20作目を迎えるポケモン映画の最新作『劇場版ポケットモンスター キミに決めた!』が7月15日に公開された。
『キミに決めた!』は、1997年に放送開始したテレビアニメシリーズの物語を、新たにサトシとピカチュウの出会いから描きなおした完全オリジナルストーリーだ。
※本稿では、『劇場版ポケットモンスター キミに決めた!』の一部ネタバレを含みます
文:潮見惣右介 編集:ふじきりょうすけ
その崇高な姿を目撃したサトシとピカチュウは「絶対あいつに会いに行こうな!」と約束を交わす。その約束は、同時に多くのポケモンファンとも交わされた約束でもあり、『キミに決めた!』で20年の時を経て、ついに果たされる。
完全オリジナルストーリーでありながら、テレビシリーズと美しくつながった最新の物語は、20年で積み重ねてきたポケモンワールドが魅せるひとつの集大成であるとも言えるだろう。 筆者は1990年生まれ、テレビシリーズ放送開始時は6歳である。ゲームボーイでプレイしていた初代の「赤緑」シリーズ、第2世代「金銀」シリーズ以降は、ずいぶんとポケモンから遠ざかっていた。
とはいえ、子どもの頃ポケモンに熱中し、アニメシリーズを毎週欠かさず観ていた。筆者のような世代にとっては、涙が出るほど懐かしい細やかなネタや人物が、劇中の随所に散りばめられている。 例えば、悪いトレーナーに棄てられたヒトカゲ、サトシに別れを告げるバタフリー。何を見ても何かを思い出すほど、ポケモンと自分自身がどこかでリンクしている。
だが、タケシやカスミなど馴染みの顔は登場せず、マコト、ソウジといった新しい仲間と旅をともにしていく。 新たなキャラクターに、旧来のファンから反発がないわけではない。往年のファンである人ほど、タケシとカスミが登場しない物語を観ることに抵抗を覚えたことだろう。
しかし、映画を観ればわかるように、「リファイン」された物語は、決してタケシとカスミの存在を蔑ろにしているわけではない。
マコトとソウジは、それぞれカスミとタケシのキャラクター性を引き継いでいる。マコトはカスミのように水タイプのポケモンを使用する活発な性格の女の子で、ソウジはタケシのようにポケモンに対する深い知識を持ち合わせた男の子だ。【公式】劇場版ポケットモンスター キミにきめた!予告
もし劇場版としてタケシとカスミを登場させるとなると、おそらくアニメシリーズとは異なる出会い方、異なる人物設定になってしまうだろう。だが、それはもうタケシではないし、カスミではない。
サトシたちの冒険を上書きするのではなく、あくまで「リファイン」であるからこそ、「ふたりのキャラクター性を引き継ぎながら、新たなキャラクターとして登場させる」という方法がもっともスマートな答えであり、映画はそれを成功させている。
当時の自分にとってポケモンとはなんだったのか。そして今の自分にとってポケモンとはなんなのか。
ゲームやアニメ、ポケモンパンのシールだってそうだ。僕たちにとっては、ポケモンを通じて友達とコミュニケーションをとることが当たり前だった。 ポケモンを通じたコミュニケーション。それはサトシが何度も嬉しそうに叫ぶ「バトルしようぜ!」に相当するものだろう。
しかし、少年/少女ではなくなり、ポケモンから遠く離れてしまっていた僕たちが、それでもポケモンに夢を見ることができるのはなぜだろうか。
「エンテイにやられたんだ」という発言に、サトシをはじめとする多くのトレーナーたちは「伝説のポケモンがまだ近くにいるかもしれない、ゲットしよう」と次々とポケモンセンターから飛び出ししていく。 そのシーンはさながら、2016年の夏に大きなブームを巻き起こした「Pokémon GO」(ポケモンGO)をプレイする私たちの姿そのものだった。
つまり、ポケモンワールドと現実世界とがまったく同じ光景を見せていた。
スマートフォンを片手に街や公園を歩き回っていた現実世界の私たちと、スクリーンの中のトレーナーたちに違いはない。同じ興奮で目を輝かせ、同じ熱意で走りまわる。
ちょうど先日、「ポケモンGO」に伝説のポケモンが出現し始め、ホウオウやエンテイと同じく「レア中のレア」であるところのルギアやフリーザーといったポケモンを、現実世界のポケモントレーナーたちが追いかけている。Pokémon GO 伝説のポケモンに挑め!
「ポケモンGO」は、これまでポケモンをプレイしていた世代だけでなく、これまでまったくポケモンのゲームなどに触れてこなかったような世代にもヒットしている。
野生のポケモンを探し求めて、そしてゲットする。それは、忘れかけていたポケモンの楽しさを呼び起こすのには充分だった。
エンテイとのバトルは、まさにそういったポケモンの最も根源的な魅力が詰まったシーンだったと言えるだろう。
ポケモンワールドでは10歳になるとポケモンとともに旅に出る資格を得るわけだが、現実世界でそうはいかない。毎日学校に行かなくてはならないし、宿題もしなければいけない。
何日も何ヶ月も家に帰らないなんてきっと親が許さないだろう。大人になれば仕事があるし、そもそもポケモンは現実に存在しない。
だからサトシのように旅に出ることはできない。それは子どもだった筆者にはちょっとした絶望だとすら思えた。
そういった現実世界に限りなく近い世界が、劇中でサトシの見た夢として現れる。
バトルでの負けを素直に認められないサトシは、マコトやソウジに悪態をつき、心ない言葉でピカチュウを傷つけてしまう。人間的な弱さを露呈し、ピカチュウとの信頼関係にヒビを入れてしまったサトシは、夢の中で「ポケモンの存在しないif世界」を疑似体験する。 その夢は、サトシの影に潜んでいた幻のポケモン・マーシャドーがサトシに見せたものだ。マーシャドーは「影より導く者」という異名を持ち、ホウオウが出現するテンセイ山にサトシを導きながら、同時にホウオウに会う者としてふさわしいかどうかを監視する。
ホウオウに選ばれた「虹の勇者」でありながら、ポケモンに対して思いやりに欠けた態度をとったサトシに、マーシャドーは試練を与える。
それが、ポケモンという色を失った世界、「ポケモンのいないifの世界」の夢だ。
それは私たちの現実世界にとても似ている。
「ポケモンのいないifの世界」では、サトシは冒険に出ずに小学校に通い、授業を受け、宿題をする。ピカチュウはいないし、ましてやピカチュウの存在すら知らない。 それでもサトシは、小学校の屋上から街を眺めながら、クラスメイトとして現れたマコトとソウジとともに、旅に出たいという冒険の夢を語る。
映画全編を通して投げかけられてくる「あなたにとってポケモンってなに?」という問いが、夢の中のサトシと映画をみる観客たちを重ね合わせようとするのだ。
頭の片隅にうっすらと残っている黄色い影の名前(ピカチュウの存在)を必死に思い出そうとするサトシの姿が、筆者にはポケモンの存在を半ば忘れかけていた自分自身の姿のようでもあり、「ポケモンは現実に存在しないんだ」と絶望していた子どもの頃の自分の姿のようにも思えた。
しかし、サトシはピカチュウとの記憶を取り戻し、その大切さを再確認する。 同じことが現実世界でもできる。
たとえ長いあいだポケモンから遠ざかっていても、何年も頭で思い浮かべることすらなかったポケモンでさえ、姿を見かければすぐに名前が出てくるように。
生き物としてのポケモンが存在しなくても、現実世界にはポケモンカルチャーがたくさん存在する。現実世界は「ポケモンのいないifの世界」ではないのだ。
そのため、テレビシリーズ第1話の放送当時は、誰もそのポケモンの正体を知る者はいなかった。
「あのポケモンはなんなのか?」という問題は、当時のポケモン好きの子どもたちにとっては大きな謎のひとつであり、筆者が当時通っていた小学校のクラスでは「あれはオニドリルである」という説がもっとも有力だった。
「データなし。この世界にはまだ知られざるポケモンがいる」
アニメシリーズでは、ホウオウを目撃した際にサトシが持っているポケモン図鑑がそう説明をした。当時のポケモンの数は、伝説のポケモン・ミュウを入れて151匹。その中にホウオウは含まれていない。
つまり、冒険に出たばかりのサトシにとって、そしてポケモンファンにとって、ホウオウの姿は「未知なる世界への冒険」の象徴だった。 世界はまだまだ広く、知らないことばかりで、それが見たくてサトシたちは旅を続ける。
旅立ちの日から何度も、サトシは「世界一のポケモンマスターになる!」と高らかに叫び宣言する。彼はまだ「世界」の広さを知らない。
また、「ポケモンマスター」という究極な存在が、具体的にどういったものを指すのかも説明できていない。
劇中でも、ソウジが「ポケモン博士」になるという具体的な夢を掲げ、それに向かって努力を重ねているのに対して、「世界一のポケモンマスターになる」と夢を語る。
「世界一のトレーナーってこと?」とマコトに尋ねられても、サトシは「もっと上だよ、もっと上」と曖昧な言葉でしか表現できなかった。
サトシが「ポケモンマスター」という定義が曖昧な言葉でしか理想を表現しないのは、まだまだ「自分の知らない世界が広がっているはずだ」と直感的に理解しているからではないだろうか。 では、私たちはどうか。
あの黄金の鳥の正体がホウオウであることはもう知っているし、「普通に考えたらオニドリルなわけがないだろ」とわかるだけの洞察ができる。
だからといって「世界」の広さを知っていると言い切れるだろうか。
最初は151匹しか観測されていなかったポケモンが、今では800匹を超えている。
まだまだ世界には知らないことばかりであることを、ポケモントレーナーたちは知っているし、ポケモンワールドを通じて私たちも知っている。
旅立ちの日に出会ったホウオウの約束を果たすことで、ポケモンの世界がこれで終わるわけではないことを再確認する。
「未知なる世界への冒険」の象徴の正体がわかったとしても、世界の全貌がわかったわけではない。
サトシとピカチュウの冒険を「リファイン」した物語を通して見えてきたものは、未知が未知でなくなっても、新しい冒険が続いてゆく世界だ。
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(C)Pokémon ©2017 ピカチュウプロジェクト
(C)2017 Pokémon. ©1995-2017 Nintendo/Creatures Inc. /GAME FREAK inc.
『キミに決めた!』は、1997年に放送開始したテレビアニメシリーズの物語を、新たにサトシとピカチュウの出会いから描きなおした完全オリジナルストーリーだ。
※本稿では、『劇場版ポケットモンスター キミに決めた!』の一部ネタバレを含みます
文:潮見惣右介 編集:ふじきりょうすけ
サトシの冒険は上書きされない
テレビシリーズの第1話で、サトシとピカチュウの前に姿を現した伝説のポケモン・ホウオウ。その崇高な姿を目撃したサトシとピカチュウは「絶対あいつに会いに行こうな!」と約束を交わす。その約束は、同時に多くのポケモンファンとも交わされた約束でもあり、『キミに決めた!』で20年の時を経て、ついに果たされる。
完全オリジナルストーリーでありながら、テレビシリーズと美しくつながった最新の物語は、20年で積み重ねてきたポケモンワールドが魅せるひとつの集大成であるとも言えるだろう。 筆者は1990年生まれ、テレビシリーズ放送開始時は6歳である。ゲームボーイでプレイしていた初代の「赤緑」シリーズ、第2世代「金銀」シリーズ以降は、ずいぶんとポケモンから遠ざかっていた。
とはいえ、子どもの頃ポケモンに熱中し、アニメシリーズを毎週欠かさず観ていた。筆者のような世代にとっては、涙が出るほど懐かしい細やかなネタや人物が、劇中の随所に散りばめられている。 例えば、悪いトレーナーに棄てられたヒトカゲ、サトシに別れを告げるバタフリー。何を見ても何かを思い出すほど、ポケモンと自分自身がどこかでリンクしている。
だが、タケシやカスミなど馴染みの顔は登場せず、マコト、ソウジといった新しい仲間と旅をともにしていく。 新たなキャラクターに、旧来のファンから反発がないわけではない。往年のファンである人ほど、タケシとカスミが登場しない物語を観ることに抵抗を覚えたことだろう。
しかし、映画を観ればわかるように、「リファイン」された物語は、決してタケシとカスミの存在を蔑ろにしているわけではない。
マコトとソウジは、それぞれカスミとタケシのキャラクター性を引き継いでいる。マコトはカスミのように水タイプのポケモンを使用する活発な性格の女の子で、ソウジはタケシのようにポケモンに対する深い知識を持ち合わせた男の子だ。
サトシたちの冒険を上書きするのではなく、あくまで「リファイン」であるからこそ、「ふたりのキャラクター性を引き継ぎながら、新たなキャラクターとして登場させる」という方法がもっともスマートな答えであり、映画はそれを成功させている。
あなたにとって、ポケモンってなに?
この映画は、観客に向かって「あなたにとってポケモンってなに?」と問いかける。当時の自分にとってポケモンとはなんだったのか。そして今の自分にとってポケモンとはなんなのか。
ゲームやアニメ、ポケモンパンのシールだってそうだ。僕たちにとっては、ポケモンを通じて友達とコミュニケーションをとることが当たり前だった。 ポケモンを通じたコミュニケーション。それはサトシが何度も嬉しそうに叫ぶ「バトルしようぜ!」に相当するものだろう。
しかし、少年/少女ではなくなり、ポケモンから遠く離れてしまっていた僕たちが、それでもポケモンに夢を見ることができるのはなぜだろうか。
エンテイの出現とポケモンGO
映画の序盤シーンで、サトシが立ち寄ったポケモンセンターに傷だらけのシャワーズを抱えたトレーナーが血相を変えて駆け込んでくる。「エンテイにやられたんだ」という発言に、サトシをはじめとする多くのトレーナーたちは「伝説のポケモンがまだ近くにいるかもしれない、ゲットしよう」と次々とポケモンセンターから飛び出ししていく。 そのシーンはさながら、2016年の夏に大きなブームを巻き起こした「Pokémon GO」(ポケモンGO)をプレイする私たちの姿そのものだった。
つまり、ポケモンワールドと現実世界とがまったく同じ光景を見せていた。
スマートフォンを片手に街や公園を歩き回っていた現実世界の私たちと、スクリーンの中のトレーナーたちに違いはない。同じ興奮で目を輝かせ、同じ熱意で走りまわる。
ちょうど先日、「ポケモンGO」に伝説のポケモンが出現し始め、ホウオウやエンテイと同じく「レア中のレア」であるところのルギアやフリーザーといったポケモンを、現実世界のポケモントレーナーたちが追いかけている。
野生のポケモンを探し求めて、そしてゲットする。それは、忘れかけていたポケモンの楽しさを呼び起こすのには充分だった。
エンテイとのバトルは、まさにそういったポケモンの最も根源的な魅力が詰まったシーンだったと言えるだろう。
ポケモンのいないifの世界と現実世界
当然ではあるが、現実世界にポケモンは存在しない。ポケモンワールドでは10歳になるとポケモンとともに旅に出る資格を得るわけだが、現実世界でそうはいかない。毎日学校に行かなくてはならないし、宿題もしなければいけない。
何日も何ヶ月も家に帰らないなんてきっと親が許さないだろう。大人になれば仕事があるし、そもそもポケモンは現実に存在しない。
だからサトシのように旅に出ることはできない。それは子どもだった筆者にはちょっとした絶望だとすら思えた。
そういった現実世界に限りなく近い世界が、劇中でサトシの見た夢として現れる。
バトルでの負けを素直に認められないサトシは、マコトやソウジに悪態をつき、心ない言葉でピカチュウを傷つけてしまう。人間的な弱さを露呈し、ピカチュウとの信頼関係にヒビを入れてしまったサトシは、夢の中で「ポケモンの存在しないif世界」を疑似体験する。 その夢は、サトシの影に潜んでいた幻のポケモン・マーシャドーがサトシに見せたものだ。マーシャドーは「影より導く者」という異名を持ち、ホウオウが出現するテンセイ山にサトシを導きながら、同時にホウオウに会う者としてふさわしいかどうかを監視する。
ホウオウに選ばれた「虹の勇者」でありながら、ポケモンに対して思いやりに欠けた態度をとったサトシに、マーシャドーは試練を与える。
それが、ポケモンという色を失った世界、「ポケモンのいないifの世界」の夢だ。
それは私たちの現実世界にとても似ている。
「ポケモンのいないifの世界」では、サトシは冒険に出ずに小学校に通い、授業を受け、宿題をする。ピカチュウはいないし、ましてやピカチュウの存在すら知らない。 それでもサトシは、小学校の屋上から街を眺めながら、クラスメイトとして現れたマコトとソウジとともに、旅に出たいという冒険の夢を語る。
映画全編を通して投げかけられてくる「あなたにとってポケモンってなに?」という問いが、夢の中のサトシと映画をみる観客たちを重ね合わせようとするのだ。
頭の片隅にうっすらと残っている黄色い影の名前(ピカチュウの存在)を必死に思い出そうとするサトシの姿が、筆者にはポケモンの存在を半ば忘れかけていた自分自身の姿のようでもあり、「ポケモンは現実に存在しないんだ」と絶望していた子どもの頃の自分の姿のようにも思えた。
しかし、サトシはピカチュウとの記憶を取り戻し、その大切さを再確認する。 同じことが現実世界でもできる。
たとえ長いあいだポケモンから遠ざかっていても、何年も頭で思い浮かべることすらなかったポケモンでさえ、姿を見かければすぐに名前が出てくるように。
生き物としてのポケモンが存在しなくても、現実世界にはポケモンカルチャーがたくさん存在する。現実世界は「ポケモンのいないifの世界」ではないのだ。
ホウオウは未知なる世界への冒険の象徴
サトシが追い求める伝説のポケモン・ホウオウは、1999年に発売された金銀シリーズ(ポケモン第2世代)から登場した新ポケモンである。そのため、テレビシリーズ第1話の放送当時は、誰もそのポケモンの正体を知る者はいなかった。
「あのポケモンはなんなのか?」という問題は、当時のポケモン好きの子どもたちにとっては大きな謎のひとつであり、筆者が当時通っていた小学校のクラスでは「あれはオニドリルである」という説がもっとも有力だった。
「データなし。この世界にはまだ知られざるポケモンがいる」
アニメシリーズでは、ホウオウを目撃した際にサトシが持っているポケモン図鑑がそう説明をした。当時のポケモンの数は、伝説のポケモン・ミュウを入れて151匹。その中にホウオウは含まれていない。
つまり、冒険に出たばかりのサトシにとって、そしてポケモンファンにとって、ホウオウの姿は「未知なる世界への冒険」の象徴だった。 世界はまだまだ広く、知らないことばかりで、それが見たくてサトシたちは旅を続ける。
旅立ちの日から何度も、サトシは「世界一のポケモンマスターになる!」と高らかに叫び宣言する。彼はまだ「世界」の広さを知らない。
また、「ポケモンマスター」という究極な存在が、具体的にどういったものを指すのかも説明できていない。
劇中でも、ソウジが「ポケモン博士」になるという具体的な夢を掲げ、それに向かって努力を重ねているのに対して、「世界一のポケモンマスターになる」と夢を語る。
「世界一のトレーナーってこと?」とマコトに尋ねられても、サトシは「もっと上だよ、もっと上」と曖昧な言葉でしか表現できなかった。
サトシが「ポケモンマスター」という定義が曖昧な言葉でしか理想を表現しないのは、まだまだ「自分の知らない世界が広がっているはずだ」と直感的に理解しているからではないだろうか。 では、私たちはどうか。
あの黄金の鳥の正体がホウオウであることはもう知っているし、「普通に考えたらオニドリルなわけがないだろ」とわかるだけの洞察ができる。
だからといって「世界」の広さを知っていると言い切れるだろうか。
最初は151匹しか観測されていなかったポケモンが、今では800匹を超えている。
まだまだ世界には知らないことばかりであることを、ポケモントレーナーたちは知っているし、ポケモンワールドを通じて私たちも知っている。
旅立ちの日に出会ったホウオウの約束を果たすことで、ポケモンの世界がこれで終わるわけではないことを再確認する。
「未知なる世界への冒険」の象徴の正体がわかったとしても、世界の全貌がわかったわけではない。
サトシとピカチュウの冒険を「リファイン」した物語を通して見えてきたものは、未知が未知でなくなっても、新しい冒険が続いてゆく世界だ。
(C)Nintendo・Creatures・GAME FREAK・TV Tokyo・ShoPro・JR Kikaku
(C)Pokémon ©2017 ピカチュウプロジェクト
(C)2017 Pokémon. ©1995-2017 Nintendo/Creatures Inc. /GAME FREAK inc.
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