秋元康の批評として機能する平手友梨奈
これはさまざまな事件や批判、憶測が生んだ悲劇なのか?いや、欅坂46の表現とは、ある意味では最初からこうだったのではないだろうか?
デビュー曲「サイレントマジョリティー」を振り返ってみてほしい。あのMVが私たちに与えた衝撃とは、単純に説明できるものではなかった。AKB48の系譜に連なる、統一された制服を着た秋元康という権威の掌の上で踊るアイドルグループが、自由と反抗を歌う。そこには強烈な矛盾があり、滑稽さすらあった。
「アイドルとは少女たちの性的搾取なのではないか?」「アイドルが苦しむ状況を作り出し、その姿をドキュメンタリーとして見せるのは、歪な感動ポルノではないのか?」とは、常に女性アイドルを取り巻く環境、とりわけ秋元康が手掛けるアイドルに対し寄せられていた批判である。その文脈からすれば、平手はすでに秋元康のコントロール下にはいない。 ときに秋元康が書いた歌詞に恐ろしいほどのシンクロを見せ、ときにその歌詞を否定するかのように振る舞う平手友梨奈とは、それがどこまで意図的なものかは知る由もないが、結果として確実に秋元康への批評として機能しているのだ。秋元康が提示する作品に対するYESか、NOか、あるいは疑問符か? それを表明すること。サイレントマジョリティーであることを拒否すること。それこそが平手友梨奈が選んだ道なのかもしれない。
そう考えれば、予定調和を嫌う秋元康が彼女を重用するのも無理はない。彼にとって平手友梨奈とはミューズであり、ときに共作者であり、ときに凶暴な批評家なのだ。
かつて誰もが持っていた”何か”を諦めない平手友梨奈
紛れもなく平手友梨奈はカリスマだ。彼女がいないように欅坂46を語ることはできない。ステージにメンバーが横並びとなりMCをするとき、そこに平手友梨奈の姿はない。なぜか? それを見て見ぬ振りすることは、大人やメディアの“察し”ではなく“嘘”ではないのだろうか。その一節の通り、自分らしく生きる道を歩んだ黒い羊。その道に降りかかる受難と喜びの表現こそが、今の欅坂46なのではないだろうか? つまり平手友梨奈と他メンバーの対比は、この群像劇を表現するための残酷な舞台装置でもあるのだ。“君は君らしく 生きていく自由があるんだ” 「サイレントマジョリティー」
2017年末以来となる、平手を加えたメンバーでの「不協和音」披露は象徴的だ。2019年においてなお、彼女は思ってもいないことを言ったり、どこにも実態のない笑顔を浮かべたりすることで「あの頃は中二病だったんですよ」などとお茶を濁すことはしない。渋谷にPARCOが戻ってくる今、あの頃思い描いていた“大人”になった彼女は、何も諦めていないのだ。 平手友梨奈はカリスマであると同時に、かつて誰もが持っていた”何か”だ。むしろ、かつては誰もが、平手友梨奈だった。それこそが、彼女が私たちを惹きつけてやまない、それと同時に疎ましくさえ感じさせる、強烈な求心力の理由の一つだろう。
それを自覚することが、平手友梨奈を語る我々が選べる一つの責任の取り方ではないか。そう感じた。
最後に披露されたソロ曲「角を曲がる」は、主演映画『響』の主題歌でありながら、間違いなく欅坂46の平手友梨奈としての自伝的要素を孕んだ楽曲だ。浴びせかけられる罵倒と称賛、崇拝と落胆、すべての狭間でもがき苦しむ、ひとりの人間の独白。そんな楽曲とともに、東京ドームという日本最大級のベニューの中心でたったひとり踊る平手友梨奈と、それを観る数万の観客。あの光景は、すべての縮図であるかのようだった。
欅坂46、平手友梨奈の歩み
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照沼健太
Editor / Writer / Photographer
編集者/ライター/カメラマン。MTV Japan、Web制作会社を経て、独立。2014年よりユニバーサルミュージック運営による音楽メディア「AMP」の編集長を務め、現在は音楽・カルチャー・広告等の分野におけるコンテンツ制作全般において活動を行っている。ブログメディア「SATYOUTH.COM」を運営中。http://satyouth.com
1件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:3042)
日向坂公演の翌日にこの記事ですか・・
なにか思惑があるのでしょうか?