連載 | #3 はるしにゃんの幾原邦彦論──運命とメンヘラと永遠と

はるしにゃんの幾原邦彦論 Vol.3 ウテナと少女革命の真骨頂にゃん

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「個人の多数多様性の解放」する革命

従来のジェンダー規範を逃れるウテナの服装と、「守られるお姫さま」より「守る王子様」になりたいという指向性は「性別越境性」を持っている。しかし、こう記述すると一見これは一般的な秩序の安易な「転倒」に見えるかもしれない。しかし、違う。

ここにおいて重要なのは、「男でもなく女でもなく」、ウテナが志向していたのはただ、「性別など無関係に自己と他者に生を吹き込む、凛として気高く、弱き者を支える者」としての「王子様」であるからだ。そもそも「うてな」という語は「花を支えるもの」を表す語であり、よりわかりやすく言えば花びらを守る「がく」である。

フェリックス・ガタリ『分子革命―欲望社会のミクロ分析』

批評家の小林秀雄は「美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない」(小林秀雄「当麻」より)と述べたが、そうした個別的に咲き誇る、単独的な本性に従いその生の躍動(エラン・ヴィタール)をすこやかに伸ばした成果であるところの花、それを下支えするのがウテナなのだ。

その生き様は、それ自体が凛として咲くもう一本の花として生きることでもある。このような仕方で「潔くカッコよく生きていく」その姿を肯定する本作は、男女といった区分をもはや脱構築し含みつつ超えた「横断性」(トランスヴェリサリテ)をえがいている。

2種類ではなく各人の多種多様なるセクシュアリティが花開き、自らの力能=コナトゥスに素直に従い特異的なものになることを肯定すること──すなわち、『少女革命ウテナ』とは「n個の性」による「分子革命」を描いた作品なのだ。

「分子革命」とは、ドゥルーズ=ガタリにおいて「生成変化」と呼ばれ、そのような社会の集合的な構造に逃走線を引く特異な生存の様態、自覚的に振る舞う個人個人によって成し遂げられる変革を指している。

一言で言えば、それは「個人の多数多様性の解放」を意味している。そして『ウテナ』における分子革命とは、「ポリセクシュアリテ=性的多数多様性の解放」として顕在化する。

いかにして「少女革命」は成し遂げられたのか

ラスト付近において、ウテナは王子様と性交渉を持つ。アンシーの兄である鳳暁生=零落したディオスとだ。しかし実は、アンシーは実の兄である暁生と近親相姦を行っていたことが発覚する。そこでウテナとアンシーの友情にヒビが入る。すなわち「友情か恋愛か」の二者択一という極めて少女漫画的な主題が立ち上がるということだ。

こうして私たちは最終話を目撃する。すなわち、「少女革命」とはなにか、その真骨頂を、である。

ラストで描写される、棺桶のなかに入ったアンシーと剣の群れに串刺しにされるウテナ。それを眺める鳳暁生。これは、男性的権力構造によって女性が従属されていることを意味している。

剣とは男根であるから、ウテナはこの時点と、鳳暁生との性交の段階において貫通=姦通している。少女時代はセックスによってひとつのフェイズを終える。

しかし、それでもなおウテナは王子様であろうとする。そして泣きながら棺桶の中のアンシーを救いだした後「王子様に、なれなかったよ」と諦念を込めて述べたてるのである。だがこの瞬間、被従属的な女性であり非主体であったところのアンシーは、ウテナとの間に瞬間的永遠としての「友情」を感じるのである。

この「疑い得ない特権的な無償の愛(アガペー)としての友情」こそが「少女革命」のその意味に他ならない。ここにおいてウテナとアンシーの関係性はかけがえのない単独性=特異性へと生成変化している。

ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』において映画『ウィラード』の分析として論述したように、生成変化の契機とはまず群れのなかで「特異なもの=シンギュラリティ」を見出すことで始まるのだ。

鳳暁生はその父権性と王子様からの零落ゆえにその「革命」という〈出来事〉に気づかない。革命は、ラカン的に言えばファルス的享楽によっては為されえず、「女性享楽=大文字の他者の享楽」という外部性へ開かれるからこそ生起するものだからである。

そして最後、その鳳暁生を置いて、モラトリアムや思春期を象徴する学園という檻から自らを解放したウテナを探しに、アンシーもまたその一歩を踏み出す。

かくのごとき「少女の幻想の崩壊と、それでもなお祈りによって成就するかけがえのない女の子同士の友情=革命=永遠」を描いてみせたがゆえにこそ、本作は一方で女性からの多大な支持を得、また他方でその少女漫画的想像力に対する自己批評性によって類稀なる強度を有するに至ったわけだ。

成熟、すなわち少女がそれぞれ固有の方法で大人になること

少女革命ウテナ Blu-ray BOX 下巻

劇場版の『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』。タイトルに青春を意味する「アドレセンス」の語が入っているように、これもまた思春期や青年期の問題を扱った作品であったと言えよう。

そちらではより解りやすく爽快に、それでいて豪快に、幻想の外部への脱出とそこに広がる「平坦な荒野」が描かれている。外部、そこでもまた彼女たちは困難に出くわすかもしれない。しかし、ラストにおいてバイクへと生成変化し、この平坦な荒野を二人で疾走する彼女たちは、仮にダーティーな世界であろうとビートニクのように、逞しくサヴァイヴしていけるだろう。閉鎖された王子様の圏域たる学園を抜け出して、彼女たちは初めて「大人」になったのだと言える。

これは守旧的な成熟とは位相を異にする脱近代的な成熟だ。

すなわち、『少女革命ウテナ』とは、か弱い少女が華麗にして魅力的な自由な大人へと成長する、極めてまっすぐなビルドゥングスロマンなのだ。にゃん。

時に愛は強く人の心を傷つけもするけれど

夢を与え 勇気の中にいつもひかり輝いて

愛は強く人の心を動かして行く

だから二人でいる きっと世界を変えるために

そしてすべては ひとつの力になる 『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』主題歌「時に愛は」より

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はるしにゃん

ライター/エディター/プランナー

1991年生. Writer/Editor/Planner 文芸サークル「カラフネ」代表. 読書会「現殺会」主催. 高円寺カフェバー「グリーンアップル」マネージャー/ディレクター/イベンター. 最新同人誌『SOINEX』は通販予定

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