今回は、『全裸監督』で描かれている80年代のディテールに焦点を当て、当時の日本の空気感や魅力について紐解く。書き手は、1973年に生まれ、『1995年』や『フード左翼とフード右翼食で分断される日本人』、『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』など著書多数、食や政治、都市など幅広い分野で執筆活動を行うライターの速水健朗氏。バブル期に沸いた1980年代の日本において、監督作『SMぽいの好き』により、AV業界で型破りなヒットを飛ばした男・村西とおる。そんな彼の半生を虚実織り交ぜて描かれたドラマ『全裸監督』がNetflixで配信されている。AVの黎明期を描く本作は、その過激な描写などから大きな話題を呼んだが、一方で当時の日本社会をユニークな角度から切り取り、忠実に再現している点も見逃せない。
『全裸監督』の舞台は、1980年代である。
ドラマのみどころのひとつに、いかに80年代が再現されているかがある。
重箱の角をつつこうという話ではない。『全裸監督』は”エロで世界を変える”という主人公・村西とおるのエロ革命を描いている。当時は、エロに限らず、メディア・エンタメというくくりで見ても、大きな変化の波が襲っていた時代。
それを描く以上、ビフォーアフターの再現度は作品の命となる。ここでは、『全裸監督』というドラマをベースに、80年代がどんな時代だったのかを現代との比較で振り返ってみたい。
文:速水健朗 編集:園田もなか
『全裸監督』冒頭、サラリーマンとチンピラがたむろするゲーセン
第1話の冒頭、営業マン時代の村西とおるが喫茶店でさぼってテーブル型の『スペースインベーダー』をしている。インベーダーに夢中になった人たちは、今の僕(40代なかば)の世代よりも10歳くらいは上になる。だが、デジタルを使ったエンターテイメントが、初めて世に出てきたことへの興奮と考えれば、今の若い世代にとってもピンとくるかもしれない。ドラマは、インベーダーブームから2年を経た1980年から始まる。
インベーダーブームを経て、ようやくゲームセンターの黎明期である。街にはインベーダーハウスと呼ばれる、専門店(のちのゲーセン)が増えている。同時に、喫茶店のテーブルとしても平置き型インベーダー筐体が侵食している。ドラマで村西とおる役の山田孝之がいるのは、後者、喫茶店である。
後ろでは、チンピラたちが騒いでいる。ゲームをする場所なのに、いるのはサラリーマンとチンピラ。おたくはいない。これが80年代初頭のゲーム場の実際の風景だった。テーブルに置かれたたくさんの両替済みの100円玉も当時ならではの光景。 インベーダーによる100円玉不足というまさかの事態が社会問題になった。もう少し先に本格的なキャッシュレス時代が到来したら、この当時の100円の山は、過去資料として教科書に載るかもしれない。
さて、村西がプレイしていたインベーダーは、明らかに偽物。実際、当時流通していた多くはパチもんのインベーダーだった。
村西は営業マン時代に、こうしたインベーダーの販売にも手を染めていたというドラマでは描かれない史実が、この場面でさらっと扱われているのだ。当時のパクリメーカーの中からは、当時弱小だったのちのゲーム会社の超大手も含まれているのだが、ここでは触れずにおこう。 エンタメの技術発達という視点では、第一話のスナックに登場するカラオケについても触れておきたい。
パンチパーマの満島真之介と山田孝之が出会う場面の背後にロス・インディオスとシルヴィアのムード歌謡『別れても好きな人』を歌う客と女性の姿が映っている。 彼らの前には画面がないことに違和感を覚えないだろうか。当時のカラオケは、映像付きではなかったのだ。パイオニアが映像付きのシステムを発売するのは、1982年のこと。客が分厚い本を見ながら歌っているが、つまりは歌詞本である。
曲名リストである歌本ですら懐かしいが、当時は歌詞がまるごと一冊の本だったのだ。細かいが、マイクもワイヤー付き。80年代初頭は、歌番組でもまだワイヤー付きのマイクが使われていた。ワイヤレスマイクの普及前夜。
「レンタルビデオ」の登場
少しゲームに話を戻すと、もっとあとの東京に出てからのエピソードにもゲームが登場する。3話目、東京に出てきた主人公がパチンコ屋帰りで女の家に転がり込む場面では、村西がテレビでゲームをしている。テレビ受像機がテレビを観る以外にも使えることを示唆した場面だ。 ゲームではない受像機を使った新しいエンターテイメントとは、つまりレンタルビデオである。レンタルビデオ黎明期については、使い勝手のいい資料はほぼ存在しない。記憶と周囲へのヒアリングをベースにすすめる。
かつて一人暮らしの部屋探しの基準として、銭湯と定食屋が近くにあるかどうかと言われていた。80年代の後半くらいからは、それがコンビニとレンタルビデオ屋に置き換わる。
80年代半ばに登場し、主には一人暮らしのライフスタイルに大きな影響を与えた革命的サービスがレンタルビデオである。
いまでも存在する郊外型のレンタルビデオチェーン店が日本中に広がるのは、87年より後のこと。ここで触れるべきは、それ以前の風景だ。
80年代なかばのレンタルビデオ屋は、もっと町中のものだった。その歴史の黎明時代は、町の電気屋が店の片隅にソフトのレンタルコーナーを置いていたケースもあった。
ビデオデッキを売るために、ソフトも売りたい。だがビデオカセットは、映画配給元が出し惜しんだせいもあり、価格が高かった。そこでレンタルというビジネスが生まれるのである。
当時のレンタル料金は高かった。僕が中学生の頃に初めて入会したレンタルビデオ店の料金は、1泊2日で700円。1986年頃の既往だ。それでも、安くなったから手を伸ばした。さらにあの時代は、1泊2日が貸出期間の基本単位だった。
その日に見て次の日に返さなければ、延滞料が300円(店によって違う)という返却圧力に責め立てられた。ハンバーガーとコーラとポテトフライが390円(サンキューセット)で食べられた時代の中学生が、この額を支払う苦痛を想像してほしい。
もっと基本的な部分に触れると、レンタルビデオ店の棚に並んでいたのは、大きくて分厚いカセットテープだった。そして、まだVHSとベータマックスの規格が共存し、勝敗の決着が付いていなかった時代である。
棚にはVHS版とベータマックス版が隣り合わせででこぼこに置かれていた。背が高いのがVHSで低いのがベータマックス。それが次第に、ベータマックスだけが店の隅のワンコーナーに追いやられていく。
ビデオカセットの規格戦争における、VHS陣営の勝利は、レンタルビデオ屋の棚の陣取り合戦で徐々に視覚化されていったのだ。
ちなみに、VHS陣営勝利の裏側史には、『洗濯屋のケンちゃん』というキラーコンテンツの逸話もあるが、40代半ば以上の世代であれば誰もが知る”昔話”なので、直接聞いみてほしい。僕が語ると話が長くなる。 さて、『全裸監督』では、ピエール瀧が店長を演じる歌舞伎町のレンタルビデオ屋が度々描かれる。
物語の進行とともに店長の着る服が派手になり、吸うタバコが高級なものになるという細部が描かれる。大物感を増してくるピエール瀧の演技も見どころである。店の変化は、レンタルビデオが急成長したビジネス分野であったことを描いている。
レンタル店の場面のBGMに黒木香が当時リリースしたシングル『時からの誕生』が使われているのも見逃せない。リアルタイム世代でもこの歌のことは憶えている人は少ないだろう。レアでカルトな曲ゆえ、Spotifyにある全裸監督のプレイリストにも入っていない。
歌詞もメロディーも単純ではない。歌も普通の歌唱ではない。思いっきりニューウェーブ風テクノ歌謡。だがドラマのBGMは、全体にニューウェーブ、ハイエナジー、ユーロビートといったものが多く使われているため、『時からの誕生』がはさまることに、まったく違和感がない。 『全裸監督』キービジュアルの作品ロゴには、アナログ風のエフェクト処理がされている。テレビの走査線の乱れや、RGBの色ズレなどが駆使されている。アナログ時代のVHSカセットは、劣化に伴うノイズが発生したのだ。何度もレンタルされる人気作品ほど、このノイズが多かった。
オープニングタイトルは、VHS風ノイズやモザイクのチープさがうまく演出されている。単なる劣化だし、そこになんらかの情緒的なものを感じる日が来るとは、自分がレンタルビデオのユーザーだった時代には、想像すらしなかった。かつてフィルムノイズ風のエフェクトが情緒的にミュージックビデオで多用されたように、VHSノイズは表現の手法になった。
『全裸監督』が照らした80年代の魅力
エロに関して現代と比較するなら、現代では、日本のAVは、アイデアに満ち、多様な表現を試みたコンテンツとして有名だが、80年代が始まった時点の日本は、ポルノ後進国だった。性描写規制の厳しさ、警察の取り締まりなど、ポルノ揺籃期ゆえの試行錯誤の様子は、『全裸監督』のドラマにも描かれているとおり。 もちろん、それ以前の時代にポルノがなかったわけではない。1970年代は、ピンク映画や日活ロマンポルノの時代。
それらと、80年代のAVは何が違ったのか。
ライターの藤木TDCは、「直接的かつ執拗に前戯行為や射精へ映像でアプローチすること」だったと指摘する(『ニッポンAV最先端 欲望が生むクールジャパン』)。例えば村西が流行らせたとされる「顔面シャワー」などの打ち出しは、それ以前はない表現だった。
強い規制が働き、警察による摘発も厳しかったゆえに日本のAVは、海外のポルノとは違った表現の工夫に向かったのだ。
80年代は、”ニュー”が接頭につくメディアおよびエンタメがたくさん生まれてきた時代である。ゲーム、映画、ビデオ、音楽、アダルトビデオ。新しいメディアの企画が生まれ、表現が生まれた。
どれも実際には粗削りで未成熟でローファイ、デジタル時代の始まりと呼ぶにしては、まだまだアナログな時代でもあった。
しかし、何かが始まる時代の予感や旧弊の社会を突破する若いエネルギーは、80年代という時代に溢れ出ようとしてた。『全裸監督』は、まさに新しいメディアが生まれていく様を描きながら、この時代を見事に再現している。
エロという大衆の欲望を満たすために、新しいメディアの勢力と古い勢力(具体的にはヤクザとか)が互いを利用し、利用される。丁々発止の馬鹿し合いの最前線に経つのが、主人公の村西とおるだ。
バカ丁寧な口調にせよ、ブリーフ一丁の格好といい、誰もがすぐに共感できるキャラクターとは程遠い。
だがそんな村西とおるを、80年代という、エネルギッシュで未成熟な時代のシンボルに据えることでちょうどいい悪趣味感=キッチュとして消化させている。それが『全裸監督』の魅力である。
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