昨年7月に亡くなった永六輔の追悼コンサート「歌い、継ぐ」が、1月20日(金)・22日(日)に神奈川・KAAT神奈川芸術劇場(ホール)にて開催される。
彼が作詞を手掛けた「黒い花びら」、「上を向いて歩こう」、「黄昏のビギン」、「夢であいましょう」、「いい湯だな」など数々の名曲をこれからも歌い継いでいくことを主題とし、永六輔と名コンビと言われた作曲家・中村八大の子息である中村力丸がプロデューサーを務め、出演者には「にほんのうた」シリーズなど永作品を数多く歌ってきたデューク・エイセスや、永の孫である俳優の育之介といったゆかりの面々から、大友良英、Little Glee Monsterなどが並ぶ。
本稿では、永六輔が世に送り出した名曲の数々だけではなく、音楽業界にどのような功績を残したのかを紹介する。
職業作家が手掛けた情念を燃やした恋愛模様やドラマチックで非日常的な歌詞世界が主流であった当時の歌謡曲において、永六輔の詞は平凡な生活の一場面やささやかな幸せの風景を切り取り、誰もが共感できる言葉で民衆に届けることを念頭に置かれたものであった。それゆえに短い活動期間の中で多くの楽曲が現代まで歌い継がれているのだろう。
その中で作詞をやめるきっかけの一つとして言われているのが、66・67年頃から、高石ともやをはじめとしたフォークシンガーが関西を中心に続々と登場したことであった。
永六輔がプロの作詞家として“誰もが共感・共有できるような民衆の歌”を試みた段階から、彼らは自己表現としてさらに作詞の表現を発展させた。芸能界とは全く切り離された民衆の一人としてのアマチュアリズムから自分の考えを詞に込め、直接訴えるように歌い出したのだ。そんな自作自演のスタイルは今後の音楽の主流になるだろうと永は予見し、彼らに託したのである。
そこからはラジオと文筆に軸足を移して、民衆と繋がることを晩年まで続けることとなる。しかし唯一、その後生涯のほとんどを通して続けることとなった音楽面での活動がある。
それが作詞家としてのタスキを渡した高石ともや、高石のグループ「ザ・ナターシャー・セブン」のマネージャー榊原詩朗と共に行った「宵々山コンサート」の主催だ。京都祇園祭の時期に合わせて円山公園野外音楽堂にて行われた野外コンサートで、1973年から2011年の第30回目で幕が引かれるまで開催された(85年~94年は休止)。
68年、中川五郎の詞に曲を乗せて発売した「受験生ブルース」のヒットも手伝ってアングラフォークの中心人物となり、69年には高石音楽事務所内に今で言うところのインディレーベルURC(アングラ・レコード・クラブ)を立ち上げてシンガーたちが続々とデビューしていくが、この直後の69年12月に高石は音楽活動を停止し、その後のフォークシーン/ムーヴメントから一歩距離を置くこととなる。
一般的には全日本フォークジャンボリー(通称:中津川フォークジャンボリー)が行われた69年から71年にかけてムーヴメントとしてのフォークは最盛期を迎え、メッセージ性の強いプロテストフォークから吉田拓郎(当時:よしだたくろう)らの登場により、徐々に社会性が希薄となり大衆化。また、はっぴいえんどらを起点としてロックへと発展・多様化していくが、高石はフォークのルーツやトラディショナルな面を追求することに注力。71年に「ザ・ナターシャー・セブン」を結成し、73年の第1回宵々山コンサートを迎えることとなる。
関西の野外コンサートとしては大阪で71年に福岡風太らが立ち上げた春一番コンサート(1971~79年、1995~現在も継続)がすでにあった。ザ・ディラン(大塚まさじ、西岡恭蔵、ながいよう)、中川五郎、高田渡、加川良、中川イサト、友部正人らURCと関わり深いシンガーたちを核とし、特に72年の第2回は音楽事務所”風都市”の協力もありはっぴいえんどやはちみつぱいも出演していた。次第にフォークがムーヴメントからニューミュージック化していった70年代、春一番は一貫してウッドストックや中津川の精神を受け継ぐかのごとく、硬派に自分たちの鳴らすべきフォーク・ロック・ブルースを追求し続けた野外コンサートであった。
一方で宵々山コンサートの企画にあたって、73年時点でフォークブームも円熟期に達している中、永がすでに最前線にいるとは言えなかった高石とタッグを組んだのは、永の作詞家としての後年である65年から69年にかけて、作曲いずみたく、歌唱デューク・エイセスで取り組んだ「にほんのうた」シリーズが大きいのではないだろうか。
47都道府県の風情を織り込んだご当地ソングの製作に取り組み、このプロジェクトから結果として「いい湯だな」や「女ひとり」といったヒットソングも生まれているが、レコード会社主導のヒットソングをつくる行為とは切り離し、「自分なりの新しい日本の歌」をつくろうとする試みは、フォークムーヴメントの先頭にいながらメジャー化する前にいち抜け、自らの追い求めるルーツ・フォークに向かった高石の姿勢と共通し馬が合ったのではないかとも想像できる。
そんな宵々山コンサートの最大の魅力は高石の呼ぶフォーク界隈と、永の人脈から招集する出演者がごった煮で出演することであった。高石の人脈からは石川鷹彦、杉田二郎、自切俳人=きたやまおさむから、1981年には高石はもちろんなぎら健壱など、日本のフォーク、カントリーミュージシャンに多大な影響を与えカントリーの基礎をつくったともいえるカーターファミリーの来日出演も実現している。
一方で永が招集したであろう面々としては、第1回に永とは10代の頃から親交があるという渥美清が出演している。その他1985年に一旦中断するまでに出演した主なゲストを上げると桂米朝、黒柳徹子、坂本九、ミヤコ蝶々、赤塚不二夫、淀川長治、谷啓・安田伸(クレイジーキャッツ)、タモリ、笑福亭鶴瓶と豪華な面々に目を惹かれるが、じっくりと歴代出演者を眺めていると、永の長いキャリアの中で出会った才人を有名無名に関わらずフックアップして呼んでいる。
また開演30分前から永が前説がてらに話すのもお馴染み。そこで次に登場する演者や、古今東西の歌にまつわるエピソードなどが披露され、このコンサートこそが永の芸論・音楽論に触れる貴重な機会であったことがわかる。
現在の音楽フェス文化の発展は言うまでもなく、今の音楽シーンの最先端となっている一方で、宵々山コンサートは長年続いてきた中で日本の素晴らしい歌を歌い継ぎ、守り、時には掘り起こす作業を行ってきた。その点は特異であり重要な側面だったことにも最後触れておきたい。
1995年の第15回目、永は「仰げば尊し」や「蛍の光」が若者に伝わらなくなってきたという話をし、いい歌は守らなければならないと三上寛を呼び込み、ギター伴奏で「仰げば尊し」を会場全員で斉唱した。今回の追悼コンサート「歌い、継ぐ」では永が宵々山コンサートにかけたそんな思いを引き継ぐかのように、永が作詞家として残した曲こそが日本の素晴らしい歌として数々の演者によって演奏される。そんな点でも注目だ。
彼が作詞を手掛けた「黒い花びら」、「上を向いて歩こう」、「黄昏のビギン」、「夢であいましょう」、「いい湯だな」など数々の名曲をこれからも歌い継いでいくことを主題とし、永六輔と名コンビと言われた作曲家・中村八大の子息である中村力丸がプロデューサーを務め、出演者には「にほんのうた」シリーズなど永作品を数多く歌ってきたデューク・エイセスや、永の孫である俳優の育之介といったゆかりの面々から、大友良英、Little Glee Monsterなどが並ぶ。
本稿では、永六輔が世に送り出した名曲の数々だけではなく、音楽業界にどのような功績を残したのかを紹介する。
作詞家・永六輔の魅力とその引退劇
ラジオパーソナリティ、放送作家、舞台監督、随筆家…多岐に渡る永六輔の活動の中で作詞家の一面にスポットを当てた企画コンサートであるが、彼が作詞に精力的に取り組んでいたのは1959年から66年までのたった7年間であり、その後1969年には完全に身を引いている。職業作家が手掛けた情念を燃やした恋愛模様やドラマチックで非日常的な歌詞世界が主流であった当時の歌謡曲において、永六輔の詞は平凡な生活の一場面やささやかな幸せの風景を切り取り、誰もが共感できる言葉で民衆に届けることを念頭に置かれたものであった。それゆえに短い活動期間の中で多くの楽曲が現代まで歌い継がれているのだろう。
その中で作詞をやめるきっかけの一つとして言われているのが、66・67年頃から、高石ともやをはじめとしたフォークシンガーが関西を中心に続々と登場したことであった。
永六輔がプロの作詞家として“誰もが共感・共有できるような民衆の歌”を試みた段階から、彼らは自己表現としてさらに作詞の表現を発展させた。芸能界とは全く切り離された民衆の一人としてのアマチュアリズムから自分の考えを詞に込め、直接訴えるように歌い出したのだ。そんな自作自演のスタイルは今後の音楽の主流になるだろうと永は予見し、彼らに託したのである。
そこからはラジオと文筆に軸足を移して、民衆と繋がることを晩年まで続けることとなる。しかし唯一、その後生涯のほとんどを通して続けることとなった音楽面での活動がある。
それが作詞家としてのタスキを渡した高石ともや、高石のグループ「ザ・ナターシャー・セブン」のマネージャー榊原詩朗と共に行った「宵々山コンサート」の主催だ。京都祇園祭の時期に合わせて円山公園野外音楽堂にて行われた野外コンサートで、1973年から2011年の第30回目で幕が引かれるまで開催された(85年~94年は休止)。
永六輔の音楽への功績は、数々の楽曲だけではなかった
ここで永六輔とコンビを組んだ高石ともやのキャリアを簡単に見ておくと、60年代後半からステージに立ち始め、67年彼に目を付けた秦政明と共に高石音楽事務所を設立。ここに岡林信康や中川五郎、五つの赤い風船といった関西フォーク勢から、高田渡や遠藤賢司など東京からも続々とフォークシンガーたちが集まることとなる。68年、中川五郎の詞に曲を乗せて発売した「受験生ブルース」のヒットも手伝ってアングラフォークの中心人物となり、69年には高石音楽事務所内に今で言うところのインディレーベルURC(アングラ・レコード・クラブ)を立ち上げてシンガーたちが続々とデビューしていくが、この直後の69年12月に高石は音楽活動を停止し、その後のフォークシーン/ムーヴメントから一歩距離を置くこととなる。
一般的には全日本フォークジャンボリー(通称:中津川フォークジャンボリー)が行われた69年から71年にかけてムーヴメントとしてのフォークは最盛期を迎え、メッセージ性の強いプロテストフォークから吉田拓郎(当時:よしだたくろう)らの登場により、徐々に社会性が希薄となり大衆化。また、はっぴいえんどらを起点としてロックへと発展・多様化していくが、高石はフォークのルーツやトラディショナルな面を追求することに注力。71年に「ザ・ナターシャー・セブン」を結成し、73年の第1回宵々山コンサートを迎えることとなる。
関西の野外コンサートとしては大阪で71年に福岡風太らが立ち上げた春一番コンサート(1971~79年、1995~現在も継続)がすでにあった。ザ・ディラン(大塚まさじ、西岡恭蔵、ながいよう)、中川五郎、高田渡、加川良、中川イサト、友部正人らURCと関わり深いシンガーたちを核とし、特に72年の第2回は音楽事務所”風都市”の協力もありはっぴいえんどやはちみつぱいも出演していた。次第にフォークがムーヴメントからニューミュージック化していった70年代、春一番は一貫してウッドストックや中津川の精神を受け継ぐかのごとく、硬派に自分たちの鳴らすべきフォーク・ロック・ブルースを追求し続けた野外コンサートであった。
一方で宵々山コンサートの企画にあたって、73年時点でフォークブームも円熟期に達している中、永がすでに最前線にいるとは言えなかった高石とタッグを組んだのは、永の作詞家としての後年である65年から69年にかけて、作曲いずみたく、歌唱デューク・エイセスで取り組んだ「にほんのうた」シリーズが大きいのではないだろうか。
47都道府県の風情を織り込んだご当地ソングの製作に取り組み、このプロジェクトから結果として「いい湯だな」や「女ひとり」といったヒットソングも生まれているが、レコード会社主導のヒットソングをつくる行為とは切り離し、「自分なりの新しい日本の歌」をつくろうとする試みは、フォークムーヴメントの先頭にいながらメジャー化する前にいち抜け、自らの追い求めるルーツ・フォークに向かった高石の姿勢と共通し馬が合ったのではないかとも想像できる。
そんな宵々山コンサートの最大の魅力は高石の呼ぶフォーク界隈と、永の人脈から招集する出演者がごった煮で出演することであった。高石の人脈からは石川鷹彦、杉田二郎、自切俳人=きたやまおさむから、1981年には高石はもちろんなぎら健壱など、日本のフォーク、カントリーミュージシャンに多大な影響を与えカントリーの基礎をつくったともいえるカーターファミリーの来日出演も実現している。
一方で永が招集したであろう面々としては、第1回に永とは10代の頃から親交があるという渥美清が出演している。その他1985年に一旦中断するまでに出演した主なゲストを上げると桂米朝、黒柳徹子、坂本九、ミヤコ蝶々、赤塚不二夫、淀川長治、谷啓・安田伸(クレイジーキャッツ)、タモリ、笑福亭鶴瓶と豪華な面々に目を惹かれるが、じっくりと歴代出演者を眺めていると、永の長いキャリアの中で出会った才人を有名無名に関わらずフックアップして呼んでいる。
また開演30分前から永が前説がてらに話すのもお馴染み。そこで次に登場する演者や、古今東西の歌にまつわるエピソードなどが披露され、このコンサートこそが永の芸論・音楽論に触れる貴重な機会であったことがわかる。
永六輔「いい歌は守らなければならない」
そんなあらゆる自作自演家が一堂に集うことの面白さに目を付けた野外コンサート、いわば今でいう音楽フェスを40年以上前に永は始めていた。永六輔が日本の音楽界に残した功績は数ある楽曲だけではなく、現代の音楽フェスの先駆けとして「宵々山コンサート」も影響を及ぼしたと言えるだろう。現在の音楽フェス文化の発展は言うまでもなく、今の音楽シーンの最先端となっている一方で、宵々山コンサートは長年続いてきた中で日本の素晴らしい歌を歌い継ぎ、守り、時には掘り起こす作業を行ってきた。その点は特異であり重要な側面だったことにも最後触れておきたい。
1995年の第15回目、永は「仰げば尊し」や「蛍の光」が若者に伝わらなくなってきたという話をし、いい歌は守らなければならないと三上寛を呼び込み、ギター伴奏で「仰げば尊し」を会場全員で斉唱した。今回の追悼コンサート「歌い、継ぐ」では永が宵々山コンサートにかけたそんな思いを引き継ぐかのように、永が作詞家として残した曲こそが日本の素晴らしい歌として数々の演者によって演奏される。そんな点でも注目だ。
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峯大貴
音楽ライター兼新宿勤務会社員25歳。
関西音楽メディアki-ft構成員(http://ki-ft.com )。
CDジャーナル、OTOTOY、BELONG、Skream!などで執筆。
掲載情報は以下tumblrにて。
minecism.tumblr.com
Twitter:@mine_cism
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