ダウンタウン・松本人志の新番組「FREEZE」が、2018年9月より配信される。
シリーズが公開されるたび大きな話題を呼ぶ『ドキュメンタル』に続いて、「Amazon Prime Video」第2弾となる松本人志の新企画だ。『ドキュメンタル シーズン4』 60秒予告
松本人志の『ドキュメンタル』は、密室の中で10人の芸人がお互いを笑わせあうという企画の斬新さもさることながら、テレビの次の試みの場としての「Amazon Prime Video」──つまり現在世界中の映像制作環境に大きな影響を与えているサブスクリプション型の配信サービスを選んだことで大きな反響を呼んだ。
松本人志は、劇場からテレビ、ビデオ作品、映画など(1万円限定のコントライブなどもある)、様々なフォーマットで「笑い」をアップデートし、スタンダードなものにしてきた。もっといえば、「松本人志の笑い」は平成における日本人の笑いの価値観の根幹をつくってきたといえる。
では、その「松本人志の笑い」とはなんなのだろう。
筆者は以前、近年の地上波バラエティ番組における松本人志の"お笑い"のあり方について以前note上で論じた(外部リンク)。そこでは、『水曜日のダウンタウン』における松本人志のある一言のツッコミを元に、彼がやろうとしているお笑いとは、「まだおもしろいとされていないこと」を「おもしろいこと」に転じることなのではないかという"説"を提示している。
本稿では、そうした視座から、これまでに松本人志がおこなってきたいくつかの実験を振り返りながら「松本人志の笑い」を紐解いていく。
そして『ドキュメンタル』での新たな実験を経て、松本人志の笑いはどのようなステージに進もうとしているのか、そのヒントを探りたい。
文:ヒラギノ游ゴ 編集:和田拓也
松本の笑いの根幹にあるのは「シュール」だ。
ここでいう「シュール」とは夢の中にいるような奇妙な世界観を写実的に描写する原義の「シュルレアリスム」ではなく、日本で定着した「ナンセンス」や「不条理」といった意味合いの用法だ。というより、松本人志がやっているような笑いのスタイルを「シュール」と称する用法自体、彼が登場して以降急速に定着したものといえるかもしれない。
今ジョークを言ったぞというわかりやすい抑揚をつけず、明確な笑いの山場を設けないスタイルは、当時のお笑いシーンにおいて新鮮なものであり、裏を返せば、「おもしろいもの」として認識されていなかった。
しかし、ダウンタウン登場以降、そうしたお笑いを志向するフォロワーは急増した。今の若手芸人やお笑い養成所の学生、はたまた″クラスのおもしろい奴″に至るまで、自分が「松本人志以降のシュール」の影響下にいること自体を認識していない者は少なくないのではないだろうか。
そうした松本人志のお笑いの根っこのセンスを確立したのが『ダウンタウンのごっつええ感じ』(1991〜1997年)だといえる。ダウンタウンを一躍全国的なスターへと押し上げた番組だ。 この番組ではとにかく過激な企画が目立ち、この過激さそのものがこの時期の彼の実験といえる。
セットじゅうに食材をぶちまける「キャシィ塚本」、毎回冒頭で浜田雅功がYOUに後背位で迫る「ゴレンジャイ」、葬式を舞台にした不謹慎極まる「しょうた!」、サウスパークばりのスプラッタを見せる「きょうふのキョーちゃん」。
現代の感性からするとちょっと信じられないバイオレンスぶり。なおかつ、好き勝手暴れておいて笑いの質は極めてシュールだ。まつもと犬
※気になる新番組の情報を匂わせるのが、新番組配信に合わせて登場した「まつもと犬」。かつての「ごっつ」のコント「野生の王国」、「犬マン」を彷彿させる。
ごっつ終了後に発表したビデオ作品『VISUALBUM』(1998〜1999年)では、放送コードへの目配せが不要な分、より一層バイオレンス性が強まっているように感じられ、終始怒鳴り合いが続くものや、最初から最後までピリついたムードで進行する不穏な空気の作品もある。
また、録音笑いが収録されていないこともあり、ごっつのように明瞭な笑いどころが提示されていない作品も多く、シュールさとバイオレンス性の両面で、よりごっつの路線を突き詰め先鋭化したものといえる。
しかしこの先鋭化したシュールとバイオレンス性は、のちに9年ぶりとなるコント作品『松本人志のコントMHK』(2010〜2011年)ではすっかり鳴りを潜めることになる。当時の取材で松本は、過去の諸作品群を観返した折に、そういった笑いにあまり魅力を感じなくなっていたと語っている。
この心境の変化こそが、松本を今なおトップランナーたらしめている強みではないだろうか。つまり、彼は放送業界の倫理観の成熟に合わせて、自身の感覚を着実にアップデートしてきているのだ。
バイオレンス性が鳴りを潜めて以降の『松本人志のコント MHK』などに対して、ごっつ直撃世代が"丸くなった"という評価を下す向きも理解できるが、筆者はむしろこの変化を"抜け目ない"と感じる。こういった時代に即した意識改革ができず、過去の成功体験に固執していわゆる老害と化してしまう人間はどの業界にもいるからだ。
こうした抜け目なさ、アップデートを怠らない危機管理能力といえるものは、そもそもの芸風がナンセンス・不条理な性質であり、新喜劇的なわかりやすい笑いどころが用意されていない以上"客がどこまで理解できるか"を常に観察してきたからこそ養われたものだろう。
かたや自身の理想とするコントを徹底的に追求したビデオ作品、かたやエンターテインメント性に突き抜けた年末特番。アート志向とショー志向と、真逆な性質を持ってはいるものの、巨額を投じて多数の人員が動くものであることは共通している。
『すべらない話』では、こうした大規模なつくり込みの上で成り立つお笑いを一度脱して、混じりっけなしのトーク力によるおもしろさを追求するべく、それ以外の要素の介在の余地が徹底的にそぎ落とされている。 また、同様に芸人の自力を問う番組として『IPPONグランプリ』(2009年〜)があるが、この番組を語る上で批評的に意義深い要素がある。松本人志による別室からの「コメンタリ」だ。
大喜利のお題の攻略パターンや出演者同士のプロの駆け引きを視聴者に解説することで、視聴体験が一気に立体的になる。このことが単純な大喜利番組と一線を画す要因になっている。
なぜこれがコンテンツとして成り立つのかというと、それを楽しめるまでに客が育ったからだ。松本が「おもしろいとされていないこと」を「おもしろいこと」に転じることを繰り返してきたことで、我々は知らず知らずお笑いに対して非常にハイコンテクストに成熟してきた。
そして、自ら成熟を促した大衆の、またさらに頭1つ上から俯瞰したお笑いを提供し続けるというのが、松本がやっている終わりなき求道のように思える。
客が育ってしまった以上、それを楽しませる仕組みがあってしかるべき。こうした流れでコメンタリが導入されたと考えると筋道が綺麗に成り立つと考えられないだろうか。
シリーズが公開されるたび大きな話題を呼ぶ『ドキュメンタル』に続いて、「Amazon Prime Video」第2弾となる松本人志の新企画だ。
松本人志は、劇場からテレビ、ビデオ作品、映画など(1万円限定のコントライブなどもある)、様々なフォーマットで「笑い」をアップデートし、スタンダードなものにしてきた。もっといえば、「松本人志の笑い」は平成における日本人の笑いの価値観の根幹をつくってきたといえる。
では、その「松本人志の笑い」とはなんなのだろう。
筆者は以前、近年の地上波バラエティ番組における松本人志の"お笑い"のあり方について以前note上で論じた(外部リンク)。そこでは、『水曜日のダウンタウン』における松本人志のある一言のツッコミを元に、彼がやろうとしているお笑いとは、「まだおもしろいとされていないこと」を「おもしろいこと」に転じることなのではないかという"説"を提示している。
本稿では、そうした視座から、これまでに松本人志がおこなってきたいくつかの実験を振り返りながら「松本人志の笑い」を紐解いていく。
そして『ドキュメンタル』での新たな実験を経て、松本人志の笑いはどのようなステージに進もうとしているのか、そのヒントを探りたい。
文:ヒラギノ游ゴ 編集:和田拓也
"バイオレンス"を突き詰めた『ごっつ』
『ドキュメンタル』に限らず、松本人志のキャリアは常に実験の積み重ねだ。それは一貫した、「まだおもしろいとされていないこと」を「おもしろいこと」に転じる試みの連続でもある。松本の笑いの根幹にあるのは「シュール」だ。
ここでいう「シュール」とは夢の中にいるような奇妙な世界観を写実的に描写する原義の「シュルレアリスム」ではなく、日本で定着した「ナンセンス」や「不条理」といった意味合いの用法だ。というより、松本人志がやっているような笑いのスタイルを「シュール」と称する用法自体、彼が登場して以降急速に定着したものといえるかもしれない。
今ジョークを言ったぞというわかりやすい抑揚をつけず、明確な笑いの山場を設けないスタイルは、当時のお笑いシーンにおいて新鮮なものであり、裏を返せば、「おもしろいもの」として認識されていなかった。
しかし、ダウンタウン登場以降、そうしたお笑いを志向するフォロワーは急増した。今の若手芸人やお笑い養成所の学生、はたまた″クラスのおもしろい奴″に至るまで、自分が「松本人志以降のシュール」の影響下にいること自体を認識していない者は少なくないのではないだろうか。
そうした松本人志のお笑いの根っこのセンスを確立したのが『ダウンタウンのごっつええ感じ』(1991〜1997年)だといえる。ダウンタウンを一躍全国的なスターへと押し上げた番組だ。 この番組ではとにかく過激な企画が目立ち、この過激さそのものがこの時期の彼の実験といえる。
セットじゅうに食材をぶちまける「キャシィ塚本」、毎回冒頭で浜田雅功がYOUに後背位で迫る「ゴレンジャイ」、葬式を舞台にした不謹慎極まる「しょうた!」、サウスパークばりのスプラッタを見せる「きょうふのキョーちゃん」。
現代の感性からするとちょっと信じられないバイオレンスぶり。なおかつ、好き勝手暴れておいて笑いの質は極めてシュールだ。
ごっつ終了後に発表したビデオ作品『VISUALBUM』(1998〜1999年)では、放送コードへの目配せが不要な分、より一層バイオレンス性が強まっているように感じられ、終始怒鳴り合いが続くものや、最初から最後までピリついたムードで進行する不穏な空気の作品もある。
また、録音笑いが収録されていないこともあり、ごっつのように明瞭な笑いどころが提示されていない作品も多く、シュールさとバイオレンス性の両面で、よりごっつの路線を突き詰め先鋭化したものといえる。
しかしこの先鋭化したシュールとバイオレンス性は、のちに9年ぶりとなるコント作品『松本人志のコントMHK』(2010〜2011年)ではすっかり鳴りを潜めることになる。当時の取材で松本は、過去の諸作品群を観返した折に、そういった笑いにあまり魅力を感じなくなっていたと語っている。
この心境の変化こそが、松本を今なおトップランナーたらしめている強みではないだろうか。つまり、彼は放送業界の倫理観の成熟に合わせて、自身の感覚を着実にアップデートしてきているのだ。
バイオレンス性が鳴りを潜めて以降の『松本人志のコント MHK』などに対して、ごっつ直撃世代が"丸くなった"という評価を下す向きも理解できるが、筆者はむしろこの変化を"抜け目ない"と感じる。こういった時代に即した意識改革ができず、過去の成功体験に固執していわゆる老害と化してしまう人間はどの業界にもいるからだ。
こうした抜け目なさ、アップデートを怠らない危機管理能力といえるものは、そもそもの芸風がナンセンス・不条理な性質であり、新喜劇的なわかりやすい笑いどころが用意されていない以上"客がどこまで理解できるか"を常に観察してきたからこそ養われたものだろう。
松本人志と視聴者側の変化
『人志松本のすべらない話』(2004年〜)には、『VISUALBUM』やその後の『笑ってはいけないシリーズ』(2003年〜)といった、諸作品でやってきたことの反動からくる実験精神を感じる。かたや自身の理想とするコントを徹底的に追求したビデオ作品、かたやエンターテインメント性に突き抜けた年末特番。アート志向とショー志向と、真逆な性質を持ってはいるものの、巨額を投じて多数の人員が動くものであることは共通している。
『すべらない話』では、こうした大規模なつくり込みの上で成り立つお笑いを一度脱して、混じりっけなしのトーク力によるおもしろさを追求するべく、それ以外の要素の介在の余地が徹底的にそぎ落とされている。 また、同様に芸人の自力を問う番組として『IPPONグランプリ』(2009年〜)があるが、この番組を語る上で批評的に意義深い要素がある。松本人志による別室からの「コメンタリ」だ。
大喜利のお題の攻略パターンや出演者同士のプロの駆け引きを視聴者に解説することで、視聴体験が一気に立体的になる。このことが単純な大喜利番組と一線を画す要因になっている。
なぜこれがコンテンツとして成り立つのかというと、それを楽しめるまでに客が育ったからだ。松本が「おもしろいとされていないこと」を「おもしろいこと」に転じることを繰り返してきたことで、我々は知らず知らずお笑いに対して非常にハイコンテクストに成熟してきた。
そして、自ら成熟を促した大衆の、またさらに頭1つ上から俯瞰したお笑いを提供し続けるというのが、松本がやっている終わりなき求道のように思える。
客が育ってしまった以上、それを楽しませる仕組みがあってしかるべき。こうした流れでコメンタリが導入されたと考えると筋道が綺麗に成り立つと考えられないだろうか。
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ヒラギノ游ゴ
ライター
平成東京生まれのライター。多趣味を標榜し、音楽、テレビ、スニーカーを興味の中心に据え、90年代ストリートカルチャー、ジェンダーを巡る社会的課題、アジア圏のポップミュージック、ジャニーズ、スラッシュフィクション、ラブホテル、大相撲など多岐に亘る関心事の情報収集を日々行う。直近で一番精力的に取り組んでいる趣味はナルミヤブランド史研究。
1件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:10530)
「彼は放送業界の倫理観の成熟に合わせて、自身の感覚を着実にアップデートしてきているのだ。」
ほんまかいな?