今現在、世界を賑わせている映画作品『レディ・プレイヤー1』。
巨匠・スピルバーグがメガホンをとって、仮想空間を舞台に、80年代ゲームやアニメ、映画、音楽といったポップカルチャーがこれでもかとばかりに盛り込まれた超大作だ。映画『レディ・プレイヤー1』日本版予告 
GWも折り返し地点。何か映画でも観たいと思っている方にオススメするべく、クロスレビューに本作『レディ・プレイヤー1』を取り上げるつもりでした……が、蓋を開けてみたら意見が真っ向から割れた上に、ネタバレ不可避という事態に。
各400文字程度という指示も全員が無視……それだけ語りたくなる何かを『レディ・プレイヤー1』が持っている証しということにして、少しでも興味を持ったら今すぐ映画館に足を運んでください。
「現実こそがリアル」だとして本作は幕を下ろす。それはVRが欠かせない世の中になったとしても世界から逃避しないようにという"ゲームは1日1時間"的な教訓であり、VRに身を捧げ生涯を独身で貫いた「オアシス」の創始者・ハリデーとの対比として描かれる。
もっと言えば仲間たちがリアルでも集まっていくことについても、「身体は中国だけど、ドローンで支援物資を届けたぜ!」的な支援のほうが2045年の繋がりとして描けたんじゃないかなと思う。結局"人の繋がり"に固執するあまり、アバターの広げる可能性を切り捨てた印象だ。
「おじさんによる百合」というパワーワードも生まれているほど、そういったアバターと性が一致しない認識が広まっている。にもかかわらず、パーシヴァルのように、なりたい理想の自分を叶えるオアシスでアバターと性の同一性にそこまでの信頼をおけるものか? という疑問は沸く(高校生ゆえの青さと捉えることももちろんできるのだが)。
ガンダムとかメカゴジラとかストリートファイターとか、日本のアニメ・特撮・ゲームに登場するキャラクターやらセリフやら、いろいろ出てきてるっぽい。“っぽい”っていうのは、鑑賞中に気づけたのがごくわずかだから。
でもでも勘違いしないでほしいのは、そういうポップカルチャーの知識がなくても楽しめるってこと。だってデートムービーとして成立してるわけだからね。オタク少年が世界を救うって、救う世界の規模(仮想空間)も相まって最高に夢がある話じゃない?
ただ、1箇所気になることがあって、ラストで「VRは週に2日はお休みしましょう」ってことに決まるんだけど、ゲームやり過ぎの小学生に親が決めたファミリールールみたいで、日常というか現実世界に一気に引き戻されちゃう。個人的にはもっと仮想空間の発展的な話をしてほしかったけどね。だってさ、現実世界の重要性なんてみんなわかってるでしょ、だからこそフィクションなら、もっと夢見せてほしくない?
「現実だけが本当のリアルなんだ」というのは、もしかしたら倫理的で、正しいのかもしれません。しかし、嘘だと思います。本当にインターネットやポップカルチャー、つまり虚構を愛している人間というのは、虚構にも現実感(リアリティ)を感じることができる人のことです。今作で唯一ひっかかったのは、「オアシス」創始者のジェームズ・ハリデーや主人公が、結局は現実の女や友情を選んでしまったこと。つまりはにわかだったということです。それがむかついたし、嘘くさくなってしまったし、俺にとっては大事なことだった。以上。
確かに仮想空間上では“なんでも好きなことができる”。そしてそれが効果的に強調されるのは、楽園のような仮想空間の外には、どうにもならない現実が横たわっているからだ。
『レディ・プレイヤー1』が最高のエンタメであることは間違いないが、まさにその仮想と現実を巡る映画のラストで繰り返されるメッセージだけが、どうしても腑に落ちなかった。映画鑑賞後、すぐに原作『ゲームウォーズ』を読み耽ったものの、そのメッセージは同じだった。教訓めいたラストに、少なくとも自分は“もったいない”と思ってしまった。
筆者の敬愛する小説家の一人に舞城王太郎という人がいて、メタフィクションの手法を得意とする彼は度々作中に小説家を登場させる。その中に「フィクションでしか描けない真実がある」というくだりがある。
誤解しないでほしい。『レディ・プレイヤー1』でも、まさしくフィクションでしか描けない真実が提示されている。にもかかわらず、最後にオルタナティブ・ユニバースを単なる逃避先だったと認め自ら否定して見せるという奇妙な構造になっているように筆者には見えた。みんなはどう受け止めるのだろう? 是非、今このタイミングで映画館で鑑賞して、意見を聞かせてほしい。
挑戦者はハリデーから「本当に君は、僕みたいなやつなのかい?」と確かめられながら、彼の過去を乗り越えていく。まるでループもので、ハリデーにとっての“トゥルー・ルート”を探すみたいに。
ここで、ふと考える。「果たして、人工知能はハリデーの謎を解くことができただろうか?」と。もしオアシスをフラットに運営していくのであれば、人工知能のほうが適しているように思える。でも、ハリデーはそうしなかった。
仮想世界では、本当に“神のごとく”何者にでもなれるのか? 君が使うアバター、君の持っている欲望は、あくまで現実の君に立脚されたものじゃないのか? 結局、どこまでいっても自分でしかない自分を受け入れられれば、コンプレックスだった痣もクールなシンボルになったりする。
ハリデーは、オアシスを箱庭のシュミレーションゲームにはしたくなかった。可能世界の自分が生きていく不安定な未来と、そんな人間たちがつくっていく世界の行く先を楽しみたかったのだと思う。こんなリアリティショーじみたゲーム、きっと多くの人が楽しんでくれるはずだ。舞台は“リアルな世界”、プレイヤーはもちろん、画面の前のあなた。あとはもう、スタートボタンを押すだけだ。
(c)2018WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED
                                  
                                                  
                                
                
                                
巨匠・スピルバーグがメガホンをとって、仮想空間を舞台に、80年代ゲームやアニメ、映画、音楽といったポップカルチャーがこれでもかとばかりに盛り込まれた超大作だ。
各400文字程度という指示も全員が無視……それだけ語りたくなる何かを『レディ・プレイヤー1』が持っている証しということにして、少しでも興味を持ったら今すぐ映画館に足を運んでください。
※本稿は、作品のネタバレを含みますいまから27年後の世界。人類はゴーグル1つですべての夢が実現するVRワールド[オアシス]に生きていた。そこは、誰もがなりたいものになれる場所。無敵のヒーローやハーレークイン、キティだってなれる夢の世界! ある日、オアシスの天才創設者からの遺言が発表される――「全世界に告ぐ。オアシスに眠る3つの謎を解いた者に全財産56兆円と、この世界のすべてを授けよう」と。突然の宣告に誰もが沸き立ち、56兆円をめぐって、子供から巨大企業まで全世界の壮大な争奪戦が始まった! 果たして想像を超えた戦いの先に、勝利を手にするのは一体誰だ! 『レディ・プレイヤー1』ストーリー
編集部:ふじきりょうすけの場合
ふじきりょうすけ
「現実こそがリアル」だとして本作は幕を下ろす。それはVRが欠かせない世の中になったとしても世界から逃避しないようにという"ゲームは1日1時間"的な教訓であり、VRに身を捧げ生涯を独身で貫いた「オアシス」の創始者・ハリデーとの対比として描かれる。
もっと言えば仲間たちがリアルでも集まっていくことについても、「身体は中国だけど、ドローンで支援物資を届けたぜ!」的な支援のほうが2045年の繋がりとして描けたんじゃないかなと思う。結局"人の繋がり"に固執するあまり、アバターの広げる可能性を切り捨てた印象だ。
「おじさんによる百合」というパワーワードも生まれているほど、そういったアバターと性が一致しない認識が広まっている。にもかかわらず、パーシヴァルのように、なりたい理想の自分を叶えるオアシスでアバターと性の同一性にそこまでの信頼をおけるものか? という疑問は沸く(高校生ゆえの青さと捉えることももちろんできるのだが)。
編集部:おんだゆうたの場合
おんだゆうた
ガンダムとかメカゴジラとかストリートファイターとか、日本のアニメ・特撮・ゲームに登場するキャラクターやらセリフやら、いろいろ出てきてるっぽい。“っぽい”っていうのは、鑑賞中に気づけたのがごくわずかだから。
でもでも勘違いしないでほしいのは、そういうポップカルチャーの知識がなくても楽しめるってこと。だってデートムービーとして成立してるわけだからね。オタク少年が世界を救うって、救う世界の規模(仮想空間)も相まって最高に夢がある話じゃない?
ただ、1箇所気になることがあって、ラストで「VRは週に2日はお休みしましょう」ってことに決まるんだけど、ゲームやり過ぎの小学生に親が決めたファミリールールみたいで、日常というか現実世界に一気に引き戻されちゃう。個人的にはもっと仮想空間の発展的な話をしてほしかったけどね。だってさ、現実世界の重要性なんてみんなわかってるでしょ、だからこそフィクションなら、もっと夢見せてほしくない?
代表:わいがちゃんよねやの場合
わいがちゃんよねや
「現実だけが本当のリアルなんだ」というのは、もしかしたら倫理的で、正しいのかもしれません。しかし、嘘だと思います。本当にインターネットやポップカルチャー、つまり虚構を愛している人間というのは、虚構にも現実感(リアリティ)を感じることができる人のことです。今作で唯一ひっかかったのは、「オアシス」創始者のジェームズ・ハリデーや主人公が、結局は現実の女や友情を選んでしまったこと。つまりはにわかだったということです。それがむかついたし、嘘くさくなってしまったし、俺にとっては大事なことだった。以上。
編集長:新見の場合
新見
確かに仮想空間上では“なんでも好きなことができる”。そしてそれが効果的に強調されるのは、楽園のような仮想空間の外には、どうにもならない現実が横たわっているからだ。
『レディ・プレイヤー1』が最高のエンタメであることは間違いないが、まさにその仮想と現実を巡る映画のラストで繰り返されるメッセージだけが、どうしても腑に落ちなかった。映画鑑賞後、すぐに原作『ゲームウォーズ』を読み耽ったものの、そのメッセージは同じだった。教訓めいたラストに、少なくとも自分は“もったいない”と思ってしまった。
筆者の敬愛する小説家の一人に舞城王太郎という人がいて、メタフィクションの手法を得意とする彼は度々作中に小説家を登場させる。その中に「フィクションでしか描けない真実がある」というくだりがある。
誤解しないでほしい。『レディ・プレイヤー1』でも、まさしくフィクションでしか描けない真実が提示されている。にもかかわらず、最後にオルタナティブ・ユニバースを単なる逃避先だったと認め自ら否定して見せるという奇妙な構造になっているように筆者には見えた。みんなはどう受け止めるのだろう? 是非、今このタイミングで映画館で鑑賞して、意見を聞かせてほしい。
須賀原みちの場合
須賀原みち
挑戦者はハリデーから「本当に君は、僕みたいなやつなのかい?」と確かめられながら、彼の過去を乗り越えていく。まるでループもので、ハリデーにとっての“トゥルー・ルート”を探すみたいに。
ここで、ふと考える。「果たして、人工知能はハリデーの謎を解くことができただろうか?」と。もしオアシスをフラットに運営していくのであれば、人工知能のほうが適しているように思える。でも、ハリデーはそうしなかった。
仮想世界では、本当に“神のごとく”何者にでもなれるのか? 君が使うアバター、君の持っている欲望は、あくまで現実の君に立脚されたものじゃないのか? 結局、どこまでいっても自分でしかない自分を受け入れられれば、コンプレックスだった痣もクールなシンボルになったりする。
ハリデーは、オアシスを箱庭のシュミレーションゲームにはしたくなかった。可能世界の自分が生きていく不安定な未来と、そんな人間たちがつくっていく世界の行く先を楽しみたかったのだと思う。こんなリアリティショーじみたゲーム、きっと多くの人が楽しんでくれるはずだ。舞台は“リアルな世界”、プレイヤーはもちろん、画面の前のあなた。あとはもう、スタートボタンを押すだけだ。
(c)2018WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. ALL RIGHTS RESERVED
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