コメディにおける「風刺」。
アメリカのコメディ界においては避けて通れない「定番ネタ」です。権力者に批評の目を向け、それを笑いに昇華することで「政治を大衆化する」という役割がコメディにはあります。
一方、日本のお笑い番組では風刺ネタを見かける機会は、あまり多くありません。日本のある大物コメディアンは、日本において風刺ネタは一番「安易」に笑いを取りに行く方法でもあるとも主張しています。逃げ腰な発言ともとれますが、あながち的外れな意見ではないともいえます。
それは風刺ネタが「裸の王様に指を差して笑う」レベルにまで堕ちてしまっている近年のアメリカの現状を見るとよく分かります。
「トランプ大統領」の誕生によって、アメリカでは風刺系コメディ番組や「レイトショー」番組、「トランプ・バブル」の波に乗ろうとするスタンダップ・コメディアン達が爆発的に増えることになりました。
トランプの一挙手一投足が「ツッコミ不要」なことは周知の通りです。
米大統領として前代未聞の言動を続ける彼は、先日も元ソマリア難民のイルハン・オマル氏らを含む非白人の女性民主党議員4人に対してTwitter上で「(国へ)帰れ」と投稿し、自身の集会において「彼女を送還しろ!」というシュプレヒコールを間接的に促すことになりました。
誰がどう見てもおかしい「裸の王様」の言動を揶揄するツッコミは「野暮」で「安易」の極みであり、トランプ批判は多くの観客が食傷気味の「定番ネタ」となってしまいました。
アメリカの「風刺の良心」ともいえる長寿アニメ『サウス・パーク』の製作者たちを始めとした、優秀なコメディアンたちがトランプをネタにしないのはこれに起因します。「トランプという現実」がコメディを凌駕してしまった。これは風刺コメディにおける「裸の王様」の誕生でもあったのです。
同番組のホストであるハサン・ミンハジは、「Supreme」というポップな話題から「インドの選挙」というディープな話題まで、スタンダップ・コメディ仕込みの巧みな比喩表現で風刺していきます。スタンダップ・コメディは日本で言うところの「漫談」に限りなく近く、身近な話題から政治の批評まで行う話芸のことです。
アメリカにおいて、スタンダップ・コメディアンは生活に近いトピックを使い、大衆とポリティカルなイシューの媒介者となっています。彼らは大衆の、そういった普段意識しない世界への案内人なのです。そして、風刺の肝となる比喩表現の巧みさや意外さこそが、コメディアンの真価が発揮されるポイントなのです。
ハサンの繰り出す風刺の数々は、同番組に携わる一流報道機関出身のライターやリサーチ・チームが用意した膨大なレファレンスによってバックアップされています。バックに流れるTED風のスライドも彼の話芸に華を添えます。
しかし、日本人の我々にとっては、彼の笑いのポイントがいまいちピンと来ないこともしばしばです。爆笑する観客を尻目に、損した気分になってしまうことがあるかも知れません。「アメリカの笑いはわかりやすい」というイメージがありますが、やはり文化的な背景なしには理解できないコンテクスト(文脈性)の高いジョークが多くあります。
本連載では、そんな『愛国者として物申す』のエピソード内で、観客のリアクションが大きかったハサンのパンチライン(ネタを締めくくるオチのこと)をピックアップし、笑いのポイントと文脈を解説。「ユーモア」を通して文化的背景を知る、番組の「副読本」として読んでもらえたらと思います。
その第1回目に取り上げたいのが、シーズン1 エピソード7の「Supreme」です。
そんなSupremeが若者たちを惹き付ける理由は「Hype」です。Hypeという言葉は、従来の意味である「誇大広告」が転じ、「注目の」「(漠然とした)カッコいいもの」といった意味合いで若者の間では使われます。
彼らにとって、Supremeはまさに「Hype」を体現する存在なのです。「Supreme」 | 『ハサン・ミンハジ 愛国者として物申す』
そんなハサンも、Hypeの元祖ともいえるNIKEのスニーカー・シリーズ「エアジョーダン」の洗礼を受けた世代です。しかしハサン曰く、Hypeの正体とは「根底では空虚さを抱えた、大きな興奮」であり、喩えるならば「大晦日に賑わう人達の盛り上がり」だと指摘します。Hypeの正体は「空洞」なのです。
そして「Hypeのカラクリ」が、数量限定商法で「自社商品の供給を著しく少なくして、需要を高める」ことであることを明かします。その需要が人々の顕示的消費欲(Conspicuous Consumption)、つまり「他人が手に入れられないものを購入することで満たされる欲」によって雪だるま式に高まっていくところまでがセットであることも付け加えます。
ハサンはそんな「Hype」を追っていくうちに、「お金の集まるところには、さらにお金を持ったキナ臭い奴らが集まる」という普遍的な現実に辿り着いてしまうのでした。
ハサンは「Hypeの不都合な真実」を我々に突きつけ、「Hypeの価値」を問うのです。
アメリカのコメディ界においては避けて通れない「定番ネタ」です。権力者に批評の目を向け、それを笑いに昇華することで「政治を大衆化する」という役割がコメディにはあります。
一方、日本のお笑い番組では風刺ネタを見かける機会は、あまり多くありません。日本のある大物コメディアンは、日本において風刺ネタは一番「安易」に笑いを取りに行く方法でもあるとも主張しています。逃げ腰な発言ともとれますが、あながち的外れな意見ではないともいえます。
それは風刺ネタが「裸の王様に指を差して笑う」レベルにまで堕ちてしまっている近年のアメリカの現状を見るとよく分かります。
「トランプ大統領」の誕生によって、アメリカでは風刺系コメディ番組や「レイトショー」番組、「トランプ・バブル」の波に乗ろうとするスタンダップ・コメディアン達が爆発的に増えることになりました。
トランプの一挙手一投足が「ツッコミ不要」なことは周知の通りです。
米大統領として前代未聞の言動を続ける彼は、先日も元ソマリア難民のイルハン・オマル氏らを含む非白人の女性民主党議員4人に対してTwitter上で「(国へ)帰れ」と投稿し、自身の集会において「彼女を送還しろ!」というシュプレヒコールを間接的に促すことになりました。
誰がどう見てもおかしい「裸の王様」の言動を揶揄するツッコミは「野暮」で「安易」の極みであり、トランプ批判は多くの観客が食傷気味の「定番ネタ」となってしまいました。
アメリカの「風刺の良心」ともいえる長寿アニメ『サウス・パーク』の製作者たちを始めとした、優秀なコメディアンたちがトランプをネタにしないのはこれに起因します。「トランプという現実」がコメディを凌駕してしまった。これは風刺コメディにおける「裸の王様」の誕生でもあったのです。
コメディ界の超新星ハサン・ミンハジ
Netflixで配信中の『ハサン・ミンハジ: 愛国者として物申す(原題:Patriot Act with Hasan Minhaj)』は、そんな不甲斐ない風刺コメディ番組群に一石を投じる存在として注目を浴びています。同番組のホストであるハサン・ミンハジは、「Supreme」というポップな話題から「インドの選挙」というディープな話題まで、スタンダップ・コメディ仕込みの巧みな比喩表現で風刺していきます。スタンダップ・コメディは日本で言うところの「漫談」に限りなく近く、身近な話題から政治の批評まで行う話芸のことです。
アメリカにおいて、スタンダップ・コメディアンは生活に近いトピックを使い、大衆とポリティカルなイシューの媒介者となっています。彼らは大衆の、そういった普段意識しない世界への案内人なのです。そして、風刺の肝となる比喩表現の巧みさや意外さこそが、コメディアンの真価が発揮されるポイントなのです。
ハサンの繰り出す風刺の数々は、同番組に携わる一流報道機関出身のライターやリサーチ・チームが用意した膨大なレファレンスによってバックアップされています。バックに流れるTED風のスライドも彼の話芸に華を添えます。
しかし、日本人の我々にとっては、彼の笑いのポイントがいまいちピンと来ないこともしばしばです。爆笑する観客を尻目に、損した気分になってしまうことがあるかも知れません。「アメリカの笑いはわかりやすい」というイメージがありますが、やはり文化的な背景なしには理解できないコンテクスト(文脈性)の高いジョークが多くあります。
本連載では、そんな『愛国者として物申す』のエピソード内で、観客のリアクションが大きかったハサンのパンチライン(ネタを締めくくるオチのこと)をピックアップし、笑いのポイントと文脈を解説。「ユーモア」を通して文化的背景を知る、番組の「副読本」として読んでもらえたらと思います。
その第1回目に取り上げたいのが、シーズン1 エピソード7の「Supreme」です。
『愛国者として物申す』:「Supreme」回の概要
「Supreme」が生み出す「Hypeの価値」
「Supreme」は、若者ファッションのデフォルトとなりつつある「ストリート系」を牽引するスケートブランドです。新作発売日には熱心なファンや「転売ヤー(転売屋)」たちがこぞって世界中の店頭に長蛇の列を作ることで有名で、転売後の価格は定価の5倍近くを叩き出すことはザラです。そんなSupremeが若者たちを惹き付ける理由は「Hype」です。Hypeという言葉は、従来の意味である「誇大広告」が転じ、「注目の」「(漠然とした)カッコいいもの」といった意味合いで若者の間では使われます。
彼らにとって、Supremeはまさに「Hype」を体現する存在なのです。
そして「Hypeのカラクリ」が、数量限定商法で「自社商品の供給を著しく少なくして、需要を高める」ことであることを明かします。その需要が人々の顕示的消費欲(Conspicuous Consumption)、つまり「他人が手に入れられないものを購入することで満たされる欲」によって雪だるま式に高まっていくところまでがセットであることも付け加えます。
ハサンはそんな「Hype」を追っていくうちに、「お金の集まるところには、さらにお金を持ったキナ臭い奴らが集まる」という普遍的な現実に辿り着いてしまうのでした。
ハサンは「Hypeの不都合な真実」を我々に突きつけ、「Hypeの価値」を問うのです。
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