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AV監督タートル今田 引退インタビュー前編 ドキュメンタリーに魅入られた男がAVに見つけたリアル
2014年の冬、10時間に及ぶアダルトビデオ作品を編集した『劇場版テレクラキャノンボール2013』が大きな話題を呼んだ。Twitterと口コミで着実に動員を増やすと、全国のミニシアターでも上映され、地上波テレビでパロディ企画が放送されるまでになった。

本作品を手がけたAVメーカーのHMJM(ハマジム)はそれ以降、他のカルチャーとも積極的に交流を持つ。音楽面では、アイドルグループの解散ライブ前後に密着した『劇場版 BiSキャノンボール2014』をはじめ、東京のアンダーグラウンドで躍動する3組のアーティストを追った『モッシュピット』、バンドと共催した18禁フリーライブを作品化した『どついたるねんライブ』などの映像作品を生み出した。
人気AV女優だった上原亜衣の引退をモチーフとした平野勝之監督作『青春100キロ』、予告編から混迷を極めたビーバップみのる監督の怪作『劇場版 501』といった劇場用作品も制作。新宿ロフトプラスワンなどでのAV上映会イベントも頻繁に行い、既存メーカーにない動きを見せ続けている。KAI-YOUでもジャンルを越境する姿を度々取り上げてきた。

文=長谷川賢人 写真・編集=新見直

HMJMに衝撃が走った、2016年の夏。

HMJMオフィス

HMJMは監督自身が演出・撮影・出演をする「ハメ撮り」スタイルでの制作を主体としているメーカーだ。「つまらないAVは見たくない」を旗印に掲げ、女優のリアルな表情を描き出すことに力を注ぐ「ドキュメントAV」と呼ぶ作品群を送り出してきた。

ハメ撮りの第一人者であるカンパニー松尾が設立し、タートル今田、梁井一の所属監督を抱えてきた。また、90年代よりドキュメントAVを手がけてきた平野勝之やバクシーシ山下、さらには他社所属のビーバップみのる、嵐山みちるなどとも時に交流しながら、月産3〜4本の作品をリリースしている。

筆者は以前よりHMJMのファンを自認し、活発な彼らの動きを見ては「調子が良さそう」と思っていた。しかし、2016年8月8日、以下のツイートが投稿されると認識は一変する。 言い換えればリストラだ。辞めるのはタートル今田監督と、自社サイト「PGbyHMJM」の編集長を務め、『モッシュピット』を監督した岩淵弘樹さんだった。

前述のツイートをしたタートル今田さんはHMJMでデビューし、一時期は休養をはさみながら、監督生活10年になる。近年は人妻や熟女モノを手掛けることが多い。風間ゆみなどのベテラン女優から、春原未来や杏美月といった人気女優のAVドキュメントも撮影している。

1泊2日の不倫旅行とわかりながら心を開いて涙を流す女優の姿や、セックスの後でつながりあう “無言の会話” が成り立つ瞬間など、やさしい語り口とフラットな視線で相手を引き立たせる作品たちには、見る者の胸に迫るシーンも多い。女優のジャンルを含めてHMJMの柱として活躍している監督を切らねばならないほど、会社の懐事情は深刻なのだろう。

ツイートには引退を惜しむ声と共に、お気に入り作品へのコメントが多く寄せられていた。筆者も「AVを見ながら大泣きする」という稀有な体験を得た『春原未来のすべて』を胸に呆然とした そして、あらためて作品を見返しながら思った。HMJMだけでなく、AV業界に深刻な何かが起きているのではないか、と。

引退直前の8月26日金曜日、HMJMのオフィスでタートル今田さんにお話をうかがった。そのインタビューをもとに、前後編の記事をお届けする。前編では、映画学校を卒業した青年がハメ撮りを始めるまでを追いながら、タートル今田さんの視点とドキュメントAVの魅力を掘り下げる。後編では、AVが置かれている現状とその未来を考えていきたい。

いま、AVとカルチャーの交わりによって新たな揺らぎが生まれている、この時代の変換点を記録しておきたい。AVはこのままだと、なくなるかもしれないのだから

大学卒業後、トラック運転手から「憧れて」映画学校へ

タートル今田さんは1976年、東京都に生まれた。両親からの「テレビは1日1時間まで、映画なら2時間まで」の方針もあり、映画好きの幼なじみと画面に向き合って育った。

後に人生にも影響を与えるプロレスと幼少期に出合うも、「両親はプロレス嫌いだったから、おばあちゃんの家でこっそり見ていた」という。記憶に残るヒーローは「殺人魚雷コンビ」ことテリー・ゴディとスティーブ・ウィリアムス。成長するに連れてインディーズ団体にも目を配る中で「いつかプロレスのドキュメンタリーを撮りたい」と思いを募らせた。

大学を卒業するも、失恋の痛みから立ち直れずに就職はせず、トラック運転手や自動車工場で勤務。その頃に見たヴィム・ヴェンダース監督の映画『パリ、テキサス』に影響を受け、日本映画学校(現在の日本映画大学)へ入学。ドキュメンタリーに興味はなく、「ヴェンダースになりたい」とフィクションを専攻するつもりだった。

入学早々の「テープレコーダーとスチールだけの60分ドキュメンタリー」が必修課題で出され、講師に紹介してもらった縁でつながった森達也さんへの取材が、ドキュメンタリーに触れるきっかけになった。森達也さんが制作したオウム真理教を追う『A』や過去のテレビドキュメンタリー番組を一気に見た。

タートル今田(以下、今田) 「取材ではオウム真理教の立ち退き問題の現場にも同行したよ。テレビだと『住民と元オウム信者は各地で軋轢が起きてます』って言われているんだけど、森さんが見た限りでは意外に心の交流みたいのが起こったりしていると。マスコミも商売だから、軋轢があるほうが報道しやすいし、仲良くなってても喜ばないじゃないですか。

でも、俺も実際にオウムの人と話す機会があって目の当たりにしたし、見たことのない映像になっていった。それで完全に『ドキュメンタリーは面白いな』って。2年生からはドキュメンタリーのゼミに入って、原一男さんの『ゆきゆきて、神軍』とか、平野勝之さんのAVとかを見始めるようになったんですよ」

タートル今田さんはこの頃、早々にフィクションを諦めている。その理由は「大勢で一生懸命やるのに、想像できる範囲で想像以下のものしかつくれなかったから」。ドキュメンタリーならではの強い画と、撮った映像をつなぎ合わせて映画にするシンプルさにも惹かれた。

今田 「ただつなぐだけだと映画にならないけど、インタビューのひとつずつも組み合わせていって、本や雑誌をつくるような感覚なんだよね。構成ってそういうことじゃん。それがおもしれぇなって思って」

松江哲明との2年間、90年代AVの輝き、屍の上に立つ会社

ハンセン病元患者の療養所を取材した、卒業製作の監督作『熊笹の遺言』が評価をうけ、劇場公開や映画賞にも出品された。卒業後は原一男さんの下で制作に携わるが、思うように映像を撮れない日々が続いた。

そこへ手を差し伸べたのは、日本映画学校の先輩でもあり、『あんにょんキムチ』や『山田孝之の東京都北区赤羽』でも知られる映画監督の松江哲明さんだった。 今田 「松江さんは『熊笹の遺言』を褒めてくれてて、雑誌とかで紹介してくれた縁もあったから、よく遊んでいたんですよ。メイキング班の撮影で呼んでくれたり、編集の仕方を見せてもらったり。

飲み会のあとで松江さんの家に行って、こたつに入りながらAVを一緒に見たりもしたんですよね。映画学校を卒業した後の2年間くらいかな。松江さんはAVにしろテレビにしろドキュメントにしろ、全部同じ『映像』を分け隔てなく、面白いものは面白いと見る人で。ドキュメントの人としては松江さんも異質だったんだな」 2006年、松江哲明さんの紹介で、タートル今田さんは27歳でHMJMへ入社。この時は「一生AVを撮ろうなんて気持ちはなく、ちょっと勉強させてもらおう」とドキュメンタリーを撮りに行くかのような気持ちだったそう。

今田 「“90年代AV”ってのはすさまじくて、カルチャーとしてものすごく活発だった時期があるんですよ。平野勝之さんとかバク山さん(バクシーシ山下)のもすごかった。でも、レンタル中心だったところにセルビデオが出てきて、そのカルチャーが一気に下火になった。HMJMはその後に設立されたんだけど、まさに“90年代AV”の屍の上に成り立っているんだよね。俺はその屍こそ『いいな』と思って見ていたから、入社する時はどうなるんだろうって思ってた。

でも結局、HMJMに入っても、ドキュメントをずっとやっている。だから、俺は卒業制作からずっとドキュメンタリーを続けている意識があるんですよね。なかなかそれは世間には伝わらないけど」

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