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村上春樹『騎士団長殺し』を楽しく読む方法 あるいは「ポスト・トゥルース」について

小説とはたとえるならば「家」のようなもので、一階にはエントランスやロビーなどのひとびとが集う場所がある。二階にはリビングや個室などのプライベートな空間があって、小説というのはそういう建築物だ。

しかし、家には暗く、光のささない暗い地下室がある。そこにはその家で暮らすひとびとにすら忘れ去られてしまったがらくたや古い記憶が雑多に放置されている。

地下に潜らなくても小説は成立するけれど、しかし名作と呼ばれる作品はかならずこの地下室をちいさな光を頼りに潜っていく。村上春樹の公開インタビュー「魂を観る、魂を書く」より筆者覚え書き

村上春樹がこのようなことを言っていたのを、2013年、京都大学で行われた講演会「魂を観る、魂を書く」で私は聞いた。

この講演会は「河合隼雄物語賞・文芸賞」を記念してのもので、上に挙げたような発言は、彼がもう故人となっていた心理学者・河合隼雄との対談でかつてなされた話題だったという。

私は当時まだライターではなく学生で、その発言のメモをとってなかったということもあり、上記について細部はあやふやで申し訳ないのだが、ともあれこのようなことが彼の口から話されたことはまちがいない。

2月に、村上春樹の書き下ろし長編『騎士団長殺し』が発売された。

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『騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編』/画像はAmazonより

内容や本の装丁は非公開で、上下巻合わせて130万部刷られ、発売前日の夜にはNHKで特番が組まれるなど、(ありがちなことをいえば)出版不況が叫ばれる昨今では異例の盛り上がりであることはまちがいない。

なぜこれほどまでに「たかが一作家の新刊が出た」だけで盛り上がるのかという疑問をおそらく多くの方が抱いているだろうとおもう。そしてその盛り上がりがほんとうに「作品の価値」に見合うものなのかといぶかるのも無理はないとおもう。

この記事では、新作長編『騎士団長殺し』を通して、「村上春樹」がどのような作家なのかということを考えてみたい。

最初にいってしまうと、この小説は「村上春樹」の創作論に関するものだ。過去作で使用されたモチーフが利用されながら物語は展開し、そして第1部と第2部の副題にあらわれる「イデア」、「メタファー」といったものへと向かっていく。

例えば、村上春樹を知る読者にとっては『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の類似点がネガティブに挙げられがちだが、何が「致命的に」異なるのか。それも紐解いていきたい。

そして『騎士団長殺し』をはじめとする他の作品群を読むにあたっても、最初に挙げた「家」と「地下室」というメタファーを軸にすることで見通しはずいぶんと良くなる。

※本稿では、『騎士団長殺し』の一部ネタバレを含みます

執筆:若布酒まちゃひこ 編集:新見直

目次

1. なぜハルキが読めないのか?
 1-1.ハルキ的ギャグ
 1-2.村上春樹の描く「孤独」
2. 村上春樹のオリジナリティー
 2-1.作家のオリジナリティーとは?
 2-2.村上春樹の作風とは?
3. 新作『騎士団長殺し』はどんな作品?
 3-1.『ねじまき鳥クロニクル』と似ている!?
 3-2.結局ハルキはいつも同じじゃないの?
4. 個人的な感想
 4-1.私が考える、村上春樹の魅力
 4-2.メタファーと「ポスト・トゥルース」

1.なぜハルキが読めないのか?

1-1.ハルキ的ギャグ

村上春樹という作家の大きな特徴のひとつに「アンチが非常に多い」ということがあげられる。

村上春樹にかかわらず、一定以上の評価を得た作家は必ずファンと同数程度のアンチも抱えているが、「村上春樹嫌い」の読者は(筆者の印象で申し訳ないのだが)主に以下の2つの理由によるものがあると思われる:

1.伏線らしきものが回収されない、抽象的すぎて物語が理解できない
2.登場人物のスカした茶番がウザい(共感できない)

1については、冒頭で引いた春樹が言うところの「家」の地下(=後述するが、『騎士団長殺し』でいうところの「メタファー通路」)への移行がうまく行えないということになるだろう。そして『騎士団長殺し』はその課題の解決自体を主題としているようにも読める。

問題は2である。はっきり言って、私自身、このウザさは常々感じているし、新作『騎士団長殺し』でも健在だ。

彼の小説の主人公や、主人公たちと関わりあう人物はみな「なんかオシャレ」で「生活水準が低くなく(むしろ高い者も少なくない)」、「教養に富んだ会話」をしている。

『騎士団長殺し』でもそういった人物造形は健在で、なんかいちいち主人公も近所の金持ちもババアも愛人もみんな車のエンジンに詳しいし「この音はジャガーにしか出せない」とかいってみたり、かと思えば「能書きを並べると、ずいぶん長くなりそうだ。でもワインの能書きを並べるのが、私はあまり好きじゃありません。何によらず効能書みたいなものが苦手です。ただのおいしいワイン——それでいいじゃないですか」などと一周回った達観をおっしゃられたりするのが一周回ってウザい。

ウザいのはいい。私個人として、これらは「ハルキ的ギャグ」だと思っているのでむしろ笑えるし、そこまで気にならない。しかし、「このスタンスがあまりにも【自分と違う】ために共感できない」というレビューがネット上で散見される。

つまり、「家」でいうところの玄関でつまずいている

小説の扉を開くと、そこには価値観が違いすぎる外国人が独特のノリでウェイウェイやっていて、それに引いてしまい、とりあえず「家」の中をうろついてみても、特に関心のない人物たちのものを見てみてもなんの興味もそそられない。

「独特のノリの、知らない外国人みたいな日本人の地下の物置に興味を持てますか?」と聞かれると、確かに難しいかもしれない。どうせスパゲッティの湯切りザルでも転がってんだろ、くらいにしか思えない。明らかに人を選ぶ。

1-2.村上春樹の描く「孤独」

また、とりわけ「共感」が村上春樹の好き嫌いについて重要なポイントになってしまうことの原因に、彼が描いているのが「孤独」であることが挙げられるだろう。

「孤独」と聞いて、少なくとも私は非常にプライベートな問題を、そして同時にだれの心にも潜む普遍的な問題を思い浮かべる。それはおそらく多くの読者もそうなんじゃないか、と思っている。

そのため、いかなる形であれ「孤独」というものが丁寧に描かれれば、全く異なる生活を送る人にも通ずるものが必ず生じてくる。

しかしネット上のレビューなどを見てみると、村上春樹が描く孤独に対し、一定数の読者は「生活の異なる人間との共通点」を見出すどころか、むしろ「登場人物と自分の決定的な違い」を感じてしまう傾向にあるらしい。

言い換えるならば「こんなものは孤独でもなんでもない。ファッション孤独だ!」といったところだ。

恋人がいない、友だちもいない、金もない、世界に対して現実的な息苦しさで窒息しそうだという読者の叫びと、村上春樹の「孤独」には遠い隔たりが存在している。

ここで、個人的にあまり考慮すべきではないと思いつつも、村上春樹の二十代についての邪推をしてみる。

彼は早稲田大学に進学したものの、全共闘の時代で、大学が閉鎖されるなどの混乱期に上京した。そして在学中に借金をして喫茶店を構えたわけだが、おそらく村上春樹は現在のアンチを含む多くの読者よりも実生活上の苦境に立たされていたのではないか? おそらく、多くの日本国民よりも経済的・将来的な不安を抱えていたのではないだろうか?

たぶん、その経験をもとにすれば、多くのアンチが求めているだろう「恋人がいない、友だちもいない、金もない、世界に対して現実的な息苦しさで窒息しそうだ」という叫びに直接的に答える物語を書くことは容易だろう。

しかし、もしほんとうに彼がそれを書いたとして、それがほんとうに面白いものであるとは到底思えない、と私は思う。

もちろん、そういうものを書く作家がごまんといるから、という理由もある。しかし、彼の作家としての持ち味はユーモラスな想像力にある

深刻なものを深刻に、つらいものをつらいものとして書くのは実はそんなに難しいことじゃない。むしろ、深刻なものやつらいものを、ユーモアを交えて軽く書く方が圧倒的に難しい。

そして「難しいもの=価値のあるもの」ではもちろんなく、「重さと軽さの両立」には類まれなる想像力と洞察が必要になってくる。重さと軽さが物語内に同居するからこそ小説が自由になる。

こう考えると、(繰り返すがあくまでも筆者の想像であるが)苦難の多い二十代の終わりに村上春樹がB級アメリカンコメディみたいな(褒めている)中編小説『風の歌を聴け』を書いたというのはなかなか涙ぐましいものを感じる。

つまり、村上春樹が描いているとされる「孤独」は、実生活に伴う具体的な苦しみではない。

むしろあらゆる形をとる「生きづらさ」の根源──まさしく「家」の地下に沈んでいる形以前のものであると私は考えている。

2.村上春樹のオリジナリティー

2-1.作家のオリジナリティーとは?

ここで村上春樹の作家としての作品系譜について述べたい。

村上春樹は自身のエッセイで、特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶためには以下の3つを満たす必要があると明言している:

1.ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。

2.そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。時間の経過とともにそのスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に留まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。

3.その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなくてはならない。あるいは後世の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。村上春樹『職業としての小説家』より「第四回 オリジナリティーについて」p.99-100

ここでは特に2について考察したい。ちなみに1に関しては前章で言及した「ユーモア」のことになり、3について、究極的には村上春樹が死んでみないとわかりそうにない。

2は言い換えると「いかに独自の作品系譜をつくり上げるか」という問題になる。そして村上春樹はそのことに対して極めて自覚的な作家だ。

彼の長編小説に対して、「過去の長編、短編小説や翻訳を通して得たものを結晶化させる場」という印象を強く受けるのはまさにこの自覚のためであり、そしてそれはモチーフ──井戸や配偶者との別れ、夢の中での性交──の反復という形で露出する。

2-2.村上春樹の作風とは?

村上春樹の作風とは何なのだろうか?

ネットで調べてみると、おそらく多くの人が抱えている彼の作品のイメージは、「中の上〜上の下くらいの生活水準にあるファッション孤独をキメながら、釣れた女とあっさりセックスして、なにやらオシャンな話をしてからのやれやれ」というものが多いように思える。

そしてそれはあながち間違いでもない。

そしてそれは「一目見て村上春樹だ」とわかるレベルのものであり、彼自身が挙げる「作家のオリジナリティーの条件」の1に合致する。しかし、それはあくまでも「特徴」であり「作風」とは言えないだろう。

というのも、「やれやれ」は彼の描く物語から見れば細部であり、核心ではないからだ。言うなれば「家」の一階ではあるものの地下ではない。村上春樹という作家は「家の地下」を本質とする作家だからだ。

村上春樹の物語を支える重要なキーワードは「メタモルフォーゼ(=変身)」だ。そしてこれは言うまでもなく、村上春樹が強い影響を受けたというフランツ・カフカの小説『変身』に見られる物語構造を指している。実際にこの作品をまずは見てみよう。

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フランツ・カフカ『変身』(新潮文庫)/画像はAmazonより

『変身』では、ある朝グレゴール・ザムザが目覚めると虫になっていた、という強烈な不条理から物語が始められる。そして親しい仲であった家族が虫になったザムザに対して露骨な嫌悪感を示し、彼は最後には家族に見捨てられて死んでしまう。

この小説で重要なのは、「いったい何が致命的に変わってしまったのか」ということだ(この「致命的」ということばも『騎士団長殺し』で重要なことばになる)。

ザムザは、姿こそ変わってしまったが人間としての精神、あるいは魂と呼びうるものは、朝目覚めた時点では変わってなどいない。

しかし、家族はそれまでのザムザとはまったく違う存在として接する。魂にとっては外的要因に過ぎない肉体の変化が、ザムザという存在を根本的に変えてしまったのだ。

これを踏まえて村上春樹作品を開いてみる。たとえばデビュー作『風の歌を聴け』にはこんな一説がある。

14歳になった春、信じられないことだが、まるで堰を切ったように僕は突然しゃべり始めた。何をしゃべったのかまるで覚えていないが、14年間のブランクを埋め合わせるかのように僕は三ヶ月しゃべりまくり、7月の半ばにしゃべり終えると40度の熱を出して三日間学校を休んだ。熱が引いた後、僕は結局のところ無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になっていた。村上春樹『風の歌を聴け』

ここではまさに、先に挙げた『変身』でザムザに起こったこととおなじことが起こっている。

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村上春樹『風の歌を聴け』(講談社)/画像はAmazonより

つまり、14歳になった、40度の熱が出たという外的要因(=不条理)をきっかけにして「僕」の存在(魂=イデア)が別のものへとつくり変えられてしまった(=メタモルフォーゼ)という現象だ。

村上春樹の作品には、大小様々な規模でこの現象が何度も発生する物語構造をとっている。これを駆使して「家」の地下へ潜ろうとする運動こそ、村上春樹の作風と呼べるものだろう。

村上春樹の物語で「なにが起こっているか」を知るためには、このふたつと、そしてそれらを合わせたものがどう機能するかを整理しておくと見通しがよくなる。そして、村上春樹の作品群は、この物語構造を反復的に使うことにより、自らの作品系譜をひとつなぎのものとしている。

そして『ねじまき鳥クロニクル』と『騎士団長殺し』の差異は、この機能の具体性にある。

『ねじまき鳥クロニクル』では、主人公の「僕」と実際に出会った妻のクミコや綿谷ノボル、間宮中尉、笠原メイ、加納マルタ・クレタといった登場人物の物語と交感が行われるだけでなく、例えば異なる時空に存在した第二次世界大戦の戦場での皮剥ぎボリスの物語まで「僕」は受けとる。

その大規模な交感に「難解さ」が生じている原因として考えられるのが、不条理とメタモルフォーゼが機能する特別な場所への経路が明示されていなかったからだ。

あるいは、読者が、そこが「家」の地下である、ということに気づくには難しすぎる、という課題。

一方、『騎士団長殺し』ではその経路そのものを主題に置いた。それは、いかに「メタファー通路」の入り口を見つけるか──すなわちいかにして「家」の地下へ降りていくか、ということである。

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