ こういち)とは正反対です。
詳しくは同作を読んでいただきたいので簡単に説明します。
安住は将棋のプロ棋士を目指したものの挫折。将棋とは無縁の生活を3年続けて未練を断ち切れたはずが、大好きな将棋から離れられないと思い直し再始動。プロの棋士になるため、なりふり構わず将棋に打ち込み足掻きます。
安住の他にもプロまであと一歩届かない若手、プロではあるが落ち目のベテランなど、一様に苦境にある人々の再起がメインテーマとして描かれました。
どん底から這い上がる人々を描くため、必然的に表情が豊かで、その絵には魂が宿っていました。世間一般で上手いとされる絵ではありませんが、上手さだけでは出せない本物がありました。
そんな素晴らしい絵を描く作者だっただけに、無表情の藤井を新作の主人公に据えたのが面白いと痺れたのです。
読み進めると、どうやら藤井に分かりやすい表情がない分、彼に関わっていく登場人物の顔に注目すべきことがわかりはじめます。
『路傍のフジイ』で描きたいことの多くは、そこに詰まっているようなので、読む際には注目してみてください。
「幸せとは何か?」アプローチを変えて挑む作者・鍋倉夫の挑戦
『路傍のフジイ』に限らず、前作『リボーンの棋士』でも「幸せとは何か?」を一つのテーマにしていた作者・鍋倉夫さんですから、作家としてのテーマ性と言えそうです。
『リボーンの棋士』では夢破れた主人公・安住を中心に足掻く者たちを描き、各々の生き方を通して幸福の形を追求しました。主人公の成長をもって積極的に物語に起伏を生み出していく作風はスタンダードなものでした。
一方『路傍のフジイ』の主人公は、初登場時から自己を確立した藤井。劇的な変化・成長が見込まれないため、物語の構成も前作と比較すると平坦。
藤井よりも周りの登場人物の表情にテーマが映る、前作とは真逆の作風です。
同じ「幸せとは何か?」をテーマに描きながら、アプローチを反転させた鍋倉夫さん。この変化が今後『路傍のフジイ』へどのように現れていくか。楽しみに見守らせていただきます。
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テーマは「漫画を通して社会を知る」。 国内外の情勢、突発的なバズ、アニメ化・ドラマ化、周年記念……。 年間で数百タイトルの漫画を読む筆者が、時事とリンクする作品を新作・旧作問わず取り上げ、"いま読むべき漫画"や"いま改めて読むと面白い漫画"を紹介します。
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