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  • 2023.09.10

セカイ系と日常系という物語は、なぜ生まれる必要があったのか──オタク的“終末の歩き方”

セカイ系と日常系という物語は、なぜ生まれる必要があったのか──オタク的“終末の歩き方”

クリエイター

この記事の制作者たち

人は、なぜか世界が終わる物語が好きだ

古くは最古の宗教と称されるゾロアスター教やアブラハムの宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)で共有される、全ての人類が善悪のふるいにかけられ天国行きか地獄行きかが決定される「最後の審判」。地上の堕落した人類を滅ぼすために神が大洪水を起こす「ノアの方舟」。善と悪の争いを終わらせるための最終戦争「ハルマゲドン」。

または、北欧神話において巨人族との戦いで主要な神が滅んでしまう「ラグナロク(神々の黄昏)」。「」と呼ばれる43億2千万年という壮大なスケールで描かれるヒンドゥー教における宇宙の終わりと創造。

末法思想」は釈迦が説いた教えが時代を経るにつれて正しく伝わっていかないのではないかというのが元来の意味だが、平安時代に疫病が流行るとともに呼応して広まっていったという点においては、これも一種の終末思想として当てはまるかもしれない。

さて、現代においても人々は世界の終わりが好きだ。スクリーンでは地球を征服しに来た宇宙人とスーパーヒーローが戦い、ゲーム機の中では人類滅亡を望む魔王を打倒すべく勇者が立ち向かい、漫画の中では悪の組織と正義の味方が異能バトルを繰り広げている。

目次

  1. 「なぜ人は、物語に世界の終わりを求めるのか?」という問い
  2. 趣味とは、他者との闘争である──
  3. 「実はすごい」が持つ魔力こそが、物語と我々を繋ぐ鍵である
  4. サルトル「人間は自由の刑に処せられている」──実存の困難さ
  5. 世界の終わりと実存の問題を1つにまとめたセカイ系
  6. 終末思想の反動としての“日常系”物語群
  7. ゼロ年代の総決算としての『まどマギ』

「なぜ人は、物語に世界の終わりを求めるのか?」という問い

なぜ人は物語に世界の終わりを求めるのか。それはたいていの物語の場合、世界が終わるという絶望の中に、一縷の希望が見いだされるからだろう。

上記の例で説明すると、戦乱や飢饉の影響で世に蔓延った末法思想(という名を借りた一種の終末思想)に対応するように台頭したのが、浄土信仰である。

自分がいつ死んでもおかしくない大混乱の時代に、南無阿弥陀仏を唱えることで極楽浄土に行くことができる元来の意味での「他力本願」の思想や、自力で修行している人はもちろんのこと、煩悩まみれの「悪人」こそを阿弥陀仏は救ってくれるのだという「悪人正機」の思想は、さぞかし民衆の希望になっただろう。

大雑把に言うと、人々は「死んでも極楽浄土に行ける」という物語を信じることで、心の平穏を保つことができた。

よって、なぜ人は物語に世界の終わりを求めるのかという問いにより正確に答えるなら、人々は日々世界の終わりを感じており、その解決策や道しるべを探しているから、である。

「最近の世界の終わり」の例は簡単に挙げることができる。世界で600万人以上の死者を生み日本などにおいては未だに蔓延し続けているコロナウイルス、世界中の文明や国家の成長とともに加速度的に低下し続ける合計特殊出生率(世界規模の少子化)、そして歯車が一つでも狂えば新たな世界大戦を招きかねないロシアによるウクライナ侵攻。

「現実の社会情勢がフィクションに影響を与えている」「流行りの物語には人々の深層心理が現れる」──こう書くと必ず「考えすぎ」「偶然」「面白いから(好きだから)物語を読んでる(観てる)のであって考察や批評を見るのすら煩わしい」という声が聞こえてくる。

そういった個人の趣味の問題と社会情勢(環境)の相互関係を研究したのが、フランスの社会学者であるピエール・ブルデューだ。

趣味とは、他者との闘争である──

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『ディスタンクシオン〈普及版〉I 』Via Amazon

ブルデューは著『ディスタンクシオン』にて、趣味という私的な領域と社会構造が密接に関係していることを、統計的に立証した。

例えばクラシック音楽について、上級階級の人々は享楽的な音楽(ドビュッシー等)を好み、中間層に属する人々は禁欲的な音楽(バッハ等)を好む。どのような絵(写真)が美しいと感じるのかについて、学歴の低い人々は重要な宗教儀式である「初聖体拝領」のようないかにもなテーマを美しいと感じ、逆に高学歴の人々はただの木の皮の写真を美しいと感じる……といった具合だ。

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パブロ・ピカソ作『初聖体拝領』

なおここでいう趣味という言葉は、英語のホビー的な意味合いとテイスト(好み)的な意味合いを両方含んでおり、その人の持つ傾向性と考えてもらってよい。そしてその傾向性を社会学用語で「ハビトゥス」と呼ぶ。

少しややこしい書き方をしてしまったが、話は単純である。ドビュッシーを聴いたところで、ドビュッシーを好むようなハビトゥスを持っていなければ、ドビュッシーを好きにはならない。そしてハビトゥスは社会や歴史、具体的には家庭や学校といった場所で構築される。教育を含めた環境そのものによって規定されるのだ。

さらに人はハビトゥスによって自分の好みを分類し、またハビトゥスによって人は分類されていく。そうしてできた同じハビトゥスを持つ者たちの集団をクラスターと呼ぶ(オタクには馴染みの深い言葉だと思う)。

自分の好きな作品や推しの凄さをアピールしたいあまり、他の作品や人を下げてしまう経験があなたにはないだろうか。ブルデューの説明に則ると、クラスター同士は自身のハビトゥスの優位性を押し付けるために闘争するもので、「趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪なのだ」とさえ主張している。なお、クラスター同士が争う場所のことを「界(または「場」)」と呼ぶ。

さて、ここで再度問いかけたい。なぜ人は物語に世界の終わりを求めるのか。それは人々の中に、世界の終わりに対するハビトゥスが培われているからである。

自己言及的だが、人々の中に「世界の終わり」に対する嗅覚が養われていなければ、そもそも「世界の終わり」というストーリー自体が流行るわけないのだ、とも言える。

「実はすごい」が持つ魔力こそが、物語と我々を繋ぐ鍵である

にしても、なぜわざわざクラスター同士は争うのだろうか。

少なくとも日本のオタク界隈では「自分の好きな作品を推すために他の作品と比較したりしない」ことが美徳とされている節があるし、ボードゲーム界隈には「Not for me」という自分の好みでない作品に対してカドを立てない表現が存在する。

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