廃墟のようなステージを一人彷徨う平手友梨奈。瓦礫の隙間から降り注ぐ光のようなトップライトに照らされたグランドピアノにたどり着いた彼女は、光のなか一音だけピアノの鍵盤を静かに叩く…。
欅坂46の「夏の全国アリーナツアー2019」ファイナルとなる東京ドーム追加公演は、そんな演出で幕を開けた。入場SE「Overture」と共に流れる長濱ねるの名前がないメンバー紹介映像に続くオープニングトラックは「ガラスを割れ」。平手友梨奈不在のままテレビパフォーマンスされていたことでも知られるシングル曲だが、会場ステージの中心には平手が立っていた。 そう、結論から言えば、この日のライブは徹頭徹尾、平手友梨奈だった。
決して「欅坂46とは“平手友梨奈とその他大勢”である」と言いたいわけではない。事実として、この東京ドーム公演は、平手友梨奈が一人で幕を開け、ソロ曲「角を曲がる」の初パフォーマンスとともに、文字通り彼女が一人で幕を下ろす構成となっていた。欅坂46 『角を曲がる』
グループ全体曲を中心に構成されながら、時折平手以外のメンバーによるユニット曲やMCが挟まれるというセットリストが見せたものは、平手がいる楽曲と平手がいない楽曲の激しい乖離であり、彼女の存在や不在が生む強烈な違和感。そして、そんな平手の異質さこそが、欅坂46というグループをアクチュアルな存在たらしめているという事実だった。
取材・文:照沼健太 撮影:上山陽介
【写真】欅坂46の東京ドーム公演の様子をもっと見る
握手会での発煙筒事件に端を発し、平手友梨奈の不調や負傷、一時離脱、そして相次ぐメンバーの脱退により、瞬く間にオリジナルメンバーでの活動は終わった。タイアップや雑誌の表紙は増える一方で、作品のリリースは明らかに滞るようになった。ある瞬間から平手友梨奈の顔からは生気が失われ、グループ活動の中で表に立つこと自体が減っていった。
そんな流れの中、平手友梨奈が腫れ物であるかのように扱われるのに時間はかからなかった。ライブやTV出演があれば、その話題の中心は“平手が笑顔を見せたかどうか”。そのうち彼女のカリスマ視に繋がる言説は、アンチを駆り立て、グループ内の軋轢を生む行為だと見なされ、暗黙のうちに禁止事項のようになっていった。
それは無理もない。そこにあるのは彼女のことを気遣う優しさがほとんどだろう。確かに彼女をカリスマ視させる言説は、回り回って彼女を傷つけることに繋がるかもしれない。いや、きっと繋がってきたはずだ。 だから、「もう平手友梨奈についてはあえて語るべきではない」──。正直、筆者はそう思っていた。これまであらゆるアーティストが自らのパブリックイメージに絡め取られてしまってきたように、平手友梨奈という少女も、欅坂46というグループも、それを取り巻く環境も、すべてが自家中毒に陥ってしまっている。その一端に関与した責任が自分にもあるはずだ、と。
しかし、この日のライブを観て、それは「逃げ」ではないのだろうかとも感じさせられた。
あえて平手友梨奈を無視するように、他のメンバーに無理やり注目し“美しいグループ”として語ることは、優しさだろうか? むしろ平手友梨奈という存在が真っ向から否定している“嘘”に加担する行為なのではないだろうか? と。
それを変奏するかのように、続くグループによるダンストラックでは、風刺的な振り付けと映像で現代人の日常が表現される。規則正しくも、右に倣えの画一的なルーティーン。しかしそのルーティーンはやがて狂い出し、マスゲーム的なダンスも体をなさなくなる…。
そこで始まったのは「エキセントリック」。空気を読むことをせず、自然とはみ出し者になってしまう者の疎外感を歌った楽曲だ。欅坂46 『エキセントリック』
人気曲だけあり、この曲での会場の盛り上がりは凄まじいものがあった。まるで、疎外感や孤独感を持った者たちの緩やかな連帯。それはまさに従来のロック的なカタルシスに則った感動的な1シーンだ。
しかし、どうだろう? そんな盛り上がりをよそに、平手友梨奈の目は連帯を拒むかのように醒め切っていた。「どこまで行っても人は一人なのだ」と言わんばかりに。率直に思った。「一体、彼女の目には何が見えているのか?」と。
2年前の野外ライブ「欅共和国2017」を最後に、平手友梨奈は明らかにパフォーマンスを変えた。それまで彼女が何よりも大切にしていたのは、楽曲の主人公になりきるということだった。楽曲を表現することを第一に、楽曲の世界に入り込み役を演じるように歌い、踊る。それこそが彼女が“憑依型”と呼ばれる所以でもあった。
しかし「欅共和国2017」以後、彼女が楽曲ごとにカラフルに表情を変えることはなくなった。それに伴い、常に冴え渡っていたダンスも楽曲によっては著しく鈍化し「体調は大丈夫なのか?」という心配の声や、「やる気がない」という批判とともに、さまざまな憶測を呼ぶこととなった。 そうした観点から見れば、この日最も印象的だったのは「世界には愛しかない」と「アンビバレント」の対比だった。
前者における平手の感情表現に乏しいパフォーマンスは「『世界には愛しかない』なんて微塵も思っていないだろう」と感じさせるものだったが、それに対する「アンビバレント」では、まるで自分自身が楽曲そのものであるかのように生き生きとしていた。終盤のピークにはこの日初めての笑顔さえ見せていた。欅坂46 『アンビバレント』
二つの憶測が浮かんだ。まずは「彼女は楽曲の主人公になることをやめ、“平手友梨奈”のままパフォーマンスすることを選んだのではないか?」ということ、もう一つは「平手による楽曲の解釈が大きく変わったのではないか」ということだ。
どちらにせよ、そこで生まれるのは「平手と他メンバーが同調している楽曲」と「平手の無表情と、他メンバーの笑顔の落差が凄まじい楽曲」のいずれかだ。
もちろんその真実は分からないが、ステージ上に強烈なギャップが生まれていることだけは間違いない。愛の素晴らしさを表現するようにキラキラと輝いた笑顔を見せる他メンバー、それに対し平手友梨奈は愛の苦しさに目を向けるかのような、あるいは不信をあからさまにするかのような無表情を見せる。
欅坂46の「夏の全国アリーナツアー2019」ファイナルとなる東京ドーム追加公演は、そんな演出で幕を開けた。入場SE「Overture」と共に流れる長濱ねるの名前がないメンバー紹介映像に続くオープニングトラックは「ガラスを割れ」。平手友梨奈不在のままテレビパフォーマンスされていたことでも知られるシングル曲だが、会場ステージの中心には平手が立っていた。 そう、結論から言えば、この日のライブは徹頭徹尾、平手友梨奈だった。
決して「欅坂46とは“平手友梨奈とその他大勢”である」と言いたいわけではない。事実として、この東京ドーム公演は、平手友梨奈が一人で幕を開け、ソロ曲「角を曲がる」の初パフォーマンスとともに、文字通り彼女が一人で幕を下ろす構成となっていた。
取材・文:照沼健太 撮影:上山陽介
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“そこにいない平手友梨奈”を見て見ぬ振りすることの、異常性
少し話を遡ろう。言いにくい話ではあるが、欅坂46というグループ、そしてその周辺が、いつからか重苦しい空気に包まれるようになっていたのは、彼女たちを追いかけている者なら誰もが知ることだ。握手会での発煙筒事件に端を発し、平手友梨奈の不調や負傷、一時離脱、そして相次ぐメンバーの脱退により、瞬く間にオリジナルメンバーでの活動は終わった。タイアップや雑誌の表紙は増える一方で、作品のリリースは明らかに滞るようになった。ある瞬間から平手友梨奈の顔からは生気が失われ、グループ活動の中で表に立つこと自体が減っていった。
そんな流れの中、平手友梨奈が腫れ物であるかのように扱われるのに時間はかからなかった。ライブやTV出演があれば、その話題の中心は“平手が笑顔を見せたかどうか”。そのうち彼女のカリスマ視に繋がる言説は、アンチを駆り立て、グループ内の軋轢を生む行為だと見なされ、暗黙のうちに禁止事項のようになっていった。
それは無理もない。そこにあるのは彼女のことを気遣う優しさがほとんどだろう。確かに彼女をカリスマ視させる言説は、回り回って彼女を傷つけることに繋がるかもしれない。いや、きっと繋がってきたはずだ。 だから、「もう平手友梨奈についてはあえて語るべきではない」──。正直、筆者はそう思っていた。これまであらゆるアーティストが自らのパブリックイメージに絡め取られてしまってきたように、平手友梨奈という少女も、欅坂46というグループも、それを取り巻く環境も、すべてが自家中毒に陥ってしまっている。その一端に関与した責任が自分にもあるはずだ、と。
しかし、この日のライブを観て、それは「逃げ」ではないのだろうかとも感じさせられた。
あえて平手友梨奈を無視するように、他のメンバーに無理やり注目し“美しいグループ”として語ることは、優しさだろうか? むしろ平手友梨奈という存在が真っ向から否定している“嘘”に加担する行為なのではないだろうか? と。
「世界には愛しかない」と「アンビバレント」の対比に見る平手の変化
セットリストのインタールード、東京ドームのステージ上には再びたった一人の平手の姿があった。彼女はピアノの旋律とともにグランドピアノの上で舞い踊り、最後には鍵盤を踏みつけて不協和音を鳴らした。それを変奏するかのように、続くグループによるダンストラックでは、風刺的な振り付けと映像で現代人の日常が表現される。規則正しくも、右に倣えの画一的なルーティーン。しかしそのルーティーンはやがて狂い出し、マスゲーム的なダンスも体をなさなくなる…。
そこで始まったのは「エキセントリック」。空気を読むことをせず、自然とはみ出し者になってしまう者の疎外感を歌った楽曲だ。
しかし、どうだろう? そんな盛り上がりをよそに、平手友梨奈の目は連帯を拒むかのように醒め切っていた。「どこまで行っても人は一人なのだ」と言わんばかりに。率直に思った。「一体、彼女の目には何が見えているのか?」と。
2年前の野外ライブ「欅共和国2017」を最後に、平手友梨奈は明らかにパフォーマンスを変えた。それまで彼女が何よりも大切にしていたのは、楽曲の主人公になりきるということだった。楽曲を表現することを第一に、楽曲の世界に入り込み役を演じるように歌い、踊る。それこそが彼女が“憑依型”と呼ばれる所以でもあった。
しかし「欅共和国2017」以後、彼女が楽曲ごとにカラフルに表情を変えることはなくなった。それに伴い、常に冴え渡っていたダンスも楽曲によっては著しく鈍化し「体調は大丈夫なのか?」という心配の声や、「やる気がない」という批判とともに、さまざまな憶測を呼ぶこととなった。 そうした観点から見れば、この日最も印象的だったのは「世界には愛しかない」と「アンビバレント」の対比だった。
前者における平手の感情表現に乏しいパフォーマンスは「『世界には愛しかない』なんて微塵も思っていないだろう」と感じさせるものだったが、それに対する「アンビバレント」では、まるで自分自身が楽曲そのものであるかのように生き生きとしていた。終盤のピークにはこの日初めての笑顔さえ見せていた。
どちらにせよ、そこで生まれるのは「平手と他メンバーが同調している楽曲」と「平手の無表情と、他メンバーの笑顔の落差が凄まじい楽曲」のいずれかだ。
もちろんその真実は分からないが、ステージ上に強烈なギャップが生まれていることだけは間違いない。愛の素晴らしさを表現するようにキラキラと輝いた笑顔を見せる他メンバー、それに対し平手友梨奈は愛の苦しさに目を向けるかのような、あるいは不信をあからさまにするかのような無表情を見せる。
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照沼健太
Editor / Writer / Photographer
編集者/ライター/カメラマン。MTV Japan、Web制作会社を経て、独立。2014年よりユニバーサルミュージック運営による音楽メディア「AMP」の編集長を務め、現在は音楽・カルチャー・広告等の分野におけるコンテンツ制作全般において活動を行っている。ブログメディア「SATYOUTH.COM」を運営中。http://satyouth.com
1件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:3042)
日向坂公演の翌日にこの記事ですか・・
なにか思惑があるのでしょうか?