『君たちはどう生きるか』と『シン・仮面ライダー』の共通性、そして差異について

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改めて、宮崎駿と庵野秀明について

『君たちはどう生きるか』と『シン・仮面ライダー』双方に込められている共通のメッセージ──それは理想郷の中で生きるのではなく、現実の世界を生きなさい、ということだろう。

主人公を含めて、人の中には悪意や穢れが存在しており、そうした自身の愚かさを自覚もせず、理想を築くことはできない。これは、宮崎駿が、自身の作品に一貫して込めているメッセージである。

例えば漫画版の『風の谷のナウシカ』では、終盤に、自分たちが汚れた世界に生きるためにつくられた人造人間で、地表が浄化された後、新しい人類が繫栄することがわかる。その新人類は、清らかで汚れのない種族として生まれ変わるという。

そして用済みになったナウシカたちは、災厄とともに滅ぼされることになる。旧人類たちの身勝手さに怒ったナウシカは、巨神兵のオーマに命じ、新人類(厳密にいえば新人類の元)を滅ぼしてしまう。

ナウシカの行為は残忍に思える。これは、人工的な手段で、理想の人類をつくろうとする人間の欺瞞と傲慢さに対して怒りを覚えたのだ。

新人類のやろうとしたことは、汚れた世界で必死で生きようとする人間の意思をないがしろにする行為であり、いかに清らかな存在に生まれ変わるといっても、結局やっていることは、旧人類達が歴史上で犯した愚行と同じことを繰り返しているだけだった。

天空の城ラピュタ』も同じで、ヒロインのシータは、空飛ぶ城にふんぞり返り、強大な科学で人を支配しようとするムスカの傲慢さを批判し、「人は地に足をつけて生きなければならない」と説いている。

現実も見ないで理想を築くな──宮崎駿の作品から得られるメッセージだ。

それは『シン・仮面ライダー』にも引き継がれている。『シン・仮面ライダー』の本郷も、人の意思を無くしてでも幸福を得るより、辛くても現実の世界で生きることを選ぶ。

両作品の最大の差異について

両作品の最大の違いは、主人公の結末、生死だ。

『君たちはどう生きるか』の牧眞人は、ナツコとともに現実に戻るが、『シン・仮面ライダー』の本郷は、自分の意思を一文字に託して、死んでしまう。

ここに宮崎駿と庵野秀明との違いがある。宮崎は生を指向するのに対し、庵野は死に向かっていく

これは庵野の思想が、スクラップアンドビルドであるからと思われる。

庵野は、過去のドキュメンタリー等で義足だった父親の影響を語っている。物心ついた頃からある父の姿から、物事とはあらかじめ不完全であったり、どこかが壊れていたりするのが当たり前だという考え方をしている。

だから完全に壊れたら、新しい何かに替えてしまう。もしくは、その新しい何かに受け継いでもらおうとする。『新世紀エヴァンゲリオン』がGAINAXの崩壊を理由に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』として再構築されたように。

一見すると、それは『風の谷のナウシカ』の新人類の考え方に似ているようにも思える。しかし、『風の谷のナウシカ』では、自分たちが清らかな新人類になって清浄な世界を築くために、ナウシカをはじめとする他者をないがしろにするという自分本位な考え方をしている。

それに対し、『シン・仮面ライダー』の本郷は、自らは霊的な存在に生まれ変わって、新たな戦士・一文字隼人に託す。

自身の愚かさも悪意も見つめて、他人を受け入れてやれ。これが、双方の作品に共通しているテーマではないのだろうか。
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