いわゆる「天才」だけが天才なのだろうか。
誰もが、みんなが、わからない部分、自分の意思まで超越しちゃった部分、すなわち天才的な部分を、持ってるのだろうな、と、『劇場』を読んで思った。
3月7日発売の『新潮』4月号に、又吉直樹のデビュー後2作目となる『劇場』が掲載された。
『劇場』は、又吉の芥川賞受賞後、初発表された長編作品にして、自身初となる“恋愛小説”と大々的に報道された。
芥川賞を又吉と同時に受賞した羽田圭介の『成功者K』(河出書房新社)も、ほぼ同じタイミングでの刊行である。書店でも2作を並べての販売が見られた。
『劇場』を、恋愛小説として読むのは無理がある。と言うか、恋愛小説として読むものではない。
※本稿は作品のネタバレを含みます
作品の冒頭で、主人公は初めて出会った女性に声をかける。
「靴、同じですね」と主人公は言う。
女性は「違いますよ」と返す。
それでも「同じやで」と主人公は食い下がる。
主人公と女性の靴は違うものだ。
主人公がその女性にこだわったことに、明確な理由はない。2人の靴が違うのに同じであってほしいと主人公が思ったことにもはっきりとした理由は書かれていない。描写からは、主人公自身も自分の行動をよくわかっていないような印象を受ける。
主人公の意味のわからなさに女性は困惑する。その後、交際を始めることになる。
ほとんど女性(以下彼女と呼ぶ)の前でだけ、主人公のわからない部分は発露される。
大したことがないことで急に怒り始めたり、彼女がもらってきたバイクを借りて、彼女がおどけているのに無視して通り過ぎることを何度も繰り返したりする。
主人公は彼女を馬鹿だと思っている。けれど主人公は彼女の時々見せる「あらゆる感情がない交ぜになった表情」が気にかかる。その意味するところが主人公にはわからない。
わからないところのある彼女には、主人公はわからなさを発揮できる。劇作家としては、自分の考えている「演劇とは」という理論の部分が邪魔をして、主人公の本来持っている「わからなさ」が演劇に生きてこない。
主人公は戯曲を書き続ける。彼女に金も渡さず本やCDを買う。努力の結果生み出された演劇の客はなかなか増えていかない。
主人公は彼女の見せるわからない表情を恐れるようになってくる。
わからないものはおそろしい。
主人公の劇団はあまり人気がない。劇作家の本業そこそこに、主人公はサッカーのゲームをやる。選手に、作家の名前をつける。芥川、太宰、朔太郎、などだ。
彼の振る舞いはまるで、自分の地道に培ってきた知識が、読んできた書物が、「自分が作家として積み重ねてきた努力の証」であるかのようだ。
そして、彼らの名前を冠した選手たちでゲームに勝ち進んでいくことで、自分は強い、作家として正しいのだということを証明しようとしているようにも感じた。
とがった劇団の芝居を見に行き、舞台に日本文学作品が小道具として並べられていることに主人公は動揺する。
天才に、自分の努力の部分でも勝っていなかったのであれば、追い抜くすべはないだろう。
これはお笑い芸人を描いた又吉の前作『火花』にも見られるが、地道な努力をする人の、天才型への憧れという構図がある。
演劇と向き合うことにも、わからないことと向き合うことにも、主人公は失敗している。
自身の中のわからない部分をどんどん殺していって、演劇とは、ということを考え、しまいに、彼女との別れの場面ですら、演劇の台詞というテイで会話を始めだす。
演劇というものに、食われてしまっているのだ。
主人公の日常はすべて劇場になってしまった、と言ってもいいかもしれない。
誰もが、みんなが、わからない部分、自分の意思まで超越しちゃった部分、すなわち天才的な部分を、持ってるのだろうな、と、『劇場』を読んで思った。
3月7日発売の『新潮』4月号に、又吉直樹のデビュー後2作目となる『劇場』が掲載された。
『劇場』は、又吉の芥川賞受賞後、初発表された長編作品にして、自身初となる“恋愛小説”と大々的に報道された。
芥川賞を又吉と同時に受賞した羽田圭介の『成功者K』(河出書房新社)も、ほぼ同じタイミングでの刊行である。書店でも2作を並べての販売が見られた。
『劇場』を、恋愛小説として読むのは無理がある。と言うか、恋愛小説として読むものではない。
※本稿は作品のネタバレを含みます
又吉直樹『劇場』のあらすじと、主人公の向き合い方について
『劇場』のあらすじを説明する。といった話だ。主人公は劇作家。道で出会った女性(のちの彼女)の家に転がり込み、いわゆるヒモになる。主人公の劇団からは人が辞めていってしまう。あるときとがった劇団の演劇を観にいく。そのとがった劇団の、天才肌である劇作家の才能に主人公は嫉妬をする。彼女との関係はいつからか崩れてしまっていた。又吉直樹『劇場』のあらすじ
作品の冒頭で、主人公は初めて出会った女性に声をかける。
「靴、同じですね」と主人公は言う。
女性は「違いますよ」と返す。
それでも「同じやで」と主人公は食い下がる。
主人公と女性の靴は違うものだ。
主人公がその女性にこだわったことに、明確な理由はない。2人の靴が違うのに同じであってほしいと主人公が思ったことにもはっきりとした理由は書かれていない。描写からは、主人公自身も自分の行動をよくわかっていないような印象を受ける。
主人公の意味のわからなさに女性は困惑する。その後、交際を始めることになる。
ほとんど女性(以下彼女と呼ぶ)の前でだけ、主人公のわからない部分は発露される。
大したことがないことで急に怒り始めたり、彼女がもらってきたバイクを借りて、彼女がおどけているのに無視して通り過ぎることを何度も繰り返したりする。
主人公は彼女を馬鹿だと思っている。けれど主人公は彼女の時々見せる「あらゆる感情がない交ぜになった表情」が気にかかる。その意味するところが主人公にはわからない。
わからないところのある彼女には、主人公はわからなさを発揮できる。劇作家としては、自分の考えている「演劇とは」という理論の部分が邪魔をして、主人公の本来持っている「わからなさ」が演劇に生きてこない。
主人公は戯曲を書き続ける。彼女に金も渡さず本やCDを買う。努力の結果生み出された演劇の客はなかなか増えていかない。
主人公は彼女の見せるわからない表情を恐れるようになってくる。
わからないものはおそろしい。
主人公の劇団はあまり人気がない。劇作家の本業そこそこに、主人公はサッカーのゲームをやる。選手に、作家の名前をつける。芥川、太宰、朔太郎、などだ。
彼の振る舞いはまるで、自分の地道に培ってきた知識が、読んできた書物が、「自分が作家として積み重ねてきた努力の証」であるかのようだ。
そして、彼らの名前を冠した選手たちでゲームに勝ち進んでいくことで、自分は強い、作家として正しいのだということを証明しようとしているようにも感じた。
とがった劇団の芝居を見に行き、舞台に日本文学作品が小道具として並べられていることに主人公は動揺する。
天才に、自分の努力の部分でも勝っていなかったのであれば、追い抜くすべはないだろう。
これはお笑い芸人を描いた又吉の前作『火花』にも見られるが、地道な努力をする人の、天才型への憧れという構図がある。
演劇と向き合うことにも、わからないことと向き合うことにも、主人公は失敗している。
自身の中のわからない部分をどんどん殺していって、演劇とは、ということを考え、しまいに、彼女との別れの場面ですら、演劇の台詞というテイで会話を始めだす。
演劇というものに、食われてしまっているのだ。
主人公の日常はすべて劇場になってしまった、と言ってもいいかもしれない。
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