戦いの最中で芽生える友情
眞人の邪魔をするのは、インコの集団で、本郷の邪魔をするのはSHOCKERのオーグメント(怪人)たちである。
眞人はナツコを連れて帰るため、本郷はチョウオーグの野望を阻止するために、彼らと戦わなくてはならない。
一方、戦いの中でも友情が芽生えることがある。眞人はアオサギと、本郷は仮面ライダー2号となる一文字隼人と友情を育むことになる。
当初のアオサギは、眞人とはそりが合わず、いがみ合ってばかりいた。アオサギがずる賢い性格をしていたからだ。しかし、ナツコを取り返すために、行動を共にしているうちに和解し、戦友のような関係性となる。
一文字はもともと本郷と同じ、ショッカーに改造されたバッタオーグであり、本郷とも一戦を交えていた。しかし、ルリ子の尽力で一文字はショッカーの洗脳が解け、本郷の仲間──仮面ライダー2号となる。
前述したように、アオサギもバッタも負の象徴と目される生き物だ。だが、アオサギにもバッタにも神聖を宿す一面があり、バッタは群れなければ、大人しい存在である。
見方や接し方を変えるだけで、嫌なものや敵も、善良な存在になることがある。
タブーを破っていく主人公
眞人は、塔の世界でナツコを探す中で、彼女が産屋にいることを突き止める。産屋とは、赤ん坊を産むために設けられる部屋のことだが、男性が産屋に入るのは、日本では古来から禁忌となっている。代表例では、『日本書紀』に伝わる豊玉姫の逸話などが例にあげられる。
産屋に入った眞人は、つわりで苦しむナツコから辛辣な言葉を投げかけられてしまう。
これは普段、眞人から冷遇されているナツコの仕返しのようにも思え、他人に対し、辛辣な態度をとる者は、ここぞという時に手痛い目に遭うことを伝えられたような気がした。
本郷も、本来は同胞であるはずのオーグメントを殺すというタブーを犯している。同胞や兄弟、生みの親を殺すというのは、石ノ森作品に共通する描写であり、『サイボーグ009』や『キカイダー』『変身忍者嵐』などにも見られる。
なぜタブーを犯すのか。主人公たちは、禁忌を冒してでも、目的を叶えなければいけないからだ。そして、それこそが両作品の主人公に課せられた試練となっている。
眞人はどれほど酷い言葉を投げかけられても、ナツコを連れて帰らなければならないし、本郷は、自身の同胞を殺してでも、SHOCKERと戦う必要がある。
禁忌を犯すということは、相手からは無礼で凶悪な人物として見られることでもあり、大勢の人を敵に回さなければならないことを意味している。
魂の転生、生命の輪廻
なぜ、産屋に入ってはならないのか?それは産屋が新たな生命を生み出す場であるため、何かあったら、母親や子どもが死んでしまう可能性があるからだ。
言ってみれば、産屋とは、生と死の双方が存在している場所でもある。それは、塔の世界でも同じである。
眞人は塔の世界に入ると、猟師のキリコから獲った魚をさばき方を学び、ワラワラという不思議な生き物を通じて、生命の営みを学んでいる。
このワラワラというのは、人の魂のもととなっている生き物だが、塔の世界では、ペリカンなどがこのワラワラを捕食しようとやってくるのだ。
つまり、ワラワラとは生と死、そして魂の転生を暗示しているようにも思える。
一方、『シン・仮面ライダー』では、プラーナと呼ばれる概念が出てくる。プラーナとは元々インド哲学で出てくる言葉であり、生命そのもの、もしくは、風の元素という意味である。
つまり、ワラワラ、プラーナなど、双方の作品には生命の根源ともいうべき存在が登場するのだ。
また、『君たちはどう生きるか』では、鳥が多く登場するが、古来から、鳥というのは、人の魂の生まれ変わりと言れており、古事記では、ヤマトタケルは死後、白鳥に生まれ変わったと言われている(一説によるとヤマトタケルは、白鳥ではなく、アオサギの仲間である白鷺に生まれ変わったとも言われている)。
一方、仮面ライダーはバッタの改造人間であるが、虫は古来から死者の魂とも言われていた。
浄土信仰を暗示させるようなハビタット世界という概念のように『シン・仮面ライダー』には、どこか仏教的な要素が取り入れられている(終盤でチョウオーグの仮面が割れる様は、宝誌和尚立像によく似ている)。
そして、仏教では輪廻転生の概念があるように、『シン・仮面ライダー』は魂の転生を暗示させる要素がある。
また、本郷の最後の敵であるチョウオーグのモチーフは蝶であるが、仏教だと、蝶は人の魂を浄土に運ぶ存在と言われている。
双方の作品は魂の転生を暗示する。
また、『シン・仮面ライダー』では、プラーナは新しい技術として期待される半面、無暗に使えば、プラーナの奪い合いになることを示唆している。
つまり、新しい技術で進化した人類を作り上げても、戦いや殺し合いを避けることができないということを伝えているようである。
『君たちはどう生きるか』でも、ワラワラがペリカンに食べられてしまうように、生と死のやりとりというのは、命の奪い合いであり、そして殺し合いであるということを意味している。
選択──作られた世界か? ありのままの世界か?
眞人は最後に、塔の世界をつくった大叔父と対面する。大叔父は、塔の中に自分の理想郷を築こうとしていた。『シン・仮面ライダー』のラスボスである、チョウオーグも、ハビタット世界を作り上げて、人類を争いや殺し合いの無い理想の世界に導こうとしていた。
大叔父は、眞人に後継者となってもらおうとしていたが、眞人はそれを拒み、眞人は現実の世界を選んだ。
一方、本郷もハビタット世界が自我の保てない世界と知ると、ルリ子と共に、チョウオーグの計画を阻止しようとした。
前述したように、現実の世界は戦いや殺し合いを無くすことはできない。
それでも、双方とも、理想郷ではなく、悪意や穢れに満ちた現実世界を選んだのである。
なぜ、理想郷ではなく、悪意に満ちた現実を選んだのか? それは、主人公たちにも悪意や穢れがあったからだ。
眞人は、学校に入学した際、いじめを受けてしまい、その際、眞人はわざと石をぶつけて、大けがを負ってしまう。
眞人は終盤で、この自分の行為を「悪意」と語っている。事態を大事にすることで、ナツコや父親への“当てつけ”のような行為を行った(そもそもいじめられた原因は父親から車で送ってもらったことが原因)。
本郷も、普段は大人しいのに、仮面ライダーとなると、凶暴性が増し、人殺しも平気で行うようになってしまう。
つまり、悪意や穢れは、一人一人の人間がばらまいている。主人公も含めて、全員に責任があり、そこを無視して悪意のない理想郷を創るというのは、欺瞞ということなのだろう(少なくとも両作品はそのような立場を取っているように思う)。
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蔵無
漫画考察者。
特撮、文芸書も大好き。
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