フィクションでも実写である以上は、最低限のリアリティが必要?
まず、原作における有害物質と、映画での放射性物質の決定的な違いは、放射性物質は体内に取り込まれずとも、近くにあるだけで体に害を及ぼすという点だ。物語では、致死的な影響を持つ大量の放射性物質が付着している鉄骨が転がっている場所で、さらには鉄骨をつかんだ新一には致命的な被曝症状は起こらず、鉄骨を突き刺された後藤のみに症状が発生している。しかし、このような状況下では、その場にいる人物全員に被曝症状が発生すると、Philip K. Anzugさんは指摘している。
福島第一原発事故以降、放射性物質への関心は非常に大きく、また被災地の復興においても大きな課題となっている。このような描かれ方は、フィクションの世界であれ、事実誤認を招いてしまう可能性があるだろう。
作品の持つ意味は製作者の意図を超えて、観客に様々な解釈をされる
また、本作に登場する放射性瓦礫の存在は、現実社会で発生している被災地の瓦礫を誰もが連想してしまうだろう。被災地の瓦礫を受け入れた大阪府の公式Webサイトでは、瓦礫の処理に関して、「受入廃棄物は、岩手県から搬出する前に放射性セシウム濃度を測定しており、その結果は大阪府の指針で示している受入廃棄物の基準(1キログラムあたり100ベクレル以下)を大きく下回っています」と記述されている。
しかし、本作におけるゴミ処理場の看板や鉄骨の描かれ方では、「被災地の瓦礫=高濃度の放射性物質が付着している」というような誤認を生んでしまうのではないかと、Philip K. Anzugさんは述べている。
以上の提言を踏まえて、Philip K. Anzugさんは、放射性物質への科学考証を重視する人や、原発事故の影響を受けている人たちなどにとっても楽しめるように、別バージョンの本編を制作するのかどうか、という提案を行っている。実際には含まれていない「大量の放射性物質」の存在を受け入れ反対の活動家に喧伝され、復興を妨害されたことは、被災から復興に向けた一連の流れを見てきた者(私は震災・津波の被災者ではありませんが、放射線医学の専門家として微力ながらこの問題に関わり、見守ってきました)にとっては大変苦々しい思い出です。恐らく被災地の方々、特に「放射性がれきである」という誤解を解くために尽力された方々にとっては、その思いの強さは私の比ではないでしょう。
そんな状況において、いくらフィクションだからといって「受け入れたがれきに本当に大量の放射性物質が付いていた」という展開を見せられるのは本当に堪え難いことで、楽しく映画を観ていたのに理不尽に殴られたような印象です。正直な話、「もしかしたら、制作陣に紛れ込んだ活動家が『放射性がれき』を既成事実化するために『寄生獣』を利用したのでは?」とすら思ったくらいです(後述の監督インタビューで、どうやらそうではないようだ、という考えになりましたが)。 Philip K. Anzugさんの「『寄生獣 完結編』終盤の問題について」より
映画は、エンターテイメントとして感動を呼び起こすほかにも、社会問題を観客に再考させる機会を持たせるチャンスにもなる。
自由な表現を謳歌して観客に感動を与えるとともに、ある程度の現実社会へ向けた知性と配慮は、大衆に向けたエンターテイメントである商業映画にこそ、必要とされるだろう。
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