「お客様がタイトルを声に出して言わなくても書店さんに注文できる申込書」がわざわざ公式サイト上に用意された(外部リンク)ほど、衝撃的なタイトルが印象的な本書である。
『夫のちんぽが入らない』は、2014年5月に開催された文学フリマで発売された『なし水』に収録された同タイトルの短編を大幅に加筆した「衝撃の実話」(公式サイトより)である。
漫画家のおかざき真里は、Twitterで、16歳未満と思われるフォロワーをブロックしてまで本書を推薦している。
初版3万部、発売後1日で重版がかかるほどの反響が起きているのは、『夫のちんぽが入らない』というタイトルのおかげだけではない。私はこの本をのびのびと推したいために、フォロワーさんを洗って16歳未満と思しき方たちを片っ端からブロックしたのでした。そんなもん何の足しにもならないのですがきいてください『夫のちんぽが入らない』。 pic.twitter.com/dH6xPbpNQN
— おかざき真里『阿・吽』5巻1/12発売 (@cafemari) 2017年1月17日
文:井口可奈 編集:新見直
「私」たちが出くわした行き止まり
著者のこだまさんの一人称である「私」は、北海道の「最果ての集落」から、大学進学で東北地方の地方都市に住むことになった。新居の古びたアパートで出会った男性(後に夫となる)と交際をはじめ、教員として勤務をはじめ、男性と結婚する。本書は、夫と出会ってから現在までの、20年の物語だ。
交際をはじめて、彼と性行為をすることになる。ところが、男性器が全く中に入っていかない。
風俗嬢につけられたあだ名が「キング」だというくらい、彼の男性器が大きいことは事実である。しかし、彼は他の女性とは普通に性行為をしてきたという。(性行為が)はじめてなら仕方がないと彼は言うが、じつは経験があることを「私」は言えなかった。最初何をふざけているのだろうと不思議に思った。
でん、ででん、でん。
まるで陰部を拳で叩かれているような振動が続いた。なぜだか激しく叩かれている。
(中略)
やがて彼は動きを止めて言った。
「おかしいな、まったく入っていかない」
「まったく? どういうことですか」
「行き止まりになってる」
耳を疑った。行き止まり。そんな馬鹿なことがあるだろうか。
しかし実際に私たちはさっきから、ただ、ぶつかり合っているだけだ。拳と壁。道場破りと閉ざされた門扉。融合する気配は微塵も感じられない。 こだま『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)P30より引用
「夫のちんぽが入らない」ことが、「夫のちんぽが入らない」ことを誰にも相談できないことが、これまでの人生になかったくらいに夫へ心を許しかけた「私」の気持ちを閉じてゆく。私と彼は、セックスをすることができなかった。
ちんぽが入らなかった。こだま『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)P29より引用
「私」は、教員として勤務しはじめ、荒れたクラスを担当することになり、心と体を病んでいく。夫のことなどを赤裸々に書いたホームページをはじめ、コンタクトを取ってきた人につぎつぎと体を許していく。なにごとも夫に相談することができない。母親は子どものことを言ってくる。人に気を遣わせてしまう。夫のちんぽは入らない。そのため子どもできない。誰にも相談できないことばかりが積み重なって、「私」を苦しめていく。
『夫のちんぽが入らない』は、性行為の話ではない
本書はこだまさんの物語であるが、同時に、読者の物語でもあるように思えた。作品を読みながら自分と作品内の登場人物を重ね合わせることは、よくあることだ。
私(井口)は個人的に、『夫のちんぽが入らない』を読んで、自分と重ね合わせるを通り越し、自分がこだまさんと同化しているような気持ちになっていった。他人事のように読んでいられなかった。ショッキングな内容が流れるように描かれていく、その中に、自分を発見したような気がした。
私が、こだまさんの綴る「私」と共通点がいくつかあることも共感した理由として挙げられると思う。
北海道のど田舎の集落で育ちそこを最果てだと思っていたこと、そこから抜け出したくて大学進学を地元から離れた場所にしたこと、無職であること。
書き出してみると、具体的なエピソードがはっきり重なるわけではない。
それなのに、自分自身が作品の中に入っていくような感じを覚えたのは、本書が、夫のちんぽが入る入らないにとどまらず、もっと漠然とした、悩み、をうまく書き出しているからだろう。
新居に移り住んだ話、教員として働いている話などは、もちろん水準以上にうまいのだが、性交渉の描写になるととたんに文章の完成度が上がる。直接的な単語を書いたり、あえて避けたりを巧みに使い分ける。
またユーモアのある描写(結婚前、ちんぽが入らないことに悩んだ「私」はジョンソンベビーオイルを彼のちんぽに塗る。「ジョンソンベビーオイルを使用して生まれた赤ん坊は脂性になるのだろうか。ジョンソンベビーオイルで生まれた赤ん坊はジョンソンベビーオイルいらずなのだろうか。」など)が頻発する。その後、心と体を病んでいく様子の描写にも卓越した文章力が光る。
悩んでいる場面で、著者・こだまさんの筆力が異常に高まっているのだ。
その筆力の中に読者は飲み込まれて、自分の「悩み」と響きあう部分を見つける。悩みがうねっていくのを見つめてゆき、最後の「私」の独白と向き合うことになる。
自分を表現することのできない「私」といびつさ
「私」は、誰にも相談することができずに心と体を病んでいく。そして、結婚後も風俗通いを続けていた、仕事に関しても愚痴ることはあるがうまくいっているように見えた夫も心を病みはじめる。夫は、日々の出来事や些細な心身の異変を隠すことなく打ち明ける。「私」にはできなかったことである。
「私」の父親の台詞である。しかし、これは「私」自身の、こだまさん自身の言葉のように思える。「うちの娘は気が利かないし、はっきりものをいわない。思っていることを全然言わんのです。まったく情けない限りですよ」こだま『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)P160より引用
著者であるこだまさんは、ブログで本書を「私小説」という呼び方をしている。本書の公式サイトでも、本書の帯でも「衝撃の実話」という単語が使われているにも関わらず、である。
「私小説」とは、自身の体験に基づいた小説ジャンルを指す言葉だが、その定義は難しい。事実をありのままに書くのも私小説である(それこそが私小説だ、という人もいる)。
だが、私には、著者だけが「実話」ではなくあえて「私小説」と呼ぶのは、どこか自分の書いたものを「実話」と断言して主張できない、自分を主張しきれないところがあるからではないかと考える。
本書は「夫のちんぽが入らない」という行き止まりに出くわして、悩みが悩みを呼んで、どんどん深みにはまりながらも、自分なりの生き方を見つけ出そうとしていく「私」と夫の20年かけた物語である。
「私」は、本書の中で一度も自己主張らしい主張をしていない。頭の中でいろいろ考えてはいるが、それを発露させない。
しいて言えば、「私」の母親が子どものできないことを夫の両親に謝罪しに行く場面で、寿司を大量に食べるところが自己主張と言えるだろうか。もうひとつ、夫の生徒のために鮭のおにぎりをにぎるところも挙げられるかもしれない。
ただ、口に出していやだと言う場面は出てこないと言っていい。
何事も受け入れるがままである。たくさんの悩みも溜め込む一方だ。
ホームページに文章を書くこと、そして本書を出すことだけが、著者の自己を表現する方法である。しかしそのホームページも、同人誌も、本書の刊行も、夫や両親には伝えていないという。
場面によって筆力にばらつきがあるのは、著者が自己表現を現実の場面でほとんどしてこなかったからなのかもしれない。悩みに関することは、何度も繰り返し考えていることだから、とてもうまい表現ができる。
一方、人に読まれることを意識した、状況の説明をするパートになると、著者の筆は固くなる。しかし下手ということではない。筆力のうまさの波がそのまま筆者の気持ちを表しているところに、本書の面白さがある。
一定でない、いびつであることこそが、多くの人を惹きつけているのではないか。
手触りは柔らかいのだが、沼のように奥が深い。捉えかたでどんなに深くも読んでいけるのが『夫のちんぽが入らない』だと思う。私たちは本当は血の繋がった兄妹で、間違いを起こさないように神様が細工したとしか思えないのです。こだま『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)P194より引用
ちんぽが入らない人も、入る人も、また、ちんぽが付いている人にも読んでほしい一冊。
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井口可奈
小説を書く無職
1988年生まれ。世界と遊ぶ文芸誌『界遊』の元編集メンバー。大学在学中、フリー芸人として活動。プロの芸人を志すが親に泣かれたため公的な仕事に就き、現在無職。第三回京都大学新聞文学賞大賞。
https://twitter.com/yokaikinoko/
2件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:1499)
入らない女なんていらんだろ?
楽に入れられる奴にいれるよ
匿名ハッコウくん(ID:1248)
大変なこともありますね