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3.新作『騎士団長殺し』はどんな作品?

3-1.『ねじまき鳥クロニクル』と似ている!?

原稿用紙換算枚数2000枚相当の小説であるため、『騎士団長殺し』の大筋を述べるだけでも割と大変だ。

しかしその物語の要素を拾っていくと、「穴」、「第二次世界大戦」、「夢の中での性交」、「死んだ妹」……などなど、過去の村上春樹作品で使われたモチーフが多々あらわれてくる。

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『ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編』/画像はAmazonより

特に「穴」という重要度のめちゃくちゃ高い素材が『ねじまき鳥クロニクル』で重要な役割を果たした「井戸」とあまりにも重なってしまうため、この作品と非常に似ているという印象を持った読者も少なくないだろう。

実際、主人公が容易に関わりを持つことのできない「巨大な悪」ともいうべきもの(=戦争)と否応なく接触してしまうという物語構造を見ても、やはり『ねじまき鳥クロニクル』との無視できない類似を見てしまう。

3-2.結局ハルキはいつも同じじゃないの?

新作を読むにあたって一番気になるポイントはここじゃないだろうか?

そして実際にネット上では、『ねじまき鳥クロニクル』を始めとする他の過去作品との類似を理由に、自己模倣をしているだけだというレビューをよく見かける。

たしかに過去作との類似は多い。しかし本当に単なる自己模倣なのだろうか?

オリジナリティーについて言及した前章では、「村上春樹は作品系譜をつくり上げることに自覚的な作家」だと述べた。そのため、この作品の類似は過去作で考えきれなかった問題を考え直していると考えるのが自然だ。

そこで『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の作品構造を「家」を使って分類してみる。すると以下の表のようになる:

REre1c516a1ad862258257ed39cfac8423bc 両者とも非常に複雑で雑多なエピソードを抱えているため、 必要最低限の記述にとどめたが、両者の類似のなかでも特筆すべき差異は、『騎士団長殺し』では小説という「家」の地下に「メタファー通路」という固有名詞が与えられ、明確に地上と切り離された書かれ方をしているという点である。

『ねじまき鳥クロニクル』では、井戸の中から主人公があらゆる世界に接続され、物語が語り手である「僕」の肉体を超えていくような筆致で描かれており、一般に言われる「『ねじまき鳥クロニクル』第3部の難解さ」はここにあるように思われる。

『ねじまき鳥クロニクル』では徹底した物語の洪水とも言える手法で示されていたものを、『騎士団長殺し』では雑多な世界への接続のプロセスそのもの(=「メタファー通路」)を具体的に描くことに注力されている。

そしてこの「メタファー通路」とは、彼の作品の基盤をつくる「メタモルフォーゼ」がどのようにして起こるのかというプロセスと一致する。

そしてその扉を開くために「イデア」と「メタファー」の関係性を非常に詳細に描いているというのが『騎士団長殺し』という作品で村上春樹が新たに取り組んだ内容だ。

ここでは「イデア」と「メタファー」についての解題は割愛するが、『騎士団長殺し』では村上春樹作品の重要なテーマでもある「メタファーとは何か」という根本的な問題から村上春樹は問うている。

作中で「それはほんとうに起こっている」という言葉で半ば直接的に言及されているのだが、このことは、 「メタファー」の一般的な意味である暗喩(比喩表現の一種)、つまり表現技巧を指すものでない、ということを示している。つまり村上春樹作品での「メタファー」とは技巧ではなく、認識の問題なのだ

この魂でありメタファーをめぐる小説の語られ方というのは、過去の村上春樹作品で何度も繰り返されてきたものだ。しかし『騎士団長殺し』では、そのプロセス自体が小説の中心に据えられている。その点で過去作とは大きく異なっている。

『ねじまき鳥クロニクル』で描けなかった「地下」への経路を主題に描いたという点において、『騎士団長殺し』は村上春樹が現時点で産み落としたもの、には違いない。

非常に抽象的な記述になってしまっているが、『騎士団長殺し』を読み進める手が止まりそうになったら、考えるヒント程度にはなるかもしれないので、他の多くのレビューを読んで躊躇している方がいたら、手にとってほしいと思う。

4.個人的な感想

私が考える、村上春樹の魅力

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『騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編』/画像はAmazonより

以上、非常に長くなってしまったが、村上春樹の新作『騎士団長殺し』を読むために知っておいて損はないだろうことを挙げてみた。

私個人として思うのだけれど、村上春樹の規模で広大かつ重厚、そして切実な問題を、小説という手法を用いて表現できる作家は世界でもそんなに多くないとおもう。

たしかに世界には村上春樹と同等かそれ以上のとんでもない作品を書く作家は、読破するには一生じゃ短すぎる程度にはいるけれど、その絶対数は決して多くはないだろう。

そして、これだけの分量を書くとまるで私が「ハルキスト」であるようにどうも見えてしまうけれど、個人的にはそうじゃない。たしかに村上春樹は好きだけれども、それとおなじくらい好きな作家もたくさんいる。

山下澄人もずっと好きだったし、木下古栗のような無意味とも思える下品なギャグしかいわない作家も愛おしいし、海外ではガルシア=マルケスやロベルト・ボラーニョのような野生的な想像力に圧倒され、グレッグ・イーガンの精巧なハードSFに目がくらみ、イアン・マキューアンのクレバーで冷徹な筆致に戦慄をおぼえ、トマス・ピンチョンやリチャード・パワーズが描く世界に言葉を奪われた。

作家の名前を列挙して読書家アピールをしたいわけではない。この世界には、村上春樹と同等に読まれるべき作家がまだまだたくさんいるのだと、私は声を大にして言いたいのだ

そしてより多くの作家が黙殺されるのではなく、多くの読者の思考にさらされ、批評家以外のいわゆる「一般読者」によりしかるべき評価を下されるべきなんじゃないか、と。

ちなみに私が村上春樹を好きな理由は作品規模もそうだけれど、やっぱりシンプルに笑えるからだ

たとえば『騎士団長殺し』の序盤、「私」が車で放浪しているなか、車が故障してしまう。しかし近くに気のいい修理工がいて、故障車を処理してもらうシーンがあるのだが、そこでこんな一文があらわれる。

車を処分してもらうお礼に、テントと寝袋とキャンプ用品はその修理工に進呈した。村上春樹『騎士団長殺し』より引用

いらねぇよ。マジでいらねぇし、つーか「進呈」とかいってるけどお前もいらねぇんだろ。反射的にそう思えて笑えた。

きっとベランダの蜘蛛みたいに世界でだれも気にも留めない文章だけれども、この「いらねぇ」感はおそらくハルキ的ジョークとして意図的に笑いを狙っている。そしてこういうユーモアは作品主題という「イデア」や、世界を動かす暴力的な「システム」からも逃れた自由さがある。

メタファーが作品の前面に現れ出すと、すべてのものが記号化し、物語は読者中で謎解きの様相を帯び、全体が息苦しく自由を奪われてしまう。けれども、こういったささいな笑いはメタファーに世界が生け捕りにされてもなお自由だ。

ふだん「読者としてこうありたい!」みたいな意識の高いことは考えないけれど、私はこういったちいさな文章でいちいち笑えるような読者でありたいと思う。

ハルキストとアンチの両方にいいたいことがあるとすればそれだ。村上春樹にはそういう自由がある。

メタファーと「ポスト・トゥルース」

そして、最後になったが、現実の世界との関係性について個人的に感じたことを述べたい。

「メタファー通路」をくぐり抜けることで、すべてのものが「意味」の様相を帯び、世界にはあらゆる「意味」が氾濫するようになる。客観的事実でさえも歪めてしまう強く幻覚的な事象があらたな「イデア」となり、「メタファー」を呼び、それはやがて真実にとって変わられる。「私」のメタモルフォーゼにより、相対的に世界もまたメタモルフォーゼを遂げ、それは連鎖的に発し、なにもかもをまったく別のものに変えてしまう。

これが、村上春樹が一貫して描き続けてきた物語だ。彼にならった口ぶりでいえば、「良いことかもしれないし、悪いことかもしれない」。無数の「家」の地下は「メタファーの通路」で繋がれる。

そしてその現象は昨年、「ポスト・トゥルース」(post-truth)という言葉で現実のものとなりはじめた。

「ポスト・トゥルース」とは昨年英語辞典のオックスフォードが「今年の単語」に選んだ言葉であり、その意味は「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものよりも影響力を持たない状況」だ。

イギリスがEUから脱退し、アメリカではトランプ政権が発足した。人々が知性を否定し、共感で結ばれた群衆が既存のシステムに対抗しようとしている。現在はまさにひとつのイデアが絶命し、現実以上に現実であろうとするメタファーが生まれた瞬間なのかもしれない

人々の感情が論理を超えて、何かを変えていく。そしてそれは新しい正義なのか、それとも破滅的な悪霊なのかはわからない。その判断は我々の手に委ねられている。

文学が人の人生や世界を良い方向へ導くかどうか、正直わからない。小説が究極的には「なくても困らないもの」と言われてしまうのは仕方がないことだろう。

「事実は小説より奇なり」とはいうが、それは「現実」が「小説」を上回った存在であることを意味しているわけではないと思う。本来、「現実」と「小説」は比較のできないものなのだ。

小説はフィクションでしかないけれど、フィクションという特別な力学が働く場所でしか考えられないことは非常に多い。そこで培われた想像力が現実に還元されることだってあるし、それは決して無意味なものなんかじゃない。

今、我々が生きている現実は、想像の世界と非常に近い位置にある

現実以上に現実であろうとするメタファーと向き合うために、我々は想像力によって拡張された物語という現実へ飛び込んでいくだろう。どんな物語だってかまわない。実際に絵を描いてみるのもいいし、台所でロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹きながらスパゲティーをゆでている男を深い井戸の底にぶちこむのだって悪くない。

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若布酒まちゃひこ // わかめざけまちゃひこ

フリーライター

1986年生まれ。物理と数学に魅了され科学者を志し大学院博士課程に進学したものの単位取得中退。その後コミュ障なのに広告代理店(リクルート系)で営業となり、田舎の個人事業主のおっちゃんが漏らす「この世の理不尽」を一身に受け止める。現在は退職し、フリーライター。文芸批評や科学解説が中心。

運営ブログ:カプリスのかたちをしたアラベスク
Twitter: @macha_hiko

若布酒まちゃひこ

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著者 : 村上 春樹
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価格 : 1,687円(税込み)
販売元 : 新潮社

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