ともに疎外感を味わってきた2人の作家
気がつくといつの間にか李禹煥×村上隆の対談に
「バブル経済の真っ直中で、アートにおいても“刹那的”なカッコよさに追従する風潮が蔓延する中で、僕があえて逆張りしたのも、半芸術的志向に反発して物に回帰した「もの派」の影響です」
これだけ世界的に評価されているにも関わらず、日本の美術界の中でなかなか展示の機会などに恵まれず、とうとう自分でギャラリーまで設立した村上さんと、李さんの間には、互いに苦境を乗り越えてきたからこそ分かり合えるものがあるのかもしれません。
「もの派」を牽引する巨匠・李さんが見せる屈託のない笑顔
「もの派」とマンガの意外な共通点?
カイカイキキギャラリーに展示されている李さんの過去の作品。生け花は村上さんが所有するパナリ壺に小路苑さんが活けたもの
では、村上さんにとっての「もの派」とは、どういうものなのでしょう?
「歴史を振り返ると「マンガ」が市民権を得た時と「もの派」は同じ時期なんです。当時、貧困などで物もなく、日本には芸術の成立は不可能であると言われていました。マンガも子ども向けの娯楽として、なかなかその価値を認められなかった時代です。
「もの派」の本質は、「自分達の手に入る物、そこにある物そのままに」というところにあり、貧しい中でも芸術はできるのではないか、という発想ですよね。それは、茶道の「侘び」にも通じる概念なんです。
そして、世界の同時多発的な芸術の動向として、イタリアのアルテ・ポーヴェラ(直訳で「貧しい芸術」という意味)というムーブメントも起こっています。イタリアも日本も、第二次世界大戦で戦争に負け、その苦境の中での芸術の自由を思考した結果、似た動きがあったことも興味深いですよね」
また、李さんは「僕は出来上がった作品を持っていって展示して完成じゃなくて、現場で空間を含めて作品を制作する作家ですから」と話していました。空間全体をキャンバスに見立てている李さんの作品からは、「物を本来のあるべき姿ではなく、別の物として見る」という茶道的な見立ての美学も感じさせられます。
既存の表現へのカウンターであったという点でも、1970年代初頭のムーブメントとして「マンガ」と「もの派」は密接にリンクしているんですよ。そういった歴史を理解していくと、手塚治虫さんと李さんはある意味同じ地平を歩いてるということがわかります。つまり、当時の体制の中でつくることを茶化すか笑い飛ばすか、これはどちらも独特な時代的批判の姿勢だったと言えます」
さらに、村上さんはタモリや赤塚不二夫を例に李さんの作品の説明をしてくれました。
「赤塚不二夫やタモリは、日本のチープなものをエンターテインメントに着陸させた人なんですよ。李さんは、今は「もの派」の中心人物ですが、若い頃はトリッキーアートを得意としていました。真面目で渋い作品のイメージがありますが、実はそうじゃない。李さんは言わば、現代美術版の赤塚不二夫やタモリ、アラーキー(荒木経惟)の立ち位置でもあるんです」
芸術界のターニングポイント
『奇子1』手塚治虫文庫全集 BT 93(講談社)表紙
「もの派」が全盛だった1970年代頃は、世の中には暗い雰囲気が漂っていて、経済的にも落ち込んでいた。だから、バブルが到来した時に割りを食ってしまった。だけど、李さんは「もの派」の急先鋒ということで、展覧会の機会はあって、その度に大きなインスタレーション作品を制作していたけれど、美術館も購入まではしてくれず、残った作品は全部捨てていたそうなんです」
6年前、村上さんが「捨ててしまった作品を再制作してください」とオファーしたところから今回の個展は始まっている。
「でも、李さんは『最新作をやりたい』と言ってくださった。どっちがよかったのかなと思いつつ、色々話を聞いて新作の展開で良かったと思っています」
村上さんは李さんが展示の準備をしている間中、しきりに「好きにやってください」と口にされていました。
「僕自身、作家を信じてくれるギャラリーや美術館としか仕事をやりたくないんですよ。僕は李さんを尊敬しているし、うちのギャラリーで個展を開いてくださることになったのは大変な幸せだから、後は気持ちよく思うままにやっていただきたいです」
デュシャン以降の現代アートの衰退を肌で感じながらも芸術界の第一線で活躍してきた2人のタッグだからこそ、今回の個展は特別な意味を帯びてくるのかもしれません。
執筆者:内藤仁
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