【ネタバレ】映画『カメラを止めるな!』レビューも二度はじまる 怒りを笑いに変える力

【ネタバレ】映画『カメラを止めるな!』レビューも二度はじまる 怒りを笑いに変える力
【ネタバレ】映画『カメラを止めるな!』レビューも二度はじまる 怒りを笑いに変える力

POPなポイントを3行で

  • 『カメラを止めるな!』まだ観てない人向けと、観た人に向けたレビュー
  • なぜ観客を巻き込むグルーヴを持っているのか?
  • 怒りを笑いに変えたことで、多くの人を巻き込んだのではないか
カメラを止めるな!』を観た。2回観た。

予算300万円以下、無名のキャスト、映画製作のワークショップから始まったこの映画の快挙はいまや飛ぶ鳥を落とす勢い。上映拡大を重ね、当初わずか2館という上映館数から、現在では全国150館超えとなっている。

マスメディアでも大きく取り上げられているので、鑑賞を終えた人も増えてきただろう。

とはいえ、この映画を観ていないという人もまだまだ多い。これほどネタバレに慎重さを要する映画もなく、飛び抜けて鑑賞後に語りたくなる映画であるにも関わらず、面白さを周囲と共有することが難しいというもどかしさがある

その制約が映画を見た観客同士の連帯感を生み、「未感染者」の興味をかき立てているのも事実かもしれないが、この映画になかなか食指が伸びない方に対して「騙されたと思って観てみて!」としか言えないのもさらにもどかしい。
映画『カメラを止めるな !』予告編
本稿では「話題にはなっているが、まだ映画館に足を運ぶまでには至らない」人、「すでに鑑賞済み」の人に向けた2段構造という形をとっている。

『カメラを止めるな!』がなぜ陳腐なロジックを一蹴してしまう熱量と観客を否応無く巻き込むグルーヴを持っているのか、そして筆者である僕自身がどこに感銘を受けたのかを書いてみたい。

言うまでもないが、これは完全なるネタバレ記事だ。

すでにもう興味がある方は、盛大に疑って、油断して映画館に足を運んでほしいし、すでに観たという方は、「わかるわかる!」「いや、あのシーンは自分にとってはこういうメッセージだった」など、この映画が教えてくれた「観た映画の素晴らしさを語る」という最高の体験を、味わってもらえたら嬉しい。

文:和田拓也 編集:新見直

『カメラを止めるな!』をまだ観てない人へ

映画のポイントとして広まっている「ワンカットで挑戦したゾンビ映画」というのは、特に目新しい手法ではない。

これらは未鑑賞者に向けた壮大な罠であり、この映画の最大の特徴は、脚本、映画の構造にある。

これは「ネタバレ厳禁!」「事前情報なしで見て欲しい!」という口コミで、多くのひとが気づくだろう。

『カメラを止めるな!』はまるまる1本のゾンビ映画をトラップに使った、多重構造(メタフィクション)の映画になっているのだ。つまり、ゾンビ映画は“作中作”で、『カメラを止めるな!』の本来の物語はその外側にある。

これはネタバレというほどでもなく、「この映画は二度始まる」という触れ込みからも一目瞭然だ。 しかしメタ的な構造をもつ作品というのも、ワンカット手法同様、そこまで斬新なものではない。『カメラを止めるな!』の真髄は、カタストロフィと映画への愛を最大限に表現した脚本だ。

この映画は、やりたいこと、やらなければならないこと、人生のなかでそんな葛藤を抱えるわたしたちすべてに向けた映画なのだ。

「ゾンビもの」を敬遠している方も安心してほしい。「ワンカットのゾンビなんて決して新しくない」と斜に構えている方も、その調子で観に行って欲しい。

※ここから完全ネタバレ

“この映画の良さがわかる”という自分探し

誤解を恐れずに言えば、1本の「ゾンビ映画」として流れる冒頭の37分は、脚本もカメラワークも役者も、絵に描いたようなB級映画だ。正直に言ってかなりきつい。僕の周りでも「席を立ちそうになった」という友人が多数いる。

しかしながら、公開直後から映画好きの間で絶賛される映画だっただけに、「“この映画の良さがわかる”自分」を必死に探す旅は、37分間恥ずかしげもなく続いた。

会話の妙な間や役者のちょっとむず痒くなるような大袈裟な演技(大根具合ともとれる)も「あえて舞台中心の役者の演技を取り入れて、ワンカット手法による緊張感に劇場感を肉付けしているのだ」と考察してみたり。

廃墟での役者のセリフを包む反響音も「生の残響音にあえて手を加えずに、間をつくってホラー感を出している」と納得させたり(これは実際にそうだったようだ)。

作中に無数に散りばめられた違和感に、「これは新しいかもしれない」と、あの手この手で自分を納得させる自分がいた。

これは本当に恥ずかしい

このゾンビ映画自体が、局やプロデューサーの無茶ぶりに従おうとした結果生まれたものだったということが後半になって明かされた時、「ひっかかったひっかかった!」とスクリーンの裏から指を指して笑われている気持ちにすらなった。

しかし、そんな恥ずかしい批評家じみた思いも、この映画はすべて受け入れ肯定し、「一緒に笑おうぜ!」と肩を組んでくれる。

数々の違和感、気持ちの悪さはすべて用意されたもので、これでもかとひとつずつ回収していく映画の疾走感への起爆剤となる。

当初無名キャストたちの演技に抱いてしまった危うさも、裏事情が明かされたあとは純粋に作品にのめり込む没入感へと変わる。

冒頭の作中作がしんどければしんどいほど、物語が進むにつれてカタストロフィが爆発するのだ。そういう意味で、映画にうるさい人ほどこの映画にしてやられるのではないだろうか。

怒りを笑いで包んだからこそ響く

この映画が映画愛に溢れた作品だということは、もう語るまでもないだろう。作中の監督・日暮隆之の娘である真央が着ている、ブライアン・デ・パルマの『Scarface』やスタンリー・キューブリックの『The Shining』といった名作映画がプリントされているTシャツも、わかりやす過ぎて最高だ。

僕が考えるこの映画の最も素晴らしいところは、つくり手が抱いているであろうフラストレーションや負の感情、怒り、業界あるある、皮肉を、笑いというポジティブなフォーマットに変換して詰め込んでいる点だ。

笑えるポイントをあげればキリがないが、僕が腹を抱えて笑ったのが、監督役として急きょ出演が決まり、本番中に熱くなりすぎて迸った監督・日暮の、ヒロイン役のアイドル・松本逢花への本音。

「なんで嘘になるか教えてやろうか? お前の人生が嘘ばっかりだから! 嘘ついてばーっかりだから! 嘘まみれのそのツラ剥がせよ!」『カメラを止めるな!』日暮隆之のセリフより

第一幕では、作品のあの妙な緊張感から、冒頭で言い放たれるこのセリフはどう観てもただのマッドな監督の暴言ととれ、居心地の悪さすら感じる

しかし、第二幕での、松本の「事務所的にNG」発言の連発、それに即座に応じるプロデューサーや監督の妥協の嵐、監督を軽んじた態度、松本が希望した目薬を使っての涙の演出……業界のアイドル女優あるある(であろう)ネタを踏まえて同じ場面を別視点から見せられると、そのセリフの意味合いは全く変わってくる。

本番が始まりカメラが回っている中で、彼女をこれでもかとこき下ろす監督の姿と、その言葉に思わず流れた本物の女優の涙、極め付けは「あの子の演技には嘘がないねん」と放つ超適当プロデューサー。

ひとつメタ的なレイヤーを重ねるだけで、同じ映像でもこうまで感情が反転するのかと、感動して涙を流しながら笑ってしまった。そして日暮のこのセリフは、つくり手の上田監督の本音でもある気がしてならない。

我が強くことあるごとに不満を述べるイケメン実力派(風)俳優、過保護な子役の母親、共演女優に手を出す俳優とそれについていく人気女優、「作品よりも番組」がポリシーの適当プロデューサー、修羅場だった現場をよそに「特に重大な問題もなく…」と締めて早々に打ち上げに向かう超適当プロデューサー。

モノづくりに携わる人間の悲哀を詰め込みながら、酒乱で娘に見放されたベテラン俳優や、硬水を受け付けない胃腸の弱い俳優など、トラブルのタネをこれでもかと撒き散らす。そしてそれらをひとつひとつ笑いとともに乗り越え、キャスト全員が同じ方向を向いてひとつの作品を築き上げていくのだ。

悲哀、怒り、負の感情をそのまま伝えるのではなく、自虐的に(道化的にともいえる)笑いに変えて外の世界に投げかけることで、より響く。これは、「誰も傷つかない最高の笑い」と松本人志が評した「大迫半端ないっての中西くん」に通じるものがあると感じた。

いくらでも怒りや悲哀で突破できるような題材を、笑いという一点に集約させた『カメラを止めるな!』。

ネット上で簡単に「怒り」が顕在化して、SNSによって憎しみの拡散に歯止めが効かない今、怒りをそのまま怒りのフォーマットで伝えること、受け止めることに、いい加減辟易している社会に、心地よく響くカウンターパンチになっているように思う。

殻を破っていく物語

笑いで加速していく物語の最後には、不器用な登場人物の(キャストの選考基準も不器用なひとだったという)成長が描かれていく。

事務所NGの多い「アイドル女優」の演技は、最後に日暮が求めた「本物の顔」を手にする。口応えの多いイケメン俳優は、「体が勝手に...もう何も考えられなくなってきました」と映画を完成させるために奔走し、最後は日暮親子に背中を預ける。「安い、早い、クオリティはそこそこ」がモットーの日暮は、最初は企画を断るも「娘に認められる父親になりたい」という思いから企画を受ける。

終盤では、機材トラブルが発生し、脚本上必要なアングルからのカットを諦めざるを得ない状況に陥る。

「作品より番組」を強調し穏当に終わらせようとするプロデューサーの提案を拒み、最終的に日暮が下した判断は、「それでもカットしない」というものだった。

つまり、作品として成立すること(脚本を回収すること)を選んだのだ。これは、かつての日暮が諦めていた「作品へのこだわり」が再び芽生えた瞬間なのではないか。

作中で、役者も監督も殻を破っていく。

そして、最後にはついに、作品であることを求めたつくり手の思いが、「大人の組体操」という形で結晶化した。

酔いどれ俳優の悲哀と、向こう見ずな娘とうまくいっていない日暮との昔の親子写真を伏線に、組体操の頂点で親子が肩車で実現させたカメラアングルで完結する。

あの組体操は、リハーサルでは一度も成功しなかったという。まだ僕らが10代だったあの夏、体育祭でつくったピラミッドは、大人になってからやるのは相当に難しいのだそうだ。組体操をやることなどないので、もうそれすらわからない。

ピラミッドを完成させて重さに耐えているとき、そして耐え切って安堵の笑顔を浮かべたときの登場人物の表情は、演技だけではない素の感情が入り混じっているように思える。

第一幕の作中作での登場人物、第二幕での役者・スタッフの視点だけでなく、エンドロールでは実際に『カメラを止めるな!』の制作に携わったスタッフにも視点が移され、3重の入れ子構造となったこの作品の世界はさらに広がりを見せる

ドローンで広がった画角の中にはバタバタとせわしなく動くスタッフが映り、上田監督の頭につけたGo Proで撮影した、実際の撮影風景が映し出される。脚本が渡されたとき「無理だと思った」と制作スタッフが語るように、カメラの外側にある彼らの無謀な挑戦も、この映画には映し出されている。

重層な視点と構造が、「ものづくりってこんなにも素晴らしいものなのだ」と何度も教えてくれるのだ。

ちなみに、エンドロールでの僕のお気に入りのシーンは、カメラを落としてしまうアングルを撮りながら、憔悴したカメラマンが一瞬の隙をついて水を2杯喉に流し込むところだ。

『カメラを止めるな!』は、2回目に足を運んで完結する

『カメラを止めるな!』は、2回目の鑑賞にも新しい映画体験がある。

一度見ているからこそ、冒頭の37分間『ONE CUT OF THE DEAD』で笑えるポイントが山のように存在するからだ。映画にも「つよくてニューゲーム」という楽しみ方があるのだ。

2回目の劇場に足を運んだときに、驚いたことが一つある。からくりを知った後に再び観た冒頭の37分間、隣に座る観客が、僕と同様に必死に笑いをこらえているのである。

『カメラを止めるな!』はリピーターも非常に多い映画だと聞く。僕の周りでも何度も観にいったという友人は多い。しかし、初見の冒頭37分間で「どうしてこんなところで笑ってる人がいるんだ?」という疑問は幸いにも生じなかった。

伏線回収済みだからこそわかるポイントで笑う観客が、少なくとも僕の上映回にはひとりとしていなかったのだ。「この映画をはじめてみる観客に最高の体験をしてほしい」という思いが、観客の中にも生まれているのだと思った。

これが、僕が「観客を巻き込むグルーヴ」と表した大きな理由だ。

だからこそ、僕は2度目以降の鑑賞者限定での「つよくてニューゲーム上映」をやってほしいと切に願っている。

愛を止めるな!

「これは俺の映画だ!俺の映画だ!」
「これが映画だよ!嘘がない、ひとつもだ!」 『カメラを止めるな!』日暮隆之のセリフより

作中のこれらのセリフは、『カメラを止めるな!』の思想のすべてを物語っている気がする。

どんなに無茶な企画で信じられないトラブルが連発しても“カメラは止めない!”という日暮のカメラ目線のセリフは、この演出を脚本に仕込んだ上田監督の、スクリーンの外側の世界に対する宣戦布告でありメッセージなのではないか。

『カメラを止めるな!』というタイトルも、ものづくりに携わる人間に「お前の愛を止めるな!」と、強烈なカウンターを示しているのではないか。

『ウォーキング・デッド』をはじめ、現在進行形で幾多のゾンビものが制作されているように、もうやりつくされてしまったといわれるこのジャンルで風穴を開けてしまった。正確には『カメラを止めるな』はゾンビ映画ではないが、それでも「まだこんなやり方があるのか...」と唸らずにはいられない。

加えて、予算300万円で無名の監督、キャストたちにこんな作品をつくられてしまったら、金がないインディー映画制作者も、豪華な役者、大きな予算を投じることができる映画制作関係者も、一切の言い訳ができなくなってしまったんじゃないかと思うのだ。

まだ気が早いかもしれないが、これでスターダムを駆け上がっていくであろう上田慎一郎監督の次回作がどのようなものになるのか、また大きなプロジェクトを託された時にどのような作品を残すのかにも、大きな興味を抱いてしまう。

不器用で、やりたいこと(やるべきだと思うこと)と、求められていることの間で葛藤するひとたち、親、子ども、様々な境遇の受け手が、「これは自分のため映画だ」とそれぞれの登場人物に自身を投影させて、映画とともに疾走することができるのがこの映画の魅力だ。

映画館で映画をみることの純粋な楽しさ、目の前の衝撃への感動、ものをつくることの理屈のない喜び、さまざまな初期衝動を思い出させてくれる『カメラを止めるな!』は、僕にとって忘れられない作品となった。

まだまだ酒でも飲みながら語りたい気分だが、これくらいにしとこうと思う。

日本アカデミー賞、何かの間違いで獲らないかなぁ。

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和田拓也

Editor / Writer

1986年生まれ。サッカーメディア「DEAR Magazine」を運営する傍ら、「HEAPS Magazine」などWeb媒体を中心に執筆・編集を行っている。ストリートやカウンターカルチャーが好きです。

Twitter: @theurbanair
Instagram: @tkywdnyc
SIte: http://dearfootball.net

2件のコメント

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匿名ハッコウくん

匿名ハッコウくん(ID:2221)

わたしが鑑賞した際も、リピーターはいたはずなのに誰一人前半では笑わず違和感がなかったのを思い出しました。鑑賞後に読めて良かった。

匿名ハッコウくん

匿名ハッコウくん(ID:2213)

思っていたけど言葉にできなかった事を全て書き出してくれ、さらになるほどと思わせてくれた記事。映画と共に永久保存版です。

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