「私が先に大人になっちゃった」から考える
関連して、よねさんからのテーマ。
劇中のアスカのセリフに、「シンジのこと好きだった。でも私が先に大人になっちゃった」というものがありました。そのセリフから考える「『エヴァ』における時間と成熟、成長について」です。
僕は、『シン・エヴァ』でアスカのあのセリフが一番ぶっ刺さったというか印象に残りました。
庵野さんって作品をつくるのが遅くて、作品を待っている間にみんなどんどん大人になっていくじゃないですか。気づいたら僕も大人になっているわけですけれども、「エヴァの呪縛」という設定と現実の時間の経過がうまくミックスされているなと思って。
僕は「エヴァ」の中でアスカが一番好きなんですけど。そのアスカがあんたらよりも「先に大人になっちゃった」と言うわけです。『シン・エヴァ』の言いたいことは、この一言に凝縮されてるなと思ったんですよね。
そうですね。
あと、これまで公式でシンジとアスカが両想いだったみたいな話は一切なかったから、急に出してきたなってびっくりしました。「エヴァ」を恋愛ものとして全く見てなかった。
でも、アスカとシンジがくっつくっていう展開は2次創作とかですごく描かれている。
アスカって2次創作だとツンデレって言われるじゃないですか。でも、実際に作中で描かれるアスカはツンデレなんて生易しいもんじゃない。
そもそもデレないしね。
リアルな人間の抱える悩みをデフォルメした結果、ツンデレっていう幻想に至って、その中だとアスカはシンジとイチャイチャできるんですけど。
アスカが大人になっちゃったことで、自分はそんな幻想に浸っていたんだっていう、またも自分の幼児性を自覚した一因にもなりました。すごくいいシーンですよね。
小林くんはたびたび自分の幼児性にぶち当たっていますね^^; それにしても、あそこはいい決別のシーンでした。
あと、ケンスケの存在が一番の衝撃だったかもしれない。旧劇では全然フォーカスされてなかったから。
すごく重要なキャラに昇華されてましたよね。
あのケンスケが、あんな良い大人になってるなんて。
今作は、あらゆる2次創作の答え合わせになっていたと思うんです。
ケンスケもたぶん、わざわざ描かなくてもよかった。だけど、庵野総監督は、おそらく全てに決着をつけるために、2次創作で登場したキャラクターたちの未来を全部描こうとしたんじゃないかな。
そういえば、2次創作でのシンジとアスカのカップリングには「LAS」って専門用語があるんですよ。「ラブ・アスカ・シンジ」なんだけど。
幻想の塊じゃないですか。
それをも突き放しているという潔さに「すげえな」と思いました。
本当にその通りで、オタクはアスカに対していつまでも夢見てんじゃない。
シンジがあれだけやらかして、しかもウジウジして周りに迷惑をかけてるのに、アスカは飯を食わしたり世話するじゃないですか。彼女はちゃんと大人になってるんですよ。
ケンスケも、シンジから見ると完全なる大人になっている。そのケンケンのそばにアスカがいるっていうのは、現実と一緒なんですよ。ちゃんと、ウジウジしている男より前に進んでいる。
僕は庵野総監督に「お前、現実これだからな」ってぶん殴られたように感じたし、納得しました。「おっしゃる通りです」としか言いようがないです(笑)。
ちゃんと別れを言いに来てくれたっていうのが、これまでになかったアスカの優しさだし大人の対応でした。
私は、あのシーンを見た瞬間に「あ、『エヴァ』終わる」って思いましたね。終わりの始まりの1言目だったなと。
なぜ真希波マリでなければならなかったのか?
そしてその『シン・エヴァ』最終盤、ミサトに頼まれてマリがシンジを迎えに行きます。続いては新見さんからのテーマで「なぜマリでなければならなかったのか?」。
なんでアスカでもレイでもなくマリという、ある種のポッと出のキャラが最後に迎えに来たのか。
マリというのは、新シリーズにおける商業的な要請として、新しい機体とパイロットをつくってくださいとプロデューサーから注文を受けて貞本義行と鶴巻和哉によって生み出されたキャラクター。つまり、「エヴァ」の中で唯一庵野総監督がつくったキャラじゃないんですよ。そもそも企画段階では全然チョイ役だったしセリフもなかったそうで。
「エヴァ」における登場人物は基本的に庵野総監督自身の分身なわけですが、要するにその中に生まれた唯一の“他者”がマリだったんですね。だからこそ、今までの「自家中毒」的なキャラクターの相関関係ではなく、自分の想像力の外側にいる彼女が、最後にシンジと結ばれなければならなかった。
NHKのドキュメンタリー「『プロフェッショナル 仕事の流儀』庵野秀明スペシャル」でも、たびたび挫折してきた庵野総監督がその度に立ち直ってアニメに向き合うためには、妻である安野モヨコさんが必要だったと改めて説明されていましたよね。
ネットでも「真希波マリ=安野モヨコ」論がよく言われていますが、非常にわかりやすく、ストレートすぎるほどの見立てです。
新見さんが言った通りです、完全に。
旧劇ではシンジがアスカの首を締めてアスカが「気持ち悪い」と言って終わるんだけど、お互い自己の内から出てきたキャラクターだと、結局のところは拒絶するしかなかった。
そういう意味では、本当に外部から来た他者じゃないと自分を救えない、救われることができないという話なんじゃないかなと思う。
そう読めますよね。
庵野総監督と結婚で言うと面白いエピソードがあって、庵野総監督は「俺の周りのクリエイターは、結婚した奴らは全員ダメになってる」って結婚に対して否定的だった。
それでTV番組で「庵野さんは結婚しましたがこれからも面白い作品をつくれるんですか」という視聴者からの質問に対して「今までのようなものは絶対つくれない」って答えていた。TVアニメ版や旧劇では自分が孤独すぎて、ただただ寂しい思いからつくったものだったから。でも、結婚してしまった今となっては、「もう寂しくないから、昔のような作品は絶対につくれない」って。
新劇はその答え合わせだったと思う。全然寂しさとかなくて、攻撃性もなく、めちゃくちゃポジティブな話だったなって。
シンジにとってアスカやレイとの関係は、既存のコミュニティ内のものでしかないんですよね。そこに固執するのは、現実で言えば中学や高校の好きな人だったり仲がいい人たちだったりのことをずっと忘れられていない状態。でも、人はそれじゃ生きていられないんですよ。
だからこそ全く違う外部の人間と出会う必要があったし、僕はあのラストから「世の中はお前が今いるコミュニティだけじゃねえんだよ」っていう強いメッセージ性を感じましたね。
なるほど。マリって漫画版でシンジの母親であるユイを好きな描写があるじゃないですか。
それで言うと、マリは、シンジを通して自分の好きな人を見ているっていう見方もできるように思うんですがどうですか。
別にそれでもいいんじゃない。
マリがシンジを通して彼の親を見ていたとしても、描かれているテーマには変わりない?
そう思いますよ。
ただ、まさしく僕が本当に議論したいことはその先にあるんです。
『シン・エヴァ』において、成長とは「自分の欲望を正しく認識すること」だという風に描かれているように思いました。だから、ゲンドウに、シンジに、「何が本当の自分の望みなのか」という問いを繰り返し突き付けていました。自分の内なる欲望に目を向け認めるというプロセスを通して成長していく姿がわかりやすく描かれていた。
でも、その自分の欲望への気付きに至るまでに、物語として“母性”が強制的に動員されているようにも感じてしまいました。つまり、ある特定のキャラクターに対しては「母親たれ」という物語における要請が露出していて。
結局マリもユイもミサトも、ある種の母性が仮託されていて、シンジたちのために母たちは自己犠牲を物語に強いられているようにも思えました。
そこだけが僕が唯一引っかかってるポイントなんだけど、みんなはどう感じているんだろう。
正直、ニャンニャン言ってる女の子に母性は感じないけどな^^;
たしかにマリは新劇の序盤までは身体的な存在だったんだけど、『シン・エヴァ』においてはちゃんと物語(=シンジくん)に奉仕する存在にガラッと変わっていました。
特に、マリとユイとゲンドウは同級生で、つまりはマリにとってシンジは完全に息子なわけですよ。それって、裏を返せばシンジは結局母性なしでは救われなかったっていうことに思えたんですよね。
いや、マリは劇中でシンジに目隠しながら「いい女」と改めて自己紹介するんですよ。そして最後、シンジはマリに「いい女」だと言っている。
つまり、マリはシンジを庇護するべき母親ではなく対等な女性として救った存在。外部のコミュニティで出会った女性だと僕は認識していて、その意味でシンジは母性から脱却できたんじゃないかなと思ってます。
逆にマリは母性と反するもの、異性としての存在として定義されてるんじゃないかというのが、古見くんの意見ですね。
アスカが「ガキに必要なのは、恋人じゃなくて母親よ」って言うシーンがあるんですけど、劇中シンジは確実に大人としての自分を獲得していってたので、逆説的にマリは母ではないんじゃないかなって思いましたよ。
僕もマリが母性的な存在かっていうと、ちょっと違和感がありますね。
女性キャラに母性が仮託されていた、というのは疑問がある?
それはわかる。新見さんが言ってる話は、ミサトさんには当てはまると思うよ。
そうですね。「エヴァ」がそうだというわけではなく、「女性は母性的であるべき」という画一的なメッセージに疑問を呈すのは重要だと思うんです。
でも、ミサトさんに関しては旧劇でも保護者としてシンジ君やアスカと関わりつつも「母親」にはなれなかったと発言をしていた。保護者になろうと模索した女性が大人になって、ただ母親になっただけなんじゃないかなって。
でも、それもすごい画一的なんじゃないかと思う。大人になるってことは、母親になるっていうことなのかな。
ミサトを置いといたとしても、マリと比較される安野モヨコは『プロフェッショナル』を見ても明らかなように、庵野総監督の母親的存在になっているわけじゃない。
母性的な存在がイコール母親ではないんじゃないですかね。庵野夫妻がそういう形の関係だったというだけで。
でも、母親的な存在じゃなくても何らかの母性が強調されてはいるよね。そうすると、幼児性から成長するためには自分を全的に肯定してくれる母性が必要だっていう話に反転しちゃわないかなって思ったんですよね。
いや、たぶん成長と母性は関係ないかなとは思いますけどね。マリが庵野総監督の外部からつくられたとか、自分のコミュニティの外の存在だっていうはすごい納得なんだけど。母と子供の関係性は男女とは違うと思うし。
シンジが父と対峙し母と決別してマリに迎えに来てもらったように、庵野総監督が今いるところから飛び出して、思い出を忘れて進んだ先にいた人が愛情深い人だったというだけなんじゃないかなって思うんですよ。
でも、それならなんでマリはゲンドウとマリの同級生じゃなきゃいけなかったんだろう。シンジにとって必要な存在だっただけならそもそもその設定はいらないし、マリはただシンジと同世代の女の子という属性でいいわけじゃん。
なぜわざわざシンジの親との同窓生である必要があったのか。
私は、その理由はシンジ側にあるんじゃなくて、マリがシンジを選ぶ理由をつくるために必要だったんじゃないかと思ってます。
マリはユイのことを好きで、さらにアスカのこともすごい好きだったじゃないですか。だからマリは二人との関係が強いシンジを選んだっていう、マリが選ぶ理由を持たせたかったんじゃないかなと思いました。
なるほどね。その視点はなかったけど面白いですね。
あと、話が進むに連れてどんどんガチなやりとりばかりになってて、果たして誰かついてきてくれるのか……。私は心配です。
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連載
その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
4件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:4711)
にいみさんの「結局シンジは母的な存在に救われた」「特定のキャラに母性が強く要請されている」「いかなる作品も同時代性をもつから、エヴァに限ったことではない。自分の体験を特別視しすぎじゃないか」というご指摘に、ことごとく納得です。自分が違和感を覚えたポイントを明らかにしていただいたと思いました。
小林優介
コメントありがとうございます! 編集部の小林です。
プロフィール部分を執筆いたしました。
ご指摘の件、失礼いたしました。
「エヴァンゲリオン」の勉強・確認が足りておりませんでした。
もう一度視聴し直しておきます…!
匿名ハッコウくん(ID:4372)
居酒屋でやれよ