日本のアニメやゲーム、J-POPのファンは海外にも多い。しかし、彼ほど熱く日本のポップカルチャーへの愛を語り、かつロジカルにその特徴を分析することのできるミュージシャンは他にいないのではないだろうか。
グラミー賞ノミネート経験もあるサックス奏者のパトリック・バートレイ Jr.へのインタビューは、そういう意味で、とても興味深い内容になった。
パトリックは、幼い頃から音楽の英才教育を受け、名門音楽大学のマンハッタン音楽院で学んだジャズ・ミュージシャン。現在は27歳、ウィントン・マルサリスなどジャズ界の大御所からザ・チェインスモーカーズまで幅広い共演経験を持つ第一線のプレイヤーだ。
そんな彼は、自身が率いるプロジェクト「J-MUSIC Ensemble」で、多くのJ-POPやアニソン、ゲーム・ミュージックの楽曲を自らアレンジし演奏している。その中で日本の音楽文化の構造や音楽的な特徴を探求し、先日に人気音楽系ユーチューバーのアダム・ニーリーのチャンネルに登場しそれを解説した動画も話題を呼んだ。Mixing Jazz and J-Pop
そこでKAI-YOUでは、2月に来日したパトリックにロングインタビューを実施。一流のジャズプレーヤーからみたJ-POPの音楽的特異性を解題してもらった。
こちらでは、アメリカ南部の黒人社会で育ったパトリック少年が、なぜ日本のポップカルチャーへの愛に目覚めたのかを掘り下げる。
ドラゴンボールZ、ソニック・ザ・ヘッジホッグ、トライガン、東のエデン、school food punishment、sasakure.uk、Perfume……。彼が生い立ちとともに語るさまざまな作品やアーティストとの出会いは、日本のポップカルチャーがアメリカにどのように伝わり、どんな影響を与えていったかを、如実に物語っている。
インタビュー・執筆:柴那典 通訳:LIT_JAPAN 撮影・編集:和田拓也 取材協力:Jazz Cafe Bar DUG、Jazz House NARU
パトリック 僕は南フロリダのハリウッドという街で生まれ育ちました。そこは子供が機会に恵まれるという意味では決して最良とは言い難い環境でした。いわゆるインナー・シティ(”スラム街”の婉曲的な表現。低所得者層の多く住む都市部)で、アメリカ南部の多くの地域がそうであるように、歴史的に見ても黒人が意図的に隔離された結果としてできた地域でした。でも、両親はとても勤勉な人たちで、近所ともほとんど家族のような付き合い方をしていました。そういったコミュニティで育つことが出来たのはプラスでした。
それで、僕が5歳か6歳の頃に、両親と祖母がお金を出しあって、初代プレイステーションを買ってくれたんです。外の治安が悪かったので、家の中でゲームをすることに対して両親が寛容だったということもありました。だから、ゲームは物心ついたときからありましたし、僕の生い立ちの一部でもあります。メガドライブも家にあったので、最高のゲーム環境が整っていたんです。でも、当時はそれが日本製だとは知りませんでした。
──ゲームが入り口だったんですね。アニメに関してはどうでしょう?
パトリック アニメもやはり5歳か6歳の頃に観はじめました。当時、カートゥーン・ネットワークの「TOONAMI」という放送枠で『ドラゴンボールZ』や『るろうに剣心』『天地無用』や『機動戦士ガンダム』といった日本のアニメが放送されていました。なかでも『ドラゴンボールZ』は、僕らのような過酷な環境で育った黒人の子供にとって非常に大きな意味を持っていました。『ドラゴンボールZ』は、より良い人間であろう、そして高みを目指そうという、とても大きなインスピレーションを与えてくれた作品だったんです。ただ、やはり当時はそのアニメが日本のものだとは知らなかったんですね。 パトリック 漫画に出会ったのは10歳の頃のことでした。図書館でたまたま『らんま1/2』に出会って、一気に読破しました。一瞬にして漫画の虜になりましたよ。『ドラゴンボールZ』でアニメには馴染みがあったので、とても入りやすかったんですね。それを見た父が、僕の小学校の卒業記念にバーンズ&ノーブル(米最大手の書店チェーン)で見つけた『少年ジャンプ』を買ってくれて、それから一気に漫画にのめり込んでいきました。
日本のポップカルチャーがとにかく好きになり、もっと勉強したいと思うようになったんです。自国の文化だけでは得られないインスピレーションと感情を僕に与えてくれて、それ以来、僕と日本文化は切っても切れない関係になりました。
──日本の音楽との出会いはどんな感じでした?
パトリック それも小学生の頃でした。きっかけは『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』です。メガドライブでソニックをプレイして以来、関連するものは全て網羅したくなったんです。それである日パソコン・ショップに行ったら、「メガCD」版の『ソニック・ザ・ヘッジホッグCD』が売っていたんです。それを購入して、持っていたCDウォークマンに試しに入れてみたら全45トラックが表示された。それだけでもビックリだったんですが、全部を通して聴いてみたら、そこでパズルのピースがハマったような感覚があったんです。
──というのは?
パトリック もともと、僕はビジュアル・アーティストになりたかったんです。美術の道に進みたかったんですが、でも自分が色盲だということがわかりました。その一方で、自分に絶対音感があることも判明した。僕の音楽の先生が僕の才能を見出してくれて、「あなたの息子は音楽の道へ進むべきだ」と僕の母親に助言してくれたんです。
両親はとても協力的で、ちゃんと学校に通って良い成績を取り続けている限りはなんでもやらせてくれた。本当に恵まれていたと思います。それでクラリネットで中学校のオーディションに臨むことになったんです。すると、徐々に音楽の方で成果が出るようになった。自分は音楽の道に進むべきなんだという確信が強くなっていきました。 パトリック しかし、中学に入ってからも美術の道は諦めきれない思いがありました。ただ、僕の表現手段はクラリネットとサックスしかなかったんですね。だから僕はジャズで学んだ技術を、ビジュアル・アートの方向にも還元していました。ジャズの技術を上達させるには、ハンク・モブレーやマイルス・デイビスといった巨匠たちのコピーをしなくてはいけないのですが、それと同じように、僕は『ソニック』や『ベア・ナックル』などのゲーム音楽をクラリネットやサックスでコピーし始めたんです。
──ここでアニメ/ゲームなどのビジュアルを前提とした世界と、自分の武器であった音楽が繋がっていったと。
パトリック そうです。日本のゲーム音楽やアニソンには、すべての楽曲に膨大な量のストーリーとビジュアルが詰まっている。僕を知らないところに連れて行ってくれる感じがする。アニメやゲームの音楽が、僕(音楽)ビジュアル・アートの世界を繋いでくれたんです。
そこから『ソニック』や『天地無用』や『ドラゴンボールZ』を詳しく調べていって、どんどんアニメやゲームに惹かれていきました。そうやってアニメとゲームを深く愛好するようになったことが、その後の人生の選択に大きな影響を与えていったんです。アニソン“89秒“のストーリーテリングとは? 一流ジャズサックス奏者が解説&実演
グラミー賞ノミネート経験もあるサックス奏者のパトリック・バートレイ Jr.へのインタビューは、そういう意味で、とても興味深い内容になった。
パトリックは、幼い頃から音楽の英才教育を受け、名門音楽大学のマンハッタン音楽院で学んだジャズ・ミュージシャン。現在は27歳、ウィントン・マルサリスなどジャズ界の大御所からザ・チェインスモーカーズまで幅広い共演経験を持つ第一線のプレイヤーだ。
そんな彼は、自身が率いるプロジェクト「J-MUSIC Ensemble」で、多くのJ-POPやアニソン、ゲーム・ミュージックの楽曲を自らアレンジし演奏している。その中で日本の音楽文化の構造や音楽的な特徴を探求し、先日に人気音楽系ユーチューバーのアダム・ニーリーのチャンネルに登場しそれを解説した動画も話題を呼んだ。
ドラゴンボールZ、ソニック・ザ・ヘッジホッグ、トライガン、東のエデン、school food punishment、sasakure.uk、Perfume……。彼が生い立ちとともに語るさまざまな作品やアーティストとの出会いは、日本のポップカルチャーがアメリカにどのように伝わり、どんな影響を与えていったかを、如実に物語っている。
インタビュー・執筆:柴那典 通訳:LIT_JAPAN 撮影・編集:和田拓也 取材協力:Jazz Cafe Bar DUG、Jazz House NARU
『ドラゴンボール』『ソニック』が、インナーシティの少年と世界を繋いだ
──パトリックさんが日本のカルチャーにふれたきっかけはどんなところにあったんでしょうか。パトリック 僕は南フロリダのハリウッドという街で生まれ育ちました。そこは子供が機会に恵まれるという意味では決して最良とは言い難い環境でした。いわゆるインナー・シティ(”スラム街”の婉曲的な表現。低所得者層の多く住む都市部)で、アメリカ南部の多くの地域がそうであるように、歴史的に見ても黒人が意図的に隔離された結果としてできた地域でした。でも、両親はとても勤勉な人たちで、近所ともほとんど家族のような付き合い方をしていました。そういったコミュニティで育つことが出来たのはプラスでした。
それで、僕が5歳か6歳の頃に、両親と祖母がお金を出しあって、初代プレイステーションを買ってくれたんです。外の治安が悪かったので、家の中でゲームをすることに対して両親が寛容だったということもありました。だから、ゲームは物心ついたときからありましたし、僕の生い立ちの一部でもあります。メガドライブも家にあったので、最高のゲーム環境が整っていたんです。でも、当時はそれが日本製だとは知りませんでした。
──ゲームが入り口だったんですね。アニメに関してはどうでしょう?
パトリック アニメもやはり5歳か6歳の頃に観はじめました。当時、カートゥーン・ネットワークの「TOONAMI」という放送枠で『ドラゴンボールZ』や『るろうに剣心』『天地無用』や『機動戦士ガンダム』といった日本のアニメが放送されていました。なかでも『ドラゴンボールZ』は、僕らのような過酷な環境で育った黒人の子供にとって非常に大きな意味を持っていました。『ドラゴンボールZ』は、より良い人間であろう、そして高みを目指そうという、とても大きなインスピレーションを与えてくれた作品だったんです。ただ、やはり当時はそのアニメが日本のものだとは知らなかったんですね。 パトリック 漫画に出会ったのは10歳の頃のことでした。図書館でたまたま『らんま1/2』に出会って、一気に読破しました。一瞬にして漫画の虜になりましたよ。『ドラゴンボールZ』でアニメには馴染みがあったので、とても入りやすかったんですね。それを見た父が、僕の小学校の卒業記念にバーンズ&ノーブル(米最大手の書店チェーン)で見つけた『少年ジャンプ』を買ってくれて、それから一気に漫画にのめり込んでいきました。
日本のポップカルチャーがとにかく好きになり、もっと勉強したいと思うようになったんです。自国の文化だけでは得られないインスピレーションと感情を僕に与えてくれて、それ以来、僕と日本文化は切っても切れない関係になりました。
──日本の音楽との出会いはどんな感じでした?
パトリック それも小学生の頃でした。きっかけは『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』です。メガドライブでソニックをプレイして以来、関連するものは全て網羅したくなったんです。それである日パソコン・ショップに行ったら、「メガCD」版の『ソニック・ザ・ヘッジホッグCD』が売っていたんです。それを購入して、持っていたCDウォークマンに試しに入れてみたら全45トラックが表示された。それだけでもビックリだったんですが、全部を通して聴いてみたら、そこでパズルのピースがハマったような感覚があったんです。
──というのは?
パトリック もともと、僕はビジュアル・アーティストになりたかったんです。美術の道に進みたかったんですが、でも自分が色盲だということがわかりました。その一方で、自分に絶対音感があることも判明した。僕の音楽の先生が僕の才能を見出してくれて、「あなたの息子は音楽の道へ進むべきだ」と僕の母親に助言してくれたんです。
両親はとても協力的で、ちゃんと学校に通って良い成績を取り続けている限りはなんでもやらせてくれた。本当に恵まれていたと思います。それでクラリネットで中学校のオーディションに臨むことになったんです。すると、徐々に音楽の方で成果が出るようになった。自分は音楽の道に進むべきなんだという確信が強くなっていきました。 パトリック しかし、中学に入ってからも美術の道は諦めきれない思いがありました。ただ、僕の表現手段はクラリネットとサックスしかなかったんですね。だから僕はジャズで学んだ技術を、ビジュアル・アートの方向にも還元していました。ジャズの技術を上達させるには、ハンク・モブレーやマイルス・デイビスといった巨匠たちのコピーをしなくてはいけないのですが、それと同じように、僕は『ソニック』や『ベア・ナックル』などのゲーム音楽をクラリネットやサックスでコピーし始めたんです。
──ここでアニメ/ゲームなどのビジュアルを前提とした世界と、自分の武器であった音楽が繋がっていったと。
パトリック そうです。日本のゲーム音楽やアニソンには、すべての楽曲に膨大な量のストーリーとビジュアルが詰まっている。僕を知らないところに連れて行ってくれる感じがする。アニメやゲームの音楽が、僕(音楽)ビジュアル・アートの世界を繋いでくれたんです。
そこから『ソニック』や『天地無用』や『ドラゴンボールZ』を詳しく調べていって、どんどんアニメやゲームに惹かれていきました。そうやってアニメとゲームを深く愛好するようになったことが、その後の人生の選択に大きな影響を与えていったんです。
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