1977年。オタクという言葉が生まれる前、その10年後にはテレビのバラエティ番組の放送作家として活動し、現在では京都精華大学非常勤講師をつとめるようになった自分は、どんな思いでアニメや特撮を愛したのか? これはその回想録だ。
50を過ぎて、素敵な仕事、趣味に取り組んでいる方はいっぱいいらっしゃるので、その方々に目配せして言っておけば、あくまで自分の場合は40過ぎても「無邪気さ」「初々しさ」を偽装しながら自分の立ち位置をつくってきたがゆえの「臨界点」なんです。威厳を持たない、落ち着かない、ということを積極的に指向してきたゆえに陥る「あ、ここからはスイッチ入れ替えなきゃダメだ」という限界。
とはいえ、人間そうそう変われるものではないんですよね。ブランデーをくゆらせながらクラシック音楽を楽しむとか、盆栽を眺めながら渋いお茶でもすする、といった趣味にはたどり着けそうもないです。相変わらず、おもちゃと、アニメと、プラモデルに夢中。まあ、言うなれば「オタク」というやつでしょうか。そんな50歳なんて、あの頃には想像できませんでした。 「オタク」という言葉が、まだ生まれる前のあの頃。あの頃から、好きなものは変わっていないんです。「オタク」というものがなかったなら、あの頃の自分は何だったのか? そして、今の自分は何なのか?
そういう気持ちと、年寄りの回顧趣味として、きちんと道筋を記録しておこうと思いました。たぶん、忘れてしまうから。それから、物心ついた時から「オタク」が側にあった世代に対して、なぜこんな年寄りが育ってしまったのか? というひとつの回答として。その道筋は、人の数だけあるでしょう。
これは、1977年から80年までの3年間、地方都市の中学生だった自分が歩んだ個人的な思い出話で、もはや風化しつつある「オタク誕生」の記録です。
おかげで、当時でもすでに「旧い漫画」の仲間入りをしつつあった手塚治虫先生や、石森章太郎先生の作品を、サンコミックスや、サンデーコミックスでほじくりかえしては購入(もちろん当時は立ち読みもがんがんしました)してむさぼるように読んでいたのです。友人を引き込んで「二人で漫画を描く」という行為も、もちろん、『まんが道』の影響モロでしたね。
プラモデルの趣味は継続していましたが、キャラクターモデルは卒業して、もっぱらスケールモデルに趣旨変えしていた頃です。運動部にも入って放課後は練習漬け。友達との会話はアイドルとか、ニューミュージックのことがメインになります。そうなると、漫画に割く時間も徐々に減ってきてしまい、それまで大学ノートに書いていた自作の漫画もやめてしまいました。 そんな中、友達との話題とは別に興味を持ったのは、本屋さんで出会ったカルチャー誌でした。サブカルネタで、田舎者のオレを翻弄していた『ビックリハウス』が筆頭です。サブカル系知識人によるコラムや記事に加えて、目玉だったのは糸井重里が主宰する読者投稿コーナーでした。その面白さは、中学生から見れば、大人っぽく、洒落ていて、ずいぶん知的に思えました。
同じく読者投稿に独特の匂い(現在でいえばオタク的な)があったのが『月刊OUT』です。のちにアニメ雑誌になりますが、オレが出会った当時は、漫画も、音楽も、テレビ番組も、映画も、一緒くたになってたサブカル雑誌でした。
糸井重里と『月刊OUT』が並べて語られるというのは、不思議な感じがするかもしれませんが、当時は、本屋さんの同じコーナーに並べられていたんです。本当ですよ!!
そして、そこで知ったのが「『宇宙戦艦ヤマト』という、ちょっと前に再放送(1976年夕方から再放送されていた)していた『テレビまんが』が、放送を終わった今も多くの若者の間で再評価されていて、どうやら映画として劇場公開されるらしい」という話でした。これ、周囲の友人から聞くことのない、最新情報だと思いました。
50になった
もう50になるんです。40を越えたあたりで「いい歳になっちゃったなあ」とか思っていたけど、50という数値はそんなレベル超えてますね。諦めの境地とでもいえばいいのか、臨界点突破と言っていいのか…。50を過ぎて、素敵な仕事、趣味に取り組んでいる方はいっぱいいらっしゃるので、その方々に目配せして言っておけば、あくまで自分の場合は40過ぎても「無邪気さ」「初々しさ」を偽装しながら自分の立ち位置をつくってきたがゆえの「臨界点」なんです。威厳を持たない、落ち着かない、ということを積極的に指向してきたゆえに陥る「あ、ここからはスイッチ入れ替えなきゃダメだ」という限界。
とはいえ、人間そうそう変われるものではないんですよね。ブランデーをくゆらせながらクラシック音楽を楽しむとか、盆栽を眺めながら渋いお茶でもすする、といった趣味にはたどり着けそうもないです。相変わらず、おもちゃと、アニメと、プラモデルに夢中。まあ、言うなれば「オタク」というやつでしょうか。そんな50歳なんて、あの頃には想像できませんでした。 「オタク」という言葉が、まだ生まれる前のあの頃。あの頃から、好きなものは変わっていないんです。「オタク」というものがなかったなら、あの頃の自分は何だったのか? そして、今の自分は何なのか?
そういう気持ちと、年寄りの回顧趣味として、きちんと道筋を記録しておこうと思いました。たぶん、忘れてしまうから。それから、物心ついた時から「オタク」が側にあった世代に対して、なぜこんな年寄りが育ってしまったのか? というひとつの回答として。その道筋は、人の数だけあるでしょう。
これは、1977年から80年までの3年間、地方都市の中学生だった自分が歩んだ個人的な思い出話で、もはや風化しつつある「オタク誕生」の記録です。
1977 「オタク」という名前がつくずっと前、「サブカルチャー」全盛の年
小学生の頃から、全国各地に山ほどいる子供のように、漠然と「漫画家になりたい」とは思っていたんです。愛読書は といえば、もちろん藤子不二雄先生の『まんが道』(当時はハードカバーで全1巻のみ発売)。おかげで、当時でもすでに「旧い漫画」の仲間入りをしつつあった手塚治虫先生や、石森章太郎先生の作品を、サンコミックスや、サンデーコミックスでほじくりかえしては購入(もちろん当時は立ち読みもがんがんしました)してむさぼるように読んでいたのです。友人を引き込んで「二人で漫画を描く」という行為も、もちろん、『まんが道』の影響モロでしたね。
3月6日「惑星ロボ ダンガードA」放送開始。宇宙戦艦ヤマトブーム直前、東映動画は松本零士をイメージクリエイターとして起用。今更ながらに先見の明に驚く
とはいえ、中学になれば、それなりにトーンダウンしてくるわけですよ。今でも覚えているのは、友人との会話です。「もう、テレビのまんが(当時、アニメという言葉はなかった)も観なくなったなー」「バラタックは面白いよね」「ああ、あれは面白い。あれくらいだな、今観てるまんがは」…。プラモデルの趣味は継続していましたが、キャラクターモデルは卒業して、もっぱらスケールモデルに趣旨変えしていた頃です。運動部にも入って放課後は練習漬け。友達との会話はアイドルとか、ニューミュージックのことがメインになります。そうなると、漫画に割く時間も徐々に減ってきてしまい、それまで大学ノートに書いていた自作の漫画もやめてしまいました。 そんな中、友達との話題とは別に興味を持ったのは、本屋さんで出会ったカルチャー誌でした。サブカルネタで、田舎者のオレを翻弄していた『ビックリハウス』が筆頭です。サブカル系知識人によるコラムや記事に加えて、目玉だったのは糸井重里が主宰する読者投稿コーナーでした。その面白さは、中学生から見れば、大人っぽく、洒落ていて、ずいぶん知的に思えました。
同じく読者投稿に独特の匂い(現在でいえばオタク的な)があったのが『月刊OUT』です。のちにアニメ雑誌になりますが、オレが出会った当時は、漫画も、音楽も、テレビ番組も、映画も、一緒くたになってたサブカル雑誌でした。
糸井重里と『月刊OUT』が並べて語られるというのは、不思議な感じがするかもしれませんが、当時は、本屋さんの同じコーナーに並べられていたんです。本当ですよ!!
そして、そこで知ったのが「『宇宙戦艦ヤマト』という、ちょっと前に再放送(1976年夕方から再放送されていた)していた『テレビまんが』が、放送を終わった今も多くの若者の間で再評価されていて、どうやら映画として劇場公開されるらしい」という話でした。これ、周囲の友人から聞くことのない、最新情報だと思いました。
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Takayoshi Saito
構成作家/インタビュアー。テレビ、ラジオ、イベントの企画、構成。BMSKコンサルティングの研究員としてブランディングコンサルタントと、その一貫でアートディレクションも生業にしています。その他ゲームの企画、シナリオ、キャラクター研究家。京都精華大学、非常勤講師。オタクの学校@模型塾、講師。アクトオンTV「つくろうプラモNAVI」ナビゲーター。
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