6月1日より公開されているマーベルコミック原作の映画『デッドプール』。もう皆さんはご覧になりましたでしょうか?
今回は、この映画についていろいろと書かせていただくのですが、多少のネタバレを含みますので未鑑賞の方は若干ご注意くださいませ。また、完全なる自腹で観ておりますので、言いたいことは忌憚なく書かせていただきます。
ただ、今「ネタバレ」と言いましたが、本作ではそこまでカリカリすることはないのかもしれません。ネット上でも、そこかしこでネタバレがなされていますが、むしろ公式でも公開前に壮大なネタバレが行われています。
文:加藤広大デッドプール 日本版本予告(90秒)
話の筋を時系列を整えて少々書きますと、ある日、街で厄介事を片付けて日銭を得ている、ライアン・レイノルズ演じるウェイド・ウィルソン(=デッドプール)は、ならず者たちが集まるバー「シスター・マーガレット」で娼婦として生計を立てていたヒロインのヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)と出会い、やりまくり……もとい交際しはじめます。
しかし、幸せな生活は長くは続きませんでした。迎えたクリスマスの夜、ウェイドは突如倒れてしまい病院に運ばれます。宣告された病名は「末期ガン」。もう長くはないと言われてしまいます。
そんなある日、「私たちなら君の病気を治せる」と怪しい黒服の男が話しを持ちかけてきます。一度は断るウェイドですが、いろいろと考えた結果、決断し男の元を訪ねます。ここが運命の別れ道でした。 ガンの治療と引き換えに、ウェイドは人体実験の被験者にされてしまいます。そこで、研究所の所長であるエド・スクライン演じるエイジャックスに、ミュータント細胞を活性化させる薬剤を投与されて、激しい拷問にかけられてしまいます。
度重なる責め苦の中で、ついにウェイドはミュータント細胞が活性化し、ガンを克服することに成功。しかし、その代償として(ほぼ)不死身の身体と、梅干しの種を数時間煮込んで目黒通りにしばらく放置したかのような、誰もが目を背けてしまうような醜い顔と肉体になってしまいました。
悪の組織の本当の目的を知ったウェイドは、研究所に火を放ち逃げ出すのですが、その変わり果てた顔面ゆえ、愛しの恋人には話しかけられず、行くあてもありません。そんな彼が選んだのはホラー映画への出演……ではなく、自分をこんな姿にしたエイジャックスに復讐し、元の顔に戻させることでした。
かくしてここに怒りと殺戮と喋りの鬼『デッドプール』が爆誕。復讐劇の幕が開きます。
という具合に、復讐に奔走する現在時間での物語と、ウェイドが『デッドプール』となって復讐を遂げるまでの過去の物語が交互に描かれ、ラストに向かって収束していく形になっています。
事実、私はそこまでスーパーヒーロー物に明るいわけではないのですが、たっぷりと楽しめました。楽屋オチもたくさんありますが、解説は本作と同じくらい素晴らしいパンフレットに詳述されていますので、鑑賞後に補完可能です。
ふと思ったのですが、もしかしたらこの「小ネタを随所に挿入する要素」が少々押し出されて宣伝されていたり、各所で言及されているお陰で「いろいろ知っていないとつまらないのかな、わからないのかな」と食指が動かない人も多いのではないでしょうか? それでしたら心配はいりません。劇中、「知っている人だけにわかればいいや」と、制作側のエゴを感じるような箇所はほとんどありませんでしたし、むしろネタ元がわからなくとも、「これは何かしらのネタなのだな」とすぐにわかる仕掛けが施されています。
ですので、鑑賞後に他のシリーズを観てみたり、パンフレットを読んだり、もう一度映画を観直すなどしてみると、「なるほど、あの台詞にはあんな意味があったのだな」と、より味わい深く楽しめることでしょう。もちろん、メタ的なネタ、スーパーヒーロー物への皮肉やネタ以外にも、音楽、映画ネタなどがふんだんに散りばめられていまして、「そう来るのか(笑)」と大いに楽しめました。
かなりざっくりとした総評としては、少々中だるみを感じる、スローモーション多すぎかも、せっかくだからヴァネッサのエロシーンをもっと……などなど、細かい点はいくつか気になりましたが、正直とても面白い映画でした。
ウェイドは改造手術を受け、醜い顔になってしまった後、盲目でレイ・チャールズのようなサングラスをかけた女性・アルと同居します。
同居相手が盲目であればデッドプールの正体や、醜い顔がバレないので都合が良いからと受けとるのは簡単ですが、これはそのままウェイドが醜い姿になってしまったことへの辛さ、「見られたくない」という悲しみに直結することであるともとれます。
彼がフードをかぶるのも、顔が変わってしまってからですよね。アルとウェイドが寄り添って、アルの肩にもたれかかるシーンがありますが、心なしかウェイドも安堵しているように見えます。これはアルは見た目で人を判断できない、見た目以外の心の部分で人を判断してくれるからであるとも考えられます。
人は見た目でいろんなものを判断します。自分とは違ったり、異型のものには露骨な嫌悪感を示したりします。これは端的に差別だと言ってもよいでしょう。私にも経験があります。
その感情を抱いた瞬間、人は「見る」ことをやめてしまうんですよね。もっと見れば、いいところがあるかも知れない、素敵なことがあるかもしれない、キュートな面が発見できるかもしれないのにです。
たとえば、極悪非道の限りを尽くしたエイジャックスですが、劇中で何度も「俺の名前を言え」みたいな台詞を吐くシーンがあります。これはもしかしたら、痛みも感情もなくなってしまった彼が、自分を認識するための唯一の方法だったのかもしれません。 だから、クリーニング屋にわざわざ本名の「フランシス」と書いて洗濯物を出すのです。そう考えると、彼もまた何かの被害者だったり、差別をされる側の人間だったのかもしれず、どことなく憎めなくなってしまいます。
アルはウェイドに「愛は盲目よ」と言います。超意訳になりますが「内面をよく見て、その人の本当に素晴らしいところを見つけよう」的な文言は、ウンコの絵文字くらいクサいものですし、いささか使い古されたクリシェでもありますが、その実誰でも「素晴らしい」と思っていることです。
でも、意外と当たり前すぎて、口にだすのも恥ずかしくて、ついつい頭の片隅に追いやってしまいがちですよね。劇中のウェイドも、本当の気持ちを言いたいときはいつもおちゃらけて濁していました。
そんな中で、アルもウィーゼルも、ヴァネッサも、ウェイドの冗談の奥に隠された本音をしっかりと受け取っていたように思えます。これは彼ら、彼女らがしっかりとウェイドの内面を「見て」いたからに他ならないのではないでしょうか。
先ほど「レイ・チャールズのようなサングラスをかけた」と書きましたが、アルが登場しているシーンでは、レイ・チャールズの名曲「Hit The Road Jack」が流れます。
これまたちょっと意訳ですが、「そんなに酷い扱いをしないでくれよ」と歌われるこの曲、どんな時でも「ユーモア」を欠かさずに冗談を連射するウェイドの本音を代わりに歌で語らせているようにも聞こえます。Hit the road Jack!
もっと言ってしまえば、ウェイドは第四の壁を越える(自分がキャラクターだと認識している)能力を持っているので、この曲をウェイド自身も認識しているということになります。むしろ、彼自身がこの曲をセレクトして劇中で流させたと考えることだってできるでしょう。
いつも楽しそうで、冗談を言って他人を笑わせて、悩みなんてまったく無さそうな、ユーモアたっぷりな人、誰しも1人くらいは心当たりの人物がいるのではないでしょうか? しかし、悩みや悲しみがまったくない人なんてこの世にいません。
では、なぜそのような人はどんな状況でもユーモアを忘れないのか? それはユーモアが悲しみや悩みを、少しだけ紛らわせてくれたり、洗い流してくれると知っているからなのです。そして、泣き続けて、悲観し続けて、世の中を恨み続けた先に何が待っているのかも、よくわかっているのです。
昨年、リドリー・スコット監督/マット・デイモン主演の『オデッセイ』という映画が公開されましたが、主人公は火星に置き去りにされて絶望的な状況の中でも、「船長が残していったテープの選曲が最悪だ!」などとボケ倒しながら、常にユーモアとジャガイモを持ち続けて、次々と起こる問題を解決していました。しかし、その「笑い」とは裏腹に、心の底では悲しい、寂しい、怖いと言った感情が隠れています。
古くはチャップリンの作品群でもそうですが、ユーモアやコメディの陰には、悲哀や哀愁、社会風刺などがこっそり隠れているんですね。
本作でも同様に、ウェイドは『デッドプール』になる以前から、常にユーモアによって自身の悲しみや孤独感、痛みを覆い隠しています。さすがに時折、表に現れることもありますが、知人とやり取りするようなシーンでは常に隠し続けています。
彼は自虐的に「俺はヒーローじゃないよ」「英雄にはなれなかった」と言いますが、何を仰ってるんですかウェイドさん。決してそんなことはありません。顔で笑って心で泣いて。悲しみや痛みを覆い隠して、周りの誰かや、それどころか第四の壁を越えて観客すらも笑わせる。スカッとさせる。これ、まさにヒーローじゃないですか。 ヒーローとは人智を越える力を用いて救世主的な行為をおこなう人物のことを言いますが、同時に社会情勢や、国家が不安になった時に、模範的人物として求められる場合もあります。
デッドプールが各国でこれだけヒットしている背景には、もしかしたら人々が心のなかで、彼のような人物を求めていたということなのかも知れません。
それがタクシー料金を踏み倒したり、目的のためには手段を選ばず好き勝手に生きたりする人物像なのか、それともユーモアを用いて自身の悲しみや痛みを覆い隠し、洗い流してくれるような人物像を求めているものなのかはわかりませんが、答えは後者であることを切に祈ります。洒落やユーモアが存在せず、冗談を言ったら怒られる世の中なんてつまらないですからね。
さて、すっかり世間は梅雨時ですが、雨が続く憂鬱な毎日だって、ユーモアを持ちながら、角度を変えて世界を見てみれば素晴らしい日々に成り得ます。トタン屋根に落ちる雨の音は素敵な音楽ですし、音もなく降る小雨が撫でたアスファルトの色も綺麗です。じめじめしていて嫌な気分の時も、気分を塞がずにユーモアを持って暮らしていれば、自然と周りも笑顔になるものです。
あ、雨の日と言えば、映画館に行くのもいいですね。偶然にも現在、素晴らしいユーモアをたっぷり持って、梅雨の鬱屈とした気分を吹き飛ばしてくれる『デッドプール』という映画が上映中です。
私もさっそく、別の角度でもう1回映画を観てこようと思います。次はどんな景色が観れるのでしょうか。今から楽しみです。
いろいろ書きましたが、難しいことは考えずとも、笑って楽しめる愛すべきバカ映画です。ぜひご観覧を。おすすめです。最後はこの合言葉で締めましょう。ありがとうございました。「ワム!」
今回は、この映画についていろいろと書かせていただくのですが、多少のネタバレを含みますので未鑑賞の方は若干ご注意くださいませ。また、完全なる自腹で観ておりますので、言いたいことは忌憚なく書かせていただきます。
ただ、今「ネタバレ」と言いましたが、本作ではそこまでカリカリすることはないのかもしれません。ネット上でも、そこかしこでネタバレがなされていますが、むしろ公式でも公開前に壮大なネタバレが行われています。
この画像、予告編などで見る『デッドプール』のクレイジーなイメージとあまりにかけ離れておりまして、未見の場合困惑せずにはいられません。ですが、映画を観てみれば過不足無く、まさにこの説明、そして画像の通りのお話なのです。真実の愛は死なない―。このバレンタイン全米で一大旋風を巻き起こした、恋人との再会のために難病と闘う男を描き出す究極のラブストーリー「 #デッドプール 」が6月1日(水)ついに日本公開!ティッシュのご用意を pic.twitter.com/TReqxz3M3u
— 映画『デッドプール』 (@DeadpoolMovieJP) 2016年5月7日
文:加藤広大
コメディーだけじゃない壮絶な復讐劇『デッドプール』
しかし、幸せな生活は長くは続きませんでした。迎えたクリスマスの夜、ウェイドは突如倒れてしまい病院に運ばれます。宣告された病名は「末期ガン」。もう長くはないと言われてしまいます。
そんなある日、「私たちなら君の病気を治せる」と怪しい黒服の男が話しを持ちかけてきます。一度は断るウェイドですが、いろいろと考えた結果、決断し男の元を訪ねます。ここが運命の別れ道でした。 ガンの治療と引き換えに、ウェイドは人体実験の被験者にされてしまいます。そこで、研究所の所長であるエド・スクライン演じるエイジャックスに、ミュータント細胞を活性化させる薬剤を投与されて、激しい拷問にかけられてしまいます。
度重なる責め苦の中で、ついにウェイドはミュータント細胞が活性化し、ガンを克服することに成功。しかし、その代償として(ほぼ)不死身の身体と、梅干しの種を数時間煮込んで目黒通りにしばらく放置したかのような、誰もが目を背けてしまうような醜い顔と肉体になってしまいました。
悪の組織の本当の目的を知ったウェイドは、研究所に火を放ち逃げ出すのですが、その変わり果てた顔面ゆえ、愛しの恋人には話しかけられず、行くあてもありません。そんな彼が選んだのはホラー映画への出演……ではなく、自分をこんな姿にしたエイジャックスに復讐し、元の顔に戻させることでした。
かくしてここに怒りと殺戮と喋りの鬼『デッドプール』が爆誕。復讐劇の幕が開きます。
という具合に、復讐に奔走する現在時間での物語と、ウェイドが『デッドプール』となって復讐を遂げるまでの過去の物語が交互に描かれ、ラストに向かって収束していく形になっています。
パロディの予習は必須なの?
そんな、グロありエロあり笑いあり純愛あり、何かと話題ありありの『デッドプール』ですが、いわゆる「アメコミ」、そして原作のコミックに詳しくなくともしっかりと楽しめるつくりになっています。事実、私はそこまでスーパーヒーロー物に明るいわけではないのですが、たっぷりと楽しめました。楽屋オチもたくさんありますが、解説は本作と同じくらい素晴らしいパンフレットに詳述されていますので、鑑賞後に補完可能です。
ふと思ったのですが、もしかしたらこの「小ネタを随所に挿入する要素」が少々押し出されて宣伝されていたり、各所で言及されているお陰で「いろいろ知っていないとつまらないのかな、わからないのかな」と食指が動かない人も多いのではないでしょうか? それでしたら心配はいりません。劇中、「知っている人だけにわかればいいや」と、制作側のエゴを感じるような箇所はほとんどありませんでしたし、むしろネタ元がわからなくとも、「これは何かしらのネタなのだな」とすぐにわかる仕掛けが施されています。
ですので、鑑賞後に他のシリーズを観てみたり、パンフレットを読んだり、もう一度映画を観直すなどしてみると、「なるほど、あの台詞にはあんな意味があったのだな」と、より味わい深く楽しめることでしょう。もちろん、メタ的なネタ、スーパーヒーロー物への皮肉やネタ以外にも、音楽、映画ネタなどがふんだんに散りばめられていまして、「そう来るのか(笑)」と大いに楽しめました。
かなりざっくりとした総評としては、少々中だるみを感じる、スローモーション多すぎかも、せっかくだからヴァネッサのエロシーンをもっと……などなど、細かい点はいくつか気になりましたが、正直とても面白い映画でした。
『デッドプール』から見えてくるものとは?
個人的には「見えるもの、見えないもの、見なくてもいいもの、見たくなかったもの、見てほしくないもの」といった「見る」という行為に関して感慨深いものがありました。ウェイドは改造手術を受け、醜い顔になってしまった後、盲目でレイ・チャールズのようなサングラスをかけた女性・アルと同居します。
同居相手が盲目であればデッドプールの正体や、醜い顔がバレないので都合が良いからと受けとるのは簡単ですが、これはそのままウェイドが醜い姿になってしまったことへの辛さ、「見られたくない」という悲しみに直結することであるともとれます。
彼がフードをかぶるのも、顔が変わってしまってからですよね。アルとウェイドが寄り添って、アルの肩にもたれかかるシーンがありますが、心なしかウェイドも安堵しているように見えます。これはアルは見た目で人を判断できない、見た目以外の心の部分で人を判断してくれるからであるとも考えられます。
人は見た目でいろんなものを判断します。自分とは違ったり、異型のものには露骨な嫌悪感を示したりします。これは端的に差別だと言ってもよいでしょう。私にも経験があります。
その感情を抱いた瞬間、人は「見る」ことをやめてしまうんですよね。もっと見れば、いいところがあるかも知れない、素敵なことがあるかもしれない、キュートな面が発見できるかもしれないのにです。
たとえば、極悪非道の限りを尽くしたエイジャックスですが、劇中で何度も「俺の名前を言え」みたいな台詞を吐くシーンがあります。これはもしかしたら、痛みも感情もなくなってしまった彼が、自分を認識するための唯一の方法だったのかもしれません。 だから、クリーニング屋にわざわざ本名の「フランシス」と書いて洗濯物を出すのです。そう考えると、彼もまた何かの被害者だったり、差別をされる側の人間だったのかもしれず、どことなく憎めなくなってしまいます。
アルはウェイドに「愛は盲目よ」と言います。超意訳になりますが「内面をよく見て、その人の本当に素晴らしいところを見つけよう」的な文言は、ウンコの絵文字くらいクサいものですし、いささか使い古されたクリシェでもありますが、その実誰でも「素晴らしい」と思っていることです。
でも、意外と当たり前すぎて、口にだすのも恥ずかしくて、ついつい頭の片隅に追いやってしまいがちですよね。劇中のウェイドも、本当の気持ちを言いたいときはいつもおちゃらけて濁していました。
そんな中で、アルもウィーゼルも、ヴァネッサも、ウェイドの冗談の奥に隠された本音をしっかりと受け取っていたように思えます。これは彼ら、彼女らがしっかりとウェイドの内面を「見て」いたからに他ならないのではないでしょうか。
先ほど「レイ・チャールズのようなサングラスをかけた」と書きましたが、アルが登場しているシーンでは、レイ・チャールズの名曲「Hit The Road Jack」が流れます。
これまたちょっと意訳ですが、「そんなに酷い扱いをしないでくれよ」と歌われるこの曲、どんな時でも「ユーモア」を欠かさずに冗談を連射するウェイドの本音を代わりに歌で語らせているようにも聞こえます。
作品全体を貫くのはあくまでユーモア
レイ・チャールズのくだりで「ユーモア」という言葉を出しましたが、これも本作を語るうえで欠かせないひとつの大事な要素です。いつも楽しそうで、冗談を言って他人を笑わせて、悩みなんてまったく無さそうな、ユーモアたっぷりな人、誰しも1人くらいは心当たりの人物がいるのではないでしょうか? しかし、悩みや悲しみがまったくない人なんてこの世にいません。
では、なぜそのような人はどんな状況でもユーモアを忘れないのか? それはユーモアが悲しみや悩みを、少しだけ紛らわせてくれたり、洗い流してくれると知っているからなのです。そして、泣き続けて、悲観し続けて、世の中を恨み続けた先に何が待っているのかも、よくわかっているのです。
昨年、リドリー・スコット監督/マット・デイモン主演の『オデッセイ』という映画が公開されましたが、主人公は火星に置き去りにされて絶望的な状況の中でも、「船長が残していったテープの選曲が最悪だ!」などとボケ倒しながら、常にユーモアとジャガイモを持ち続けて、次々と起こる問題を解決していました。しかし、その「笑い」とは裏腹に、心の底では悲しい、寂しい、怖いと言った感情が隠れています。
古くはチャップリンの作品群でもそうですが、ユーモアやコメディの陰には、悲哀や哀愁、社会風刺などがこっそり隠れているんですね。
本作でも同様に、ウェイドは『デッドプール』になる以前から、常にユーモアによって自身の悲しみや孤独感、痛みを覆い隠しています。さすがに時折、表に現れることもありますが、知人とやり取りするようなシーンでは常に隠し続けています。
彼は自虐的に「俺はヒーローじゃないよ」「英雄にはなれなかった」と言いますが、何を仰ってるんですかウェイドさん。決してそんなことはありません。顔で笑って心で泣いて。悲しみや痛みを覆い隠して、周りの誰かや、それどころか第四の壁を越えて観客すらも笑わせる。スカッとさせる。これ、まさにヒーローじゃないですか。 ヒーローとは人智を越える力を用いて救世主的な行為をおこなう人物のことを言いますが、同時に社会情勢や、国家が不安になった時に、模範的人物として求められる場合もあります。
デッドプールが各国でこれだけヒットしている背景には、もしかしたら人々が心のなかで、彼のような人物を求めていたということなのかも知れません。
それがタクシー料金を踏み倒したり、目的のためには手段を選ばず好き勝手に生きたりする人物像なのか、それともユーモアを用いて自身の悲しみや痛みを覆い隠し、洗い流してくれるような人物像を求めているものなのかはわかりませんが、答えは後者であることを切に祈ります。洒落やユーモアが存在せず、冗談を言ったら怒られる世の中なんてつまらないですからね。
さて、すっかり世間は梅雨時ですが、雨が続く憂鬱な毎日だって、ユーモアを持ちながら、角度を変えて世界を見てみれば素晴らしい日々に成り得ます。トタン屋根に落ちる雨の音は素敵な音楽ですし、音もなく降る小雨が撫でたアスファルトの色も綺麗です。じめじめしていて嫌な気分の時も、気分を塞がずにユーモアを持って暮らしていれば、自然と周りも笑顔になるものです。
あ、雨の日と言えば、映画館に行くのもいいですね。偶然にも現在、素晴らしいユーモアをたっぷり持って、梅雨の鬱屈とした気分を吹き飛ばしてくれる『デッドプール』という映画が上映中です。
私もさっそく、別の角度でもう1回映画を観てこようと思います。次はどんな景色が観れるのでしょうか。今から楽しみです。
いろいろ書きましたが、難しいことは考えずとも、笑って楽しめる愛すべきバカ映画です。ぜひご観覧を。おすすめです。最後はこの合言葉で締めましょう。ありがとうございました。「ワム!」
この記事どう思う?
作品情報
デッドプール
- スタッフ
- 監督
- ティム・ミラー
- 製作
- サイモン・キンバーグ、ライアン・レイノルズ、ローレン・シュラー・ドナー
- 製作総指揮
- スタン・リー
- キャスト
- ライアン・レイノルズ
- ウェイド・ウィルソン/デッドプール
- モリーナ・バッカリン
- ヴァネッサ
- エド・スクレイン
- フランシス/エイジャックス
- T・J・ミラー
- ウィーゼル
- ジーナ・カラーノ
- エンジェル・ダスト
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