「いつか何かしでかすかもって思った」
そして、ここが、ヒゲドライバーことシンゴさんの実家。早速、出迎えてくださったお母さんにお話を聞きます。ヒゲ母
ヒゲドライバーことシンゴさんのお母さん。30代の息子がいるとは思えないほど、元気で若い方。元学校の先生。
「シンゴさんはどんな子どもだったんですか?」
「小さい頃から大人しくて優しい子なんじゃけど、おかしなところもあって。一番ビックリしたんが、高校の卒業式。教室でひとり一人挨拶する時、みーんな当たり障りのないこと言うのに、シンゴだけ『愛は地球を救う』みたいなことをきちゃない字で黒板にばーっと書いて、やっぱりこの子はいつか何かしでかすかもしれないって思いました」
「それ24時間テレビだよ! 確か、『地球上のみんなありがとう』って書いたんじゃなかったっけ。みんな同じよーなこと言うから退屈で、単にウケ狙いでやっただけ」
「お母さんは、息子さんが『ヒゲドライバー』として活躍されていることを存じですか?」
「もちろん! たまにCD送ってくれたりね、あと上の兄もCDを買ってくるんですよ。シンゴはいつの間にかおらんくなった気がして、声が聞きたくなったらCDをかけてます。孫にも、『ヘイ!ジャンプ』の時はこうやって腕を上げるんよって教えて」
「母さん、『ヘイ!ジャック』だよ・・・何回も言いよるけどいっつも間違える」
音楽は反対された
そして、お母さん、お兄さん一家、妹さん一家(撮影時、旦那さんは不在でした)も集合。ヒゲ兄
ヒゲドライバーことシンゴさんのお兄さん。2つ違いで、小・中・大学も一緒。学生時代に結成していたバンド「送りバント」で、ヒゲドライバーさんに作曲してもらったことも。現在も、会社の同僚と趣味でバンドをやっている
「僕はコピーだったけど、シンゴはずっと自分でオリジナル曲をつくってたんです。大学も同じところに入学してきたから、僕が当時組んでたバンドに、曲つくってよって頼んだこともあります」
「うちは音楽一家なんです。主人はフォークの全盛時代に有名なグループの前座でギターを弾いてたし、私はマンドリンをやってて。主人は経済的に音楽を続けることができんかったので辞めてしまいましたが。
お兄ちゃんからは『シンゴはなかなか才能あるよ』って聞いちょったけど、さすがにミュージシャンっていうのは最初は反対しました。わけわからんこと言って、一体何するんじゃろうって。親としては、やっぱり大学出て、定職についてほしかったんです」
「僕も、進路決める時、音楽関係の学校に行きたいっていうシンゴの考えに賛成してやれなかったんですよね。それが心残りちゃあ心残りですね」
「音楽の勉強してどうこうって世界じゃないよ。それに、九大に行ってよかった。大事な友達もたくさんできたし。むしろ聞きたかったんだけど、兄ちゃんも音楽やってて、プロを目指そうと思わなかったの?」
「思わなくはなかったけど、自分で曲つくれるわけじゃないし、そこまでの決心はつかなかったんよ。だから、家のことだけはシンゴが心配しないですむように、責任をもって母さんの近くにいようって思ってた。
もしかしたら、シンゴに自分の夢を託してる部分もあるのかもしれんね。シンゴが活躍してると自分のことのように嬉しいんよ」
「好きなことやらせてやれ」
「結局シンゴも、大学はお兄ちゃんと同じ九州大学を目指すことにしてくれたんです。高校ではドベから数えた方が早い成績だったのに、3年の夏に急に頭を丸坊主にしてきて『これなら外に出れないから勉強するしかない』って。色が白くて坊主だから、病人みたいな姿で言うんですよ(笑)。
シンゴは昔から、自分がこうって思ったことは絶対叶うっていう変な自信に満ちてるんです。その時も、塾もいかずにどういう勉強したか知らないけど、まさか本当に受かるとは思ってませんでしたから、合格した時はもう親子で抱きついて喜んだよね。後から思うとゾッとするけど(笑)」
「でも、卒業後、音楽の道に進むんですね」
「結局は音楽だったんですよね。工学部出てるのに。こそこそ隠れて続けるんじゃなくて、卒業する前に、病床の主人の前で『僕は音楽をやりたい』って言いに来て、主人は一言『好きなことやらせてやれ』って私に言いました」
「父さんはそもそも僕の曲聴いたこともなかったし、その時にはもう音楽を聴けるような状態ではなかったんだけど、あっさり認めてくれて、拍子抜けした」
「ほんとに何も言わんかったよね。だから私も、失敗したとしても最初から本人のやりたいことをやらせてあげるべきだったって思ったんですよね」
「私は子供っぽいけど、主人は本当に立派な人で。主人が倒れてから、やっぱり誰かにいろんなことを話したくて、シンゴによく話してたんですよ。お兄ちゃんも優しいから聞いてはくれるけど、私があまりに回りくどいと『母さん、前置きなしにそれだけ言えば済むんじゃない?』って言うんですよ。
でも、私は周辺のくだらなーいことも全部話したい。シンゴは、そのくだらなーいことも全部聞いてくれた。1時間でも2時間でも付き合ってくれた。・・・どうしても、息子のこと話すと自慢話ばっかりになってしまうから恥ずかしいですね(笑)」
息子は『ミュージシャンです』
「シンゴが大学を卒業してすぐ主人が亡くなって、シンゴはそのまま福岡で一人暮らししちょって。この子は何も言わんから後になってわかるんですけど、キャベツ1つで1週間過ごすとか、どん底生活してた。それでも音楽を続けるために一回実家に帰ってきて、しばらくは、呼ばれたら東京に行くという生活でした。
だから近所の人たちは気になっていたみたいで、後ろめたいことは何もないから、堂々と『息子はミュージシャンです』って説明してました。私はシンゴを送り出す時に、とにかく、ミュージシャンが行き詰まった時に危険ドラッグに溺れたりする話を聞いて、それで有名になるのだけは勘弁してねって言ったくらいです」
「東京に行く時にばあちゃんにも同じこと言われたけど、さすがにそんな心配いらないよ・・・(苦笑)」
「あとは、結婚できるかどうかだけが心配で。年をとって一人はね、寂しいですよ。まあ、男性の場合、福山雅治みたいに、50近くになっても結婚できるかもしれないし、あんまり重くは考えてませんけどね」
「それはまあ・・・いずれ・・・・・・」
アルバムのギャラは未払い
両親に許しをもらって音楽活動を続けたヒゲさんは、2006年から曲をネット上に投稿し続け地道に人気を得て、その後2008年・09年にCDアルバムを2枚立て続けにリリース。一見順調そうに見えます。しかし、ここから8年ほど、本当に苦しい時期が続いていたそうです。
「打ち込み音楽は大学時代から始めてたから、いくつかデモを送っていたんです。福岡のインディーズレーベルとか、某大手レーベルとかが興味を持ってくれて、実際に会って弾き語りをしてみせたりもしたんですが、別に形にならず。
卒業してからは、muzieとかマイスペにピコピコ曲を投稿し始めました。ランキングにも載るようになってきて、ピコピコじゃないけどWindowsの起動音を使った『Hello Windows』が話題になったり、『ukigumo』が動画きっかけで海外でバズったり。それで、ある会社から声がかかって、『ヒゲドライバー1UP』と『ヒゲドライバー2UP』を立て続けに発売しました」
「『1UP』はタワレコ限定発売で、僕も福岡のお店にも見に行きました」
「顔出してないしバレるわけないのにビクビクしつつ、自分のCDが棚に並んで、試聴機に入ってるのを見て感動しましたね。その時、確か男性か誰かが目の前で買ってくれたのも見た」
「結構売れ行きが良くて、会社に言われてすぐに『2UP』も出して、人気の曲を詰め込んで1枚目の倍以上売れて、手応えも感じてました。
けど、会社自体は他にもミュージシャンを抱えていて、それがほとんど赤字だったみたいで、会社は倒産。CDも廃盤になった上、ほとんど音信不通になって、アルバム2枚出したのに、実はお金はほとんど入ってきませんでした」
「めちゃくちゃな話ですね」
「みんな就職したり、九大の同級生は大学院に進む中、僕は音楽やるって決めて、パン工場でカレーパンを1日500個焼くバイトとかをしながら何とか食いつないでました。本気じゃないけど、アパートの屋上から飛び降りる妄想をしたのも一回とかじゃない。それでようやく出したCDがそんなことになって、すごい落ち込んで自暴自棄になっていました」
同情はお金にならない!
一番落ち込んでいた時期に、『シンゴ』ではなく『ヒゲドライバー』と接触していた数少ない人物に来てもらいました。STERAOさん
ヒゲドライバーさんの音楽にハマり、当時はドラムで「叩いてみた」動画などを投稿していた。現在は、ハンドメイドによるドット絵調のレザークラフト製品などを販売する「.C Leather Designs」を展開中
「やさぐれてた時期だったけど、たまたまcubesatoさんという人の曲を聴いて、世の中にはこんな良い曲をつくる人がいるんだって衝撃を受けて。それをブログに書いたら、cubesatoさんも僕の曲を聴いて連絡をくれて、しかもたまたまcubesatoさんも福岡の人で、コラボしようってことで会いに行ったんです」
「僕はcubesatoさんと知り合いで、ヒゲさんのことを教えてもらって曲を聴いたらハマってしまった。福岡でのイベントに出てたのも見に行ったし、cubesatoさんと会うって時にも同席させてもらったんです。今日久しぶりにお会いしましたが、あの頃の方が老けてましたよね?」
「たまーに仕事もきてたけど全然生活できなくて、闇に堕ちかけてた時期でしたから・・・」
「もう音楽は辞めるって言ってて、僕らは仕事しながらでも続ければって応援したんですが、そういうのはしたくない、辞めるならキッパリ辞めるって聞かず。何を言っても『だってさあ』って否定してばっかでしたよね」
「そうは言ってくれるけど、その言葉が金になるわけじゃないしってその時は思ってました」
「ようやく俺の知ってるヒゲドライバーが顔を出し始めた(笑)」
「しかし、これからコラボしましょうって人に音楽辞めるって言うのもすごいですね」
「ちゃんとコラボはするんですよ。cubesatoさんと『キュート・ポップ』をつくって、一人でただピコピコやるだけじゃない、新しい可能性も感じ始めたんです」
「そこでも、cubesatoさんとデモを送ったりしましたけど、どこにも引っかからず。音楽もプログラムも全部自分でやった『YAS』っていう自作ゲームも無料でリリースしたりもしたんだけど、特に話題にもならず。
それで、もうちゃんと区切りをつけたいって思って、東京で1年やってみて、ダメなら本当に諦めようって決めて上京するんです。福岡・山口時代にも、村田さんが企画したCDに参加させてもらったり、会って話したりして、背中を押してもらった部分もありました」
「あの時期、ブログが鬱すぎて、読んでて本当にヤバいなって時は電話で生存確認するようにしてた」
「さすがに自殺するタイプじゃないですけどね(笑)」
「俺も今ならわかるよ、ヒゲさんが神経図太い野郎だってことは!」
ggnbsky
学生時代からファンだったヒゲさんのナイスなキャラクターと想い、村田さんの熱い想い、熱いものとが心に響きました。自分のこれからに勇気と希望をもらいました。ありがとうございます。
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