クラウドファンディングの支援者に限定公開された「活動報告」では、映画に臨む彼女の姿が綴られてきた(筆者も支援者のひとりだ)。ロケ地交渉が難航したこと、常に感じてきた撮影へのプレッシャー、映画制作を通じて結実する“人生の美しさ”への想い……コラムでも垣間見せる彼女の懊悩が、この作品にも存分に注がれていることを感じさせた。たとえば誰にも望まれていなかったとしても、何かをつくりたい、私の目に映る世界がどんなふうに光っているのかをスクリーンを照らす16:9の長方形ごしにあなたの瞳に写したい、という欲求が、確かにこの胸にあるのです。 「CAMPFIRE」より
『永遠が通り過ぎていく』は、「アリアとマリア」「Blue Through」「M」の短編連作から成る。
11月23日より開催中の「MOOSIC LAB 2019」での招待上映が決定。アップリンク吉祥寺にて、本日12月20日(金)18時台、12月21日(土)20時台での公開を予定している。今後の上映は現時点では詳細未定。
先行上映で語られたこととは?
去る11月30日、都内某所にて、クラウドファンディング支援者を招待した本作の先行上映会とアフタートークが開催された。直前まで調整を行い、本編集が済んでいない「ラッシュ試写」の段階ではあったが、支援者は一足先に、彼女の「目に映る世界の光」を体感した。また、撮影にも帯同した、少女写真家の飯田エリカさんによるドキュメンタリー映像も併せて上映。感極まって号泣する場面や、狙い通りの撮影に喜びをあらわにする姿、さらにはリテイクを重ねた女優へ厳しい言葉を投げかける様子もあり、初監督に向かう戸田真琴さんの奮闘が記録されていた。 今回はアフタートークを抜粋し、「活動報告」の内容も含め、構成してお届けする。上映前に読み、その言葉を道しるべに作品を探るのもいいだろう。あるいは、鑑賞後に振り返れば、彼女の描いた残像を強く刻むことにつながるはずだ。なお、映画の「内容」については触れていない。
撮影中は、“ひとりダイバーシティ”を実感
本作に続けて、ドキュメンタリーを上映した後、休憩をはさんでアフタートークが催された。上映中の水を打ったような余韻のまま、戸田真琴監督と飯田エリカさんは、静かに話し始めた。戸田真琴(以下、戸田) この作品の原案は2年前くらいからありました。大森靖子さんがつくってくれた『M』という曲をもとにした長編映画を制作する案で、企画が立ち上がってはつぶれたり、脚本を他の人に頼んでは意見が噛み合わなくて破裂したり、それでも自分ひとりでは(脚本を)書けなかったり……いろんな工程を経て、3つの短編をつくる形にたどり着きました。だから本当は、この3つの短編で、1つのお話だったんです。
飯田エリカ(以下、飯田) 戸田さんのいろんな要素を3つの短編に分けているので、(作品ごとに)要素の重なりを感じることがありますね。完成品では、なおさらわかるはず。
戸田 そうですね。短編一つひとつではわからなかったことが、通して見直したら、わかるかもしれません。だから、今日来てくれた皆さんは、劇場にも来てください!(笑)
飯田 初めて作品を人前で見せる場になりましたけれど、今はどんな気持ちですか?
戸田 逃げ出したいです。自分がバラバラになりそう……。でも、半年くらいかけて映画を作る中で、何度も「バラバラになりそう」と思いながら生きてきました。 飯田 3つの作品のことを、よく考え続けているなぁ、と思っていました。
戸田 映画だけでもそうなのに、並行して本も2冊書いていて、AV女優の撮影やイベントもあって。ドキュメンタリーを見ていても「この子は多重人格なのかな?」と、自分でもちょっと思ったくらい。でも、全部が私なんですよ。だけど、やんわりと、みんな多重人格なところってあるじゃないですか。
飯田 ひとりの人間にも多様性があることを、すごく体験したんですね。
戸田 ひとりダイバーシティです。時代が来ますよ、ひとりダイバーシティの考え方って。
「人生で最も見たかった映画」がモニターの中に現れていく
飯田 ドキュメンタリーで(すっぴんや泣き顔もカットに含めた)私は、そんな9日間を戦い抜いた戸田真琴の、ありのままの姿に美しさがあると思ったんです。 そばで見ていて、どんどん「戸田さんが監督になっていく」と感じました。撮影では演出を務めやすいように、MVとしての「M」から撮り始めましたね。その後に、ロードムービーの「Blue Through」、対話劇の「アリアとマリア」と進んで。戸田 9日間のうち、前半の3日間は「M」を、残りの日程は移動や弾丸帰郷日も挟みつつ「Blue Through」を撮りました。東京都内のスタジオから始まり、神奈川、群馬、岩手とめぐって。「アリアとマリア」は別日に、ありとあらゆる植物園を探し、最も長く撮影時間が取れたところで、一日で撮りきりました。
飯田 「M」では撮影中にも号泣するようなときもあって。 戸田 あれは嬉し泣きですね。登場人物が西日を浴びながら運転しているシーンを撮ったのですが、もとは私の見た夢の景色です。いつか映像にしたいと書き貯めていたものを撮ってもらったんですね。私の想像は現実なんかよりずっと美しいので、撮りたかった通りに撮れたことで、“Most Beautiful”が叶いました。夢にも思わなかったような感動でした。
私は頭でっかちな人間なので、何が正しいか、何が美しいのかといった、自分自身の哲学みたいなものを他人にそのまま理解してもらえることを最上の喜びとしてしまっているのですけど……。 でも、映画では私の「本当の気持ち」なんてわからなくても、どう撮りたいかを説明し続けて、いろんな人の技術とアイデアを積み重ねれば、人と人同士の理解を飛び越えて、「私が思っていたもの」が形になる。照明や助監督、カメラマンといった、いろんな人の力が加わり、いろんなちいさな嘘が重なって、映画は一つひとつのシーンができていきますから。
私が人生で最も見たかった映画がモニターの中に現れていくようで……私の人生を言葉や思想で理解してもらうよりもずっと、ただその画面の力のみで、はっきりと私の人生が美しかったと教えてくれるみたいで、すごく救われてしまったんですよ。こんなふうに人生が救われるとは思っていなかったから、撮影が終わった後も、道端で助けてもらったおばあちゃんみたいに、演者にずっと「ありがとう」って言ってましたよね(笑)。
飯田 ドキュメンタリーでも「人間性を理解されなくとも、(制作陣が)撮ってくれて形になることに救われている」と語ってくれていました。生まれ変わることがあるなら、照明部や撮影部になりたいとも。
戸田 なりたいです。役に立つから。私は何の役にも立たないタイプで、芸術というのは何の役にも立たないものなので覚悟はしているんですけど……技術があって、物理的に人の役に立てるのは、すごいことだよなぁって。
「愛せなくてごめん」…いちばん悲しいことを映画にした
アフタートークの終盤には、観客からの質疑応答も設けられた。その中で「戸田真琴さんが美しいと思える映像が続き、引き込まれるけれど、息継ぎをしたいと思う瞬間もあった。美しくないもの、意味のないものを入れる考えはなかったか」という、質問とも意見とも取れるような言葉が投げかけられた。戸田 おっしゃったことは、ごもっともだと思います。私が最初に映像を作ったのは現像代が高い8mmフィルムだったこともあって、それ以来、ひとコマでも自分の撮りたくないものを撮ってはいけない焦燥感に駆られるんですね。
私は、この世界に対して、「どうしてこんなに醜いんだろう」と疑問に感じたことはありません。でも、世界の全てが好きで、きれいだと思っているわけでもないし、この世というものが、たぶんめちゃくちゃにきらいなんですね。
こんなに嫌いなのに、なんでこんなにきれいなんだろうと思うのが、私にとってはいちばんに悲しいことで。その、いちばん悲しいことを、私は映画にしたんだと思います。それが私にとっての映画を撮る理由なんです。誰かが共感できるとか、そういうことではなくて。
今日、試写で見ていて、全部のエピソードで主人公がこれほど「ごめんなさい」と言っていたんだなと感じました。この世に対して、愛せなくてごめんなさい、と思ってる。そういう思いで撮られた映画です。
飯田 ドキュメンタリーの最後に「戸田真琴になる前の自分を拾えた気がする。それを置いてもいきたい」と言っていたのを思い出しましたね。
戸田 それに、きれいじゃない瞬間をわざと写した日本映画は死ぬほどあるので。この世にそれも必要だと思うけれど、私はあんまり好きじゃないだけです。
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私はこれからも映画を撮らなければいけない
この記事の最後に、戸田真琴監督が12月12日に上梓したエッセイ集『あなたの孤独は美しい』から、2つの文章を引用したい。 クラウドファンディングの『監督処女 戸田真琴実験映画集プロジェクト』という題名、本作『永遠が通り過ぎていく』のシーン、そして今回のアフタートークに至るまでをつないでくれると考えたからだ。この世界にはどうして私の望むものがないんだろう? 生きても生きてもどうして満足できないんだろう? 本当に人生ってこんなものなのかな? 心の底から感動するようなことってないのかな? そんな問いが頭の中をぐるぐると回る日々の中、それでもどこか最後まで何かを探していたいと思ってしまうのが、私という人間でした。
答えは簡単で、無いものならばつくればいいのです。人生というものは、誰のことも愛さず、何も成し遂げようとしないのならばあまりに長く、誰かや何かを愛したり、自分の人生をより良くしていこうと努めるのならば途端に短く感じるものなのだと、なんとなく気がついてしまいました。それが私の、少し変だと言われるままでもそのままの姿で生きようとする理由のひとつだったりするのです。 戸田真琴『あなたの孤独は美しい』p,196,197
そして、戸田真琴監督はドキュメンタリーで、こんなことを口にしていた。これを書いている今私は映画を撮っていて、その中できっと自分が一番観たかったシーンが撮れるといいな、と願いながら生きています。自分が観たい映画も自分で撮って生きていくのです。恵まれなかったことや見たくなかったものだって最後にはこの先へ歩いて行くための動力にして、誰のせいでも誰のためでもなく、 私の人生こそ、私が一番大事に、きっと良くしていこうと誓うのです。 戸田真琴『あなたの孤独は美しい』p,203
「言葉を書いているときに感じる、いつも言葉にならなかった、こぼしてしまったなという気持ち。伝わらなくて、言葉を重ねてしまう悲しみ。それが、映画にはなかった」「私はこれからも映画を撮らなければいけないという強迫観念を、今後も持つことになるんだなぁって」
彼女にとって、僕らにとって、この映画は実験であり実践だった。まだ書き留められていない、自分と世界の関係を知るために。まだ撮られていない、世界の美しさを記憶するために。あるいは、その光の前に立つ、それぞれの人生と孤独を肯定するために。
戸田真琴は、きっとまた映画を撮るだろう。その始まりの季節に、立ち会っている。
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2件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:3115)
見たい。すごく見たい。
匿名ハッコウくん(ID:3114)
凄く観たいと思いました 眼に見えてる世界じゃなくて 心の中を映像化されたとの事 他人の心なんて観れるものじゃない(別に観たくもない、がっかりしたく無いから) でも この映画は観てみたい…長い間思い続け考え抜いた結果の映画だから…是非関係者の方々のお力で、観れる機会を再度作って頂きたいです 宜しくお願い致します…!!