戸田真琴インタビュー 自分の価値を認められた「書く」と「撮る」をめぐる6年間

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強い力を放つのは、「個人的な誰か」についてつくられたもの

──今回の映画や小説の制作を通じて、ご自身の活動に対する変化は感じていますか。

戸田真琴 変化というより決意に近いものですが、私は、自分自身を含めた「個人的な誰か」について当てるものこそが、結局は強い力を放つと思っていて。エンタメ作品の制作などでは、よく「ターゲット」といった呼び方もされますが、それよりはもっともっと個人的なものです。

そもそも、他者をあるカテゴリーでまとめて捉えることに、私は暴力性を感じてしまうんです。そういったカテゴライズへの違和感は幼い頃からで、人の頭に植え付けられたボーダーラインを自力でなくしていこう、できれば他の人にとってのラインも薄くしていきたい、という意識があります。だからこそ、「不特定多数の誰か」に物をつくることは、私にとって難しいことなんです。

私自身も、特定の「誰か」に向けてつくられたものに強く心を動かされ、救われてきました。自分も同じように表現を続けていきたいですし、そうでなければ、やらなくてもいいくらいの気持ちでいます。

──届く人の範囲がとても狭くなりそうなことに恐れはありませんか?

戸田真琴 人間には共通見解的な「世界」はなく、人それぞれのなかに「世界」を持っている、と私は思います。

自分自身や特定の誰かを思い浮かべながら、ある個人を描くと、その人の持つ「世界」も作品に強く反映されます。そこで描かれた「自分以外の世界の有り様」を知ることは、観た人の世界に変化を生じさせ、「自分という個人の有り様」にも影響してくるかもしれない。私にとって影響が深いのは、不特定多数が放り込まれる「誰かの世界」ではなく、ごく個人的な世界との関わり合いによるものが多い、ということでしょう。

それに、この立場で見れば、「個人を描く」という狭い範囲にも取れることが、実は「世界を描く」という広がりのある結果を生んでもいるのです。

映像と文章の立ち位置が見えてきた

──新しく手に入れた、小説と映画という新しいフィールドを、今後はどのように走っていきたいですか?

戸田真琴 今は、発表待ちのものを含めて3本の短編小説を書きました。まだ長編を書くほどの時間が取れていないのですが、ぜひ取り掛かっていきたいです。そして、小説を書き続けていく道の先で、「映画にしたい」と思えるものができたら、また形にしたいです。

──それは最初から脚本を書くのではいけないのですか?

戸田真琴 私の対人コミュニケーションがうまくないのは今もあまり変わっていないですし、脚本というものをあまり信じきれていない面もあるんです。特に、現代の日本映画における脚本は、ある程度の余白がある状態で役者へ渡され、言葉によるコミュニケーションを重ねて説明しなければいけないものが多いのですが、その方式が私は得意ではないだろうなぁ、と。そもそも人がいっぱい目の前にいるだけで話せないんですから(笑)。

だからこそ、先に言葉を誰にも制限されずに小説で書けるのだったら、それが良いだろうと思うんです。そういう意味でも長編小説をいつか書きたいですし、書こうとするはず。その道の先に映画がまた現れる日を待っていますし、引き寄せていきたい気持ちもあります。もちろん、いきなり映画をまた撮りましょう、となったとしたら、それはそれで漕ぎ出してしまうような気もするので、未来は誰にもわからないのですが。

私にとっては、映像で世界を捉えることで、文章のクオリティが担保されていくと感じますし、文章を書く力がより付くことで、いつか心の中を映像へ変換するのにも大いに役立つのでは、と考えています。今はまだ、映像と文章という表現手法の立ち位置が、自分の中で見えてきたところですね。

もっとも本来的な表現は、必ずしも文章や映画といった形になっていなくても、「今日のこの人の語りは、まさに表現だった」と感じる瞬間があるものですよね。「今日この時の出会い」や「旅行の出発から到着までの心理的な変化」も、すべて芸術の仲間だと思うんです。ただ、これらは定義するのが難しいから、芸術と呼ばれてはいないだけで。

──戸田さんにとっての表現は、生きることに付随して起きるものであり、何かをつくるだけでなく、自分自身が変わっていくようなことでも示せると。

戸田真琴 あぁ、嬉しい解釈です。そうですね、まさに人生も表現です。

AV引退を決めたのは、それが必要ではなくなったから

──映画の完成から現在に至るまでに、2023年の1月を目処に「AV女優からの卒業」を発表される転機もありました。この決断によって、映画の意味合いは完成時と比べて変わってくるのでしょうか?

戸田真琴 クラウドファンディングでご支援いただいた作品を、正式に劇場で公開できていない状態が続いていたのは、まるで借金を負っているような苦しさにも似ていました。一つの「けじめ」として上映会をしようと決めて実現できたのが、2021年10月に池袋のホールミクサで開催した『ミスiD presents「永遠」を探す日』です。

このイベントができたことで、ひとまずは精算できたような感覚が持てたんです。苦しいこともたくさんあったけれど、みなさんに観てもらうところまでを含めて、ようやく映画が完成できた。たくさんの嬉しい感想や、何かをつくり続けていこうと思えるような励ましもいただきました。

そのとき、自分はもうAVから手を引いてもいいのかもしれない、と感じました。それは「別の道で食べていけるようになったから」という意味では全くありません。AV女優として出演することが、自分にとって必要ではなくなってきたのが大きいです。

一つには、戸田真琴としての表現が、必ずしも「AV女優が手掛けるから調和する作品」というわけでもなかったこと。たとえば、性をテーマに扱うのであれば、相乗効果も出てきます。けれど客観的に見ても、私のつくるものにはその効果が表れないどころか、おそらくマイナスになってしまっているくらいです。

──戸田真琴から離れていった「本来的な自分」を取り戻すための映画が完成したことで、あらためて自分自身を生きていく決意が固まった、というか。

戸田真琴 AVはそもそも「自分にはこれくらいしかできることがない」といった意識で始めた仕事だったんです。「本来は他者へ見せるはずのないもの」を捧げることで、無価値な自分を許せていたようなところもありました。

2016年にデビューした当時の私は、自分は本当に何の才能も持っていないし、何一つできないと思っていました。でも、デビューしてからいろんなところで「意外とそうではないのかもしれない」と感じられることが増えていって。今、やっとそれを自覚して、こうして言葉にできるようにもなってきました。

私は、自分のことを、一人の人間として認めてあげてもいいんだな、と。

──その契機の一つが、映画の完成であったり、文筆活動だったりする。

戸田真琴 本当は……いろんな魅力が自分にはあったのかもしれません。AVに映ることでは見られないような魅力を、もっと大事にすべきだった……うまくお金にはならなかったかもしれないけれど、そこにはちゃんと私の魅力や才能があるのだと、認めてあげられたらよかった。

文章を書くのは、あまりに自分にとって当たり前のことで、それが素質だと思ってもみなかったんです。今、自らと向き合って、これからも書き続けていきたいと信じている中で、どうやら書く才能がないわけではないらしい、とわかってきました。

仮にそれを、世間が認めなくてもいいんです。自画自賛ではなく、奢りでもなく、自分の適性が正しく分かるという感じ。持っている能力を適正値で、卑下せず理解することは、自分を最大限に生かすために必要なことだと、最近は考えているところです。

価値を持っていないと思っていたはずの私が、こんなことを口に出せるところまで来られるなんて……何でも、やってみるものですね。 【写真】戸田真琴さん撮り下ろしカット(全20枚)

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