2017年11月1日より、突如としてスタートしたラップ/ヒップホップ関係者専門のインタビューメディア「ニートtokyo」。
YouTubeにて数分間のノーカットインタビューを配信し、特徴的なグリーン一色のバックやツボを抑えたインタビュイーの選定、インタビューの一部をそのまま切り抜いたラッパーたちの肉声の生々しさや「毎日9時アップ」という投稿スパンの短さなど、既存メディアと全く異なる手法は強烈なインパクトがある。T-Pablow : 高校生ラップ選手権
当初は誰が主催しているのか不明だったこのニートtokyoだが、11月20日に開催されたDOMMUNEのイベント「Boiler Room Tokyo 2017 In Your Parallel」で、主宰の一人がラッパー・SEEDAであることが正式に明らかとなった。
今回、SEEDAを含め、ライター/編集者の山田文大、ディレクターの伊江成晃、動画の編集を担当するHSMT CLUB(橋本)の主宰4人にインタビュー。独自のメディアを展開する彼らが何を考え、どう行動しているのかを聞いてみた。
文:しげる 衣装協力:BlackEyePatch 写真:ニートtokyo 取材・編集:ふじきりょうすけ
そもそもヒップホップは、その黎明期からメディアと切っても切れない関係にある。それも音楽系マスコミとは別の、当事者たちによって構築されたメディアがシーンに大きな影響を及ぼしてきた。
古い話では、マンハッタンのミッドタウンにある電気店でオーダーメイドのスピーカーをつくっていたジョン・リバスの例がある。23歳の彼は、夜はラッキー・ザ・マジシャンという名義でDJとして活動。
アッパー・ウエストサイドのWHBIラジオ局が1時間75ドルで放送枠を売っていることを知ったリバスは、勤めている電気店や近所のレストランの宣伝をすることを条件に資金を用意し、日曜日の深夜2時から4時まで「Disco showcase」という番組名でヒップホップをかけまくる。
やがて名義を「ミスター・マジック」と短く改めた彼は、のちに世界初の商業的ヒップホップ・ミックス番組「Rap Attack」を放送。業界に大きな影響を与えた。Beastie Boys - Sabotage
また、雑誌メディアとして有名なのがビースティ・ボーイズが自身の運営するレーベルと同じ名前をつけた『GRAND ROYAL MAGAZINE』だろう。1992年にデフ・ジャムを離れ、自身のレーベル「GRAND ROYAL」を立ち上げたビースティ・ボーイズは1993年にレコードのリリース事業を開始。
そのほかに手をつけたのが雑誌の発行だったのだ。この雑誌は1970年代のカルチャーを中心に完全に趣味に走った編集方針で知られ、創刊号のブルース・リー特集や“世界最悪の髪型”マレット特集など、その内容はいまだに語り草となっている。
『GRAND ROYAL MAGAZINE』は、ヒップホップのみならず、90年代のサブカルチャー全体の方向性を定めたと言えるだろう。
このように、ヒップホップの現場にいる当事者が立ち上げたメディアは、様々な形でシーン全体に影響を及ぼすことがあった。
彼らは自らが面白いと思っていることをいかに発信し、そしてどう面白がるかに血道をあげてきた。まず面白さと愛着を最優先して展開されて来たのが、これらの媒体だったのである。ニートtokyo 2017.11.01 START
その最新型が、ニートtokyoだ。
YouTubeというプラットフォームを使うことにより、動画という形で生々しい語り口をそのまま見せる。そして、その語りの内容は音楽に直接は関係なさそうな生活感あるものばかり。
基本的にアーティストたちがメディアに露出するのは音源がリリースされた時であることが多いだけに、楽曲を中心に据えていない──にも関わらず音楽やラップに関する話に接続されてしまう「素の喋り」は印象的である。
ニートtokyoを主宰するのは、バイリンガルラッパーとしてキャリアを積み上げてきたSEEDA。彼はMIX CDシリーズ「CONCRETE GREEN」でニュースクールのラッパーをいち早くフックアップしたり、2015年当時日本ではまだまだ認知度の低かったクラウドファンディング形式でのアルバム制作に取り組むなど、フットワーク軽くフレッシュな動きを続けてきた人物だ。
さらにアンダーグラウンド寄りの取材を得意としてきた山田文大。TVや雑誌の現役ディレタクー伊江成晃と、ラッパー、シンガーのリリックビデオやミュージックビデオを制作しているHSMT CLUB(橋本)。そして現在では動画に英語字幕をつける翻訳のSeanSが加わった合計5人がチームとなっている。
そもそも彼らはどのようなきっかけで集まり、どのようにしてニートtokyoは始まったのだろうか。
SEEDA 文大さんが新しくインタビュー形式のメディアをやりたいって言ってきて、「こういうの日本の人やってないんじゃない?」って僕が提案した。文大さんが話を進めてメンバー集めて。僕としては「あ、やるんだ」って。
──どうやってスタッフを集めたんですか?
山田 自然と……(笑)。
伊江 元々大阪に『HARDEST MAGAZINE』という濃いストリート雑誌があって、その編集長に(山田を)紹介されて知り合って、「メディア立ち上げたいんだけど相談できませんか?」って言われて。
HSMT CLUB SEEDAさんは僕と住んでる場所が近くて、「毎日アップできて、かつヒップホップが好きな人っていないかなあ」ということで声をかけられたんです。SEEDAさんと僕とは以前別の仕事を一緒にやってたんですけど……。
SEEDA それが世に出なかったんだよね(笑)。
山田 そういうきっかけで少しづつ集まっていった感じですね。
──それが(2017年の)夏頃なんですよね。ということは結構とんとん拍子に話が進んだんですね。
山田 夏というか、9月とかですね。SEEDAさんと話してたのが8月くらいかな。現場を仕切ってくれる人になんとなく目星はついているということを相談しつつ、だんだん具体的になってったんですね。
──ニートtokyoの名前ってどういう経緯で決まったんですか?
SEEDA タイトル何にしようかっていくつか僕が出した中で、「あ、ニートtokyoっていいじゃん」って。
山田 何回か案があって、その都度なるほどって思ったんですけど、「ニートtokyo」は自分もニートだしいいなみたいな(笑)。 ──ちなみに他の候補ってどんなものがあったんですか?
SEEDA Swervin TVとか。Swervinって、ぶっとびながら運転してるみたいな。あとはTokyoナントカとか。英語とカタカナみたいなのをやりたくて。
山田 On Sightってのもありましたね。
伊江 だけど「ニートtokyo、もうこれしかないっしょ」みたいな。
──自分たちでメディアを持つということについて、意識したことなどはありましたか?
SEEDA 僕はメディアを持つことに対しての意識は特になくて、正直よくわかんないです。
山田 「新しいメディアを始めてやるんだ!」というよりは、ライターと編集をずっとやってて、語弊はあるかもしんないけど、ほとほと飽きていたみたいな。
伊江 新しいインタビューの形をやりたいってのは僕自身にもあって、文大さんと意見が一致した。
山田 テープ起して原稿チェックして……質問だって結局どこも同じじゃないですか。自分がやっている作業に飽きていたっていうより世の中の人がみんな飽きてるのがわかっているのに、それをやってるのにうんざりしていたというか。
アーティスト自身が発信できる世の中で、興味がある人はみんなそっちを見るのがわかってて、決められた枠でお決まりのリリースインタビューをやっても、誰が読むのかなっていう思いがあった。
ほかに日本で面白いと思えるメディアがいっぱいあったらそういうところでやればいいんだけど、別にないなっていう。ググればわかることを書くのがライターの仕事とも思えなかったし。
ただ……メディア云々っていうことじゃなくても、SEEDAさんは自分がイメージする面白いことをいっぱい知ってる気がしますね。世界のことを知っている。 ──インタビュー企画の相談をするためにSEEDAさんを訪ねたのは、山田さんが新しいものを求めて……ということでしょうか?
山田 SEEDAさんに会いに言ってたのには、「この人を口説き落として新しいことをやろう!」みたいな意図はないです。昔インタビューさせてもらってたし、なんだかんだとお世話になってきたっていうのはありますけど。
ずっと面白いと思ってた人ではあるので。もちろん音楽もそうですし。どういうことを考えてたりするんだろうってのが気になってた。そんな感じです。
YouTubeにて数分間のノーカットインタビューを配信し、特徴的なグリーン一色のバックやツボを抑えたインタビュイーの選定、インタビューの一部をそのまま切り抜いたラッパーたちの肉声の生々しさや「毎日9時アップ」という投稿スパンの短さなど、既存メディアと全く異なる手法は強烈なインパクトがある。
今回、SEEDAを含め、ライター/編集者の山田文大、ディレクターの伊江成晃、動画の編集を担当するHSMT CLUB(橋本)の主宰4人にインタビュー。独自のメディアを展開する彼らが何を考え、どう行動しているのかを聞いてみた。
文:しげる 衣装協力:BlackEyePatch 写真:ニートtokyo 取材・編集:ふじきりょうすけ
ヒップホップとメディアの蜜月な関係
ストリートがここまで普及したことを考える本特集にあたって、メディアとの関係性を考えることは重要だ。そもそもヒップホップは、その黎明期からメディアと切っても切れない関係にある。それも音楽系マスコミとは別の、当事者たちによって構築されたメディアがシーンに大きな影響を及ぼしてきた。
古い話では、マンハッタンのミッドタウンにある電気店でオーダーメイドのスピーカーをつくっていたジョン・リバスの例がある。23歳の彼は、夜はラッキー・ザ・マジシャンという名義でDJとして活動。
アッパー・ウエストサイドのWHBIラジオ局が1時間75ドルで放送枠を売っていることを知ったリバスは、勤めている電気店や近所のレストランの宣伝をすることを条件に資金を用意し、日曜日の深夜2時から4時まで「Disco showcase」という番組名でヒップホップをかけまくる。
やがて名義を「ミスター・マジック」と短く改めた彼は、のちに世界初の商業的ヒップホップ・ミックス番組「Rap Attack」を放送。業界に大きな影響を与えた。
そのほかに手をつけたのが雑誌の発行だったのだ。この雑誌は1970年代のカルチャーを中心に完全に趣味に走った編集方針で知られ、創刊号のブルース・リー特集や“世界最悪の髪型”マレット特集など、その内容はいまだに語り草となっている。
『GRAND ROYAL MAGAZINE』は、ヒップホップのみならず、90年代のサブカルチャー全体の方向性を定めたと言えるだろう。
このように、ヒップホップの現場にいる当事者が立ち上げたメディアは、様々な形でシーン全体に影響を及ぼすことがあった。
彼らは自らが面白いと思っていることをいかに発信し、そしてどう面白がるかに血道をあげてきた。まず面白さと愛着を最優先して展開されて来たのが、これらの媒体だったのである。
YouTubeというプラットフォームを使うことにより、動画という形で生々しい語り口をそのまま見せる。そして、その語りの内容は音楽に直接は関係なさそうな生活感あるものばかり。
基本的にアーティストたちがメディアに露出するのは音源がリリースされた時であることが多いだけに、楽曲を中心に据えていない──にも関わらず音楽やラップに関する話に接続されてしまう「素の喋り」は印象的である。
ニートtokyoを主宰するのは、バイリンガルラッパーとしてキャリアを積み上げてきたSEEDA。彼はMIX CDシリーズ「CONCRETE GREEN」でニュースクールのラッパーをいち早くフックアップしたり、2015年当時日本ではまだまだ認知度の低かったクラウドファンディング形式でのアルバム制作に取り組むなど、フットワーク軽くフレッシュな動きを続けてきた人物だ。
さらにアンダーグラウンド寄りの取材を得意としてきた山田文大。TVや雑誌の現役ディレタクー伊江成晃と、ラッパー、シンガーのリリックビデオやミュージックビデオを制作しているHSMT CLUB(橋本)。そして現在では動画に英語字幕をつける翻訳のSeanSが加わった合計5人がチームとなっている。
そもそも彼らはどのようなきっかけで集まり、どのようにしてニートtokyoは始まったのだろうか。
自分もニートだし「ニートtokyo」っていいな
──ニートtokyoという形で、最初にインタビューをやろうとしたきっかけから聞かせてください。SEEDA 文大さんが新しくインタビュー形式のメディアをやりたいって言ってきて、「こういうの日本の人やってないんじゃない?」って僕が提案した。文大さんが話を進めてメンバー集めて。僕としては「あ、やるんだ」って。
──どうやってスタッフを集めたんですか?
山田 自然と……(笑)。
伊江 元々大阪に『HARDEST MAGAZINE』という濃いストリート雑誌があって、その編集長に(山田を)紹介されて知り合って、「メディア立ち上げたいんだけど相談できませんか?」って言われて。
HSMT CLUB SEEDAさんは僕と住んでる場所が近くて、「毎日アップできて、かつヒップホップが好きな人っていないかなあ」ということで声をかけられたんです。SEEDAさんと僕とは以前別の仕事を一緒にやってたんですけど……。
SEEDA それが世に出なかったんだよね(笑)。
山田 そういうきっかけで少しづつ集まっていった感じですね。
──それが(2017年の)夏頃なんですよね。ということは結構とんとん拍子に話が進んだんですね。
山田 夏というか、9月とかですね。SEEDAさんと話してたのが8月くらいかな。現場を仕切ってくれる人になんとなく目星はついているということを相談しつつ、だんだん具体的になってったんですね。
──ニートtokyoの名前ってどういう経緯で決まったんですか?
SEEDA タイトル何にしようかっていくつか僕が出した中で、「あ、ニートtokyoっていいじゃん」って。
山田 何回か案があって、その都度なるほどって思ったんですけど、「ニートtokyo」は自分もニートだしいいなみたいな(笑)。 ──ちなみに他の候補ってどんなものがあったんですか?
SEEDA Swervin TVとか。Swervinって、ぶっとびながら運転してるみたいな。あとはTokyoナントカとか。英語とカタカナみたいなのをやりたくて。
山田 On Sightってのもありましたね。
伊江 だけど「ニートtokyo、もうこれしかないっしょ」みたいな。
──自分たちでメディアを持つということについて、意識したことなどはありましたか?
SEEDA 僕はメディアを持つことに対しての意識は特になくて、正直よくわかんないです。
山田 「新しいメディアを始めてやるんだ!」というよりは、ライターと編集をずっとやってて、語弊はあるかもしんないけど、ほとほと飽きていたみたいな。
伊江 新しいインタビューの形をやりたいってのは僕自身にもあって、文大さんと意見が一致した。
山田 テープ起して原稿チェックして……質問だって結局どこも同じじゃないですか。自分がやっている作業に飽きていたっていうより世の中の人がみんな飽きてるのがわかっているのに、それをやってるのにうんざりしていたというか。
アーティスト自身が発信できる世の中で、興味がある人はみんなそっちを見るのがわかってて、決められた枠でお決まりのリリースインタビューをやっても、誰が読むのかなっていう思いがあった。
ほかに日本で面白いと思えるメディアがいっぱいあったらそういうところでやればいいんだけど、別にないなっていう。ググればわかることを書くのがライターの仕事とも思えなかったし。
ただ……メディア云々っていうことじゃなくても、SEEDAさんは自分がイメージする面白いことをいっぱい知ってる気がしますね。世界のことを知っている。 ──インタビュー企画の相談をするためにSEEDAさんを訪ねたのは、山田さんが新しいものを求めて……ということでしょうか?
山田 SEEDAさんに会いに言ってたのには、「この人を口説き落として新しいことをやろう!」みたいな意図はないです。昔インタビューさせてもらってたし、なんだかんだとお世話になってきたっていうのはありますけど。
ずっと面白いと思ってた人ではあるので。もちろん音楽もそうですし。どういうことを考えてたりするんだろうってのが気になってた。そんな感じです。
この記事どう思う?
ニートtokyo
インタビューメディア
毎日夜9時に更新するyoutubeチャンネル。ヒップホップ界隈の人々へ、他メディアでは聞かない質問をインタビューして1カット1発で配信中
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1件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:1645)
2017.11.20 SEEDAインタビュー書き起こし(素起こし) #DOMMUNE #ニートTOKYO - RED NOTE
http://rednote.hatenablog.jp/entry/2017/11/23/234556