『東京卍リベンジャーズ』とはなんだったのか? 一貫して描かれた「痛みの共有」

『東京卍リベンジャーズ』とはなんだったのか? 一貫して描かれた「痛みの共有」
『東京卍リベンジャーズ』とはなんだったのか? 一貫して描かれた「痛みの共有」

『東京卍リベンジャーズ』最終回が掲載された『週刊少年マガジン』51号/画像はAmazonから

和久井健さんによる漫画『東京卍リベンジャーズ』が、11月16日(水)発売の『週刊少年マガジン』で最終回を迎えた。

2017年に連載が開始されてから5年半をかけての完結となる。連載中には、実写映画化やTVアニメ化も行われ、双方ともに大ヒット。社会現象ともいえるほどのブームを巻き起こした。

一方で、最終章に突入して以降は急な展開も多く、読者からの不満の声が多かったのも事実だ。

いちファンとしては、最終章の内容に納得がいかなかった部分はもちろんある。だからこそ『東京卍リベンジャーズ』がどういう物語だったのかを、もう一度考えてみたい。

※当記事には『東京卍リベンジャーズ』全編のネタバレが含まれます

ヤンキーを理解するための物語『東京卍リベンジャーズ』

『東京卍リベンジャーズ』は、ヤンキーという存在を理解するための物語だったように思う

本作には、マイキーとぺーやんの和解シーンや場地圭介・羽宮一虎の共犯関係、松野千冬と場地の「半分コ」、武道と千冬が共に殴られたことをきっかけに交流を深めていく場面など、痛みを共有し、理解しあうことで信頼を築くシーンが多く登場する。

そしてその、痛みを共有することで信頼関係を築くという論理は、なぜ「ヤンキー」は殴り合わなければならないのか? を説明するためのロジックとしても機能している。

だからこそ、『東京卍リベンジャーズ』の各章で立ちはだかる敵は、一方的に向こうの論理を押し付けてくるキヨマサ一派、他責思考に囚われ聞く耳を持たない一虎、これが家族のためだと頑なな意志を持つ柴大寿、共有できない痛みを抱え、固い絆で仲間と結ばれているが故に割り込む余地のないイザナなど、コミュニケーションが難しいキャラクターたちだった。

特にキヨマサ以外のキヨマサ一派は、どこかに居てもおかしくないレベルの話が通じなさそうなキャラクターとして、非常に生々しく嫌なデザインがされていたように思う。
映画『東京リベンジャーズ』キャラクターPV(キサキ×キヨマサ×ハンマver.)
そしてその敵の頂点に立っていたのが、コミュニケーションを悪事に利用する稀咲鉄太であり、一撃で全員を倒してしまうためにコミュニケーションが取れないマイキーだ。

逆に、絶対に倒れず挑みかかり、どんな相手にも殴りかかる(痛みを共有する)ヒーローとして、タケミチは描かれていた。

コンテンツとしてのヤンキーと犯罪者としてのヤンキー

この「痛みの共有」という観点から見ると、タイムリープという一見SF的な設定も、理解のための装置だと読むことができる。

「ヤンキー」とは不思議な存在だ。現代においてはその人口は減っていっているし、非行・犯罪・暴走などで人に迷惑をかけるため、理解しがたい犯罪者として認識されていることも多い。

しかしながら、殴り合いでコミュニケーションを行うヤンキー漫画は一世を風靡し、今も「Breaking Down」が人気を博すなど、「ヤンキー」は常にコンテンツとして消費されてきた。
BreakingDown6のオーディションVol.5
サウスが掲げた「不良の時代」は、おそらく前者の犯罪者としての「ヤンキー」を指している。

逆にマイキーが掲げた「不良の時代」は、「喧嘩ばっかして、でも自分のケツは自分で拭いて」というセリフからもおそらく、後者のヤンキー漫画的な「ヤンキー」を指している。

本作では、一度は「ヤンキー」から目を背けたタケミチを通して、後者の「ヤンキー」だった東京卍會がなぜ前者の犯罪組織になってしまったのかが、サスペンスとして描かれていく。

その過程では、タケミチと敵たちのバトルを通して、彼らがなぜ非行に走ることになったのか、というルーツまでが紐解かれていく。

大人であるタケミチが過去に戻り、「ヤンキー」たちと共に過ごし(痛みを共有し)理解していくというプロセスは、「ヤンキー」の存在感が薄くなった現代に生きる私たち読者が「ヤンキー」という人種を理解するための一助となる。

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