最終章『ハハノシキュウ、角打ちを体験する』
旅の最後に、北九州名物「角打ち」(※)のお店「かどまん」で、北九州市職員の石川さん、森井さんと立ち飲みというラフなスタイルで酒を囲んだ。※ 酒屋で買った酒をそのまま店内で飲むスタイルのお店。「かどまん」のように酒屋ではない場所も「角打ち」として親しまれている
僕の地元は、青森県の弘前市という街だ。青森市に勝てないのはわかってるが、別に勝とうとしないで弘前は弘前で完結してる感じが良くも悪くもいいなぁって思っている。
北九州市も、自虐的な情報が多く、きっと現地の人も表向きは自虐的でも、なんだかんだこの街に満足している。劣等感がありそうで無い感じが心地よかった。
「まだ、これからなので、満足してちゃいけないんですけどね」。そう石川さんは話す。 これは自虐の旅だった。日本一居心地のいい自虐だったと思う。
普通だったら「北九州が熱い!」といった褒め方が適しているのかもしれない。「君の地元熱いぞ!」って。
だけど、僕が感じたのは「北九州の微温さ」だった。「折角来たんだから楽しんでいけや!」といちいち強制されない適温が何より心地よかったのだ。
梅子さんという「かどまん」の店主も、なんともいえない「適温」をもっていた。
どこかやさぐれた感じで接客してくれるのが印象的で、石川さんいわく、「この辺で一番エモい」と言われているおばちゃんだ。 石川さんが被っていた北九州市グッズのキャップに、北九州市の角打ちの定番メニュー「鯖缶」が刺繍されていることを説明すると、カウンターに本物の鯖缶を置いてドヤ顔をして十代の女の子のようにケラケラ笑う。そういう茶目っ気がありつつ、息子さんが東京にいるなんて話を少し寂しそうにしたりする。
エモいという言葉はサブカルチャーくらい曖昧で、説明すればするほど意味から遠く離れていく気がする。だけど、僕のキャップを被って写真を撮られていた梅子さんの表情がまさにエモいそのものだと思った。
完結できないこの余韻が一番いい。僕は正直にそう思った。
今回、北九州市の旅企画も3回目となるスタッフから、しきりに勧められていた「カナッペ」という旦過市場名物の魚のすり身を揚げたものがある。 “カナッペの美味しさ”を口々に語り合うみなさんの会話に錐揉みされ、僕の中で想像も膨らみ、「北九州の台所」こと旦過市場にあるかまぼこ屋さんに並んだのだが、ひとつ前に並んでいたお客さんが嬉しそうにラスト1個を鮮やかに持ち去り、翌日に再度赴くも、今度は定休日というオチだった。ピアノの鍵盤のように肩を落とした。
というわけで、僕はカナッペを食べられないまま東京へ帰ったのだ。
しかし、カナッペも古書センターも、100パーセント堪能できなかったことに価値がある。
この北九州という街はそれこそ古書センター珍竹林のように乱雑で多色で、底が見えない。
「だからこそ、北九州はPRするのが難しいんですよ」
石川さんは自虐混じりにそう言った。
「また行きたいと思わせる腹八分目感が伝わればいいんですけどね。普通はその都市その都市のど定番スポットをクリアしちゃうと満足しちゃいますから」
支払いを済ませて店を出ようとすると、梅子さんがカウンターに置いた鯖缶をそのまま「ほれ、あげるよ」と差し出してきた。
思い返せばこの2日間、本当に貰ってばかりの旅だった。
あとがき
というわけで、観光とは全く違うベクトルで北九州市を堪能した僕の北九州道中記はここで終わり。どちらかと言うとオチに重きを置いて文章を書くことを好む僕だが、この旅行に関してはそんなものは必要ない。そう思った。
音楽で言うならワンループのダブビートみたいな感じだ。どこから入ってもいいし、どこから出てもいい。だから明確なオチがあってはいけない。ただただ余韻を残しながら、前に進んでいくだけなのだ。
「カナッペロス」の傍らで、僕は次の楽しみができたことをあえて喜んだ。ビールと一緒で、ちょっと我慢した方が美味いに決まっている。
旅行というのは、結果を欲しがったり、周りの人間の目線を気にした時点で旅行ではなくなる。あくまで自分が楽しむためのもの。競争しない=サブカルチャーでいいのだ。
東京へ帰った翌日、職場にお土産を持っていくと、「博多じゃなくて北九州か。へぇ、渋いね」と言われたが、“福岡で旅行なら博多に決まってる”というのが、福岡への普遍性を持った価値観らしい。
僕の中でこれがもう決定打だと思った。旅行に普遍性など必要ない。
他人にアピールしたり、自慢するために旅行があるのではない。そういう意味では北九州市がうってつけだったのだ。
だから、僕はカナッペの味を忘れない。食べていないのだから忘れることもできないのだ。まるで、初恋みたいな気持ちだった。
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