Column

  • 2023.12.09

『ちいかわ』論 ポスト・ヒューマニズムな現実に人間性を取り戻す「三」の法則

『ちいかわ』論 ポスト・ヒューマニズムな現実に人間性を取り戻す「三」の法則

クリエイター

この記事の制作者たち

ちいかわ』と聞いて、あなたは今や街中の至るところで見かける、キャラクターたちの姿を思い浮かべるだろうか。それとも、SNS上で日々更新される、漫画作品(と、そのアニメ化)の内容を思い出すだろうか。

ストーリー漫画としての『ちいかわ』は、従事するのに資格が必要な「草むしり」や、自分の身体よりもはるかに大きな生物に命をかけて挑まなければならない「討伐」によって日々の糧を得る主人公たち「ちいかわ族」を労働者のメタファーとして読解されることがままある。彼らの暮らす作品世界は、私たちが生きる資本主義社会のメタファーだ、とも。

一方、そうしたシビアな世界観を抜きにマスコットとして消費されている側面もあり、そもそもストーリーを追っていない人の存在もSNS上で多数報告されている(「グッズから入った友人がストーリーも追うようになって絶句した」のようなエピソードを目にすることは日常茶飯事だ)。

しかし、こうした二面性が交わらないまま「共存」できているからすごい、とただ言うのでは、このひらがな四文字の指す対象が社会現象とも言える人気を博していることの本質を捉え損ねてしまうと、筆者は思う。

世界観の奥深さとマスコットとしての親しみやすさ、『ちいかわ』におけるこの二つの性質は、作者・ナガノの持つ「キャラクター=モノである」という透徹した視線により、表裏一体のものとして結びついているのだ。

以下、『ちいかわ』と括弧で囲った場合は漫画・アニメのタイトルおよびキャラクターグッズとしての展開(作品名)を、括弧なしで単にちいかわ、と表記した場合はキャラクターの固有名詞を指す

目次

  1. 『ちいかわ』のポスト・ヒューマニズム性
  2. 「キャラクター=モノである」という、ナガノワールドの原則
  3. プラットフォーム資本主義の「入れ子構造」から『ちいかわ』を読む
  4. 複数の視点による転回──『ちいかわ』とパースペクティヴィズム
  5. 主要キャラクター(ちいかわ・ハチワレ・うさぎ)が「三人組」である意味
  6. 二分法の外側で思い留まることの重要性
  7. 『ちいかわ』は日常に流通することで、現実を組み替え続ける

『ちいかわ』のポスト・ヒューマニズム性

2023年3月14日~11月26日の期間SNS上で連載された長編エピソード「島編」の最終盤に明かされた、「人魚の肉を食べると単三電池で動く身体になる」という設定は、それまでのミステリ展開の真相解明とはまた違った意味で多くの読者に衝撃を与えた。

「今後電池で動くちいかわグッズが出たときに、こいつらは人魚を食べたのだ、という妄想が捗るな」といった内容の投稿を、エピソードの完結直後に目にした。大したブラックジョークだが、確かにそんな風に冗談めかさなければ直視するのが難しいほど、殺人という後ろ暗い行為のスティグマと、『ちいかわ』グッズを思い起こさせる「お尻に電池の入れ替え口がある」というファンシーな意匠は、結びつきにくいものだった。

しかし、ナガノのこうしたポスト・ヒューマニズム的とも言える作家性は、「島編」で突然表れたものではない。

謎の老婆により人形に変えられてしまう通称「なんとかバニア」化に始まり、見つめた者を石に変えてしまう怪異「拾魔」による石化、あるいは『もぐらコロッケ』シリーズにおける「食べ物がモチーフのキャラクター」同士が行う身体損壊=共喰いなど、キャラクターを物理的な「モノ」として扱うことに躊躇のない傾向が随所に見られるのだ。

それぞれのモノとしての質感は視覚(テクスチャ)的にも、また擬音表現によっても執拗に描写されており、単なる嗜虐趣味と片づけるには説明のつかないフェティシズムを感じさせる。

「キャラクター=モノである」という、ナガノワールドの原則

そもそもキャラクターグッズとは、あくまでもフィクション上の存在であるキャラクターを現実の中に招き入れるための物理的な依代であり、またそれを買うという行動は、キャラクター「本人」に真に触れることは叶わないと知りながらあえて行う、いわば代償行為である。

しかし、『ちいかわ』をはじめとした「ナガノワールド」においてはキャラクター=モノだから、そのグッズはある意味で「(それがちいかわのグッズなら、ちいかわ)本人」なのである。

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現代でモノを消費することの意味を捉えたナガノワールド