組織と孤独──『シン・仮面ライダー』が伝えたかったこと
『シン・仮面ライダー』はそれぞれ家族を奪われて、理不尽な形で家族を奪われた人間が、最終的に何をしたかというと、過去と向き合って、自分自身と折り合いをつけるという話なんです。
つまり、家族や恋愛とは違う、別の絆によって魂を継承させましょうっていう物語だったはず。
ルリ子は原作版でもテレビ版でも、基本的に本郷猛と恋愛関係を仄めかしていた。でも今回は「私たちは恋愛じゃないです」とはっきり宣言していたし、一文字(隼人)も、本当にポッと出てきて、何の関わりも必然性もないけど彼に託すことになった。けどこの映画ではそれで良くて、むしろそれがテーマだった。
もう一歩踏み込むと、ショッカーはよくわからん目的を抱えてたじゃん。人類を幸せにしたい。そのために不幸な人をショッカーにしましょう、みたいな。
実はショッカーは弱者の集団でもあった。あそこで描かれていたのは、中央集権的な権力としての政府や自分を肯定できる仮面ライダーと、自力では幸せになれない人たちとの戦いなんだよ。
ちょっと待ってください。たしかにそれは作中でも言ってるんですけど、それがちゃんと物語として立ち上がってきているかは疑問です。にいみさんが深堀りして、批評しているから今、現れているのであって。
俺もその部分の作劇は失敗してると思う。ただ描こうとしたテーマはきっとそこにあったんだろうなと思った。
仮面ライダーはいつも一人なわけだよ。最後のセリフも原作と全く一緒なんだけど、仮面ライダーはいつも一人で、最後は魂を継承したことによって二人になった。
社会からは逸脱してるけど、彼らは強いから仮面ライダーという個の存在として孤高でいられる。逆にそうじゃない弱い人たちは、群れるしかない。
なるほどね。たしかにそれは現代的なテーマかもしれないです。ただ、そもそも今回の仮面ライダーは、孤高っていう感じすらしなかったよね……。
……あんまりしなかったね^^;
なぜかというと今作では社会風俗がほとんど描かれていなくて。改造人間やショッカーではない、あるいは政府や警察ではない一般ピープルたちが全く出てこない。
みんながみんな異端で、異端のパレードで、異端の登場人物しか出てこないから、別に友だちというか、理解者になれそうな奴、たくさんいるじゃん! と思ってしまった。
ここが結構「仮面ライダー」作品としては致命的な部分だと思うんですが、どうでしょうか。
それもわかる。ただ「仮面ライダー」において強者はある種の逸脱者だし一人きりだというテーマは色濃かったという話なので、その部分を受け継ぎたかったのだとは思った。
そうですね。例えば『寄生獣』はかなり『仮面ライダー』に影響受けてると思うけど、人じゃなくなってしまった自我と社会の狭間でどう向き合って生きていくか、みたいなテーマがよく言われる。
それはダークヒーローのスタンダードとなるテーマになったけど、今なお「仮面ライダー」の通底的な主題になってるはず。
平成・令和ライダーでも、絆については、色々の方向性からアプローチを試みてると思うけど、根底にはそのテーマがありますよね。
裏を返すと、要するに自分自身と向き合えない人は、弱いから群れるしかないよねってことにもなる。
でも、なんかそれを伝えてどうすんだっていう気持ちにならない? そのテーマだとしたら。
庵野から「俺は孤独だよ」「お前らは凡人だから、群れるしかないな」みたいなテーマを伝えて、分かってもらってどうするんだろうって思いました……
どうなんだろう、ただ道を拓いていく人間は孤独だ、というのは凡庸かもしれないけど普遍的なテーマだとも思うよ。
『シン・仮面ライダー』の主人公に強い目的意識は基本なくて、ルリ子さんを守るとかで。その理由も不明瞭で。行動的にも、警察に敵を発見してもらって、そこに行って来いっていう感じで──命令されて動いてる人なのよ、今回の仮面ライダーって。
組織人ってことですね。
そう、組織の中の1人の存在なんです。だから孤独とか孤高とは、違ったニュアンスとして受け止めていて。
政府側の人間に対して「お前らを好きになる努力をしてみるよ」みたいなことも言ってたじゃないですか。孤独という印象とは程遠いですよね。
仮面ライダーって、基本的に政府とか警察とかと別の意志であるっていうのは、かなりシリーズ通して描かれていて。自分で会社経営してる人とかもいたけど、基本的には一人でやってくみたいなスタンスなんです。
警察とは別の組織みたいで、『仮面ライダードライブ』とかは警察の管轄だったけど、それはかなり特殊な例で。やっぱり別組織として書かれることがめちゃくちゃ多いから、今作はすごくめずらしい設定なのは間違いないです。
異端で、孤独なヒーローであることが、「仮面ライダー」の仮面ライダーとしての最大のアイデンティティなのは間違いなくて、その一番大事なところが描けてないと思う。
そういう意味で、初代『仮面ライダー』ファンの人たちが絶賛してるという話も、単純に意味がわからないです……^^;
うちの夫は、その孤高さが全くなかったって。「孤高で、悲しみを抱えて、かっこいい1号はどこへ行っちゃったんだろう」ってずっと言ってたよ。
うーむ。漫画版を最後まで読むと、ショッカー側の目的が明かされるんだけど。
やっぱり電子頭脳がラスボスで、ショッカーが電子頭脳で人間を管理しようと思ったきっかけはそもそも日本政府が個人を数字化して管理する計画を立てていて、その計画を換骨奪胎した、という。つまり、ショッカーと政府がやろうとしてることは実は直結してるよね、みたいなオチだった。
だから『シン・仮面ライダー』で孤独を書こうとしたにしては、仮面ライダーを体制側につけてしまうのは歪な構図だなとは思っています。
そうだね……でも描こうとはしていたのかな。なんか、孤独とか孤高というより……陰キャではあったよね、主人公は。
それはそうですね。
庵野の作品への裁量というか、作品への影響力が上がってるんじゃないかっていう話ですけど。今回もセリフ回しとか、すごく古かったじゃないですか。「ところがぎっちょん」とか言ってたじゃないですか。
あれはいつもの……謎に昭和的な台詞を入れてくる遊び心なのかな……?
それこそ庵野成分が100パーセントになっちゃってて。組織に属しながら活動するヒーローというのも、『シン・ゴジラ』でもやってるし「エヴァ」でもやってるし、『シン・ウルトラマン』でもやってて、今回も組織にいる。
庵野の趣味や嗜好性がフルに出すぎてしまっていて、その点でにいみさんが言ってたテーマとは、ちょっとコンフリクトしちゃったんじゃないかなと。
おそらくああいうセリフ回しが、庵野なりの「ちょけ」なんだと思う。深刻にさせすぎないための演出というか。
なるほど。
「シン・シリーズ」ってそもそも、現実の今の地球にいる防衛軍とか自衛隊とかっていうのと、ヒーローたちがもし接続してたら、みたいな設定でやってると思うんですよ。
そこは別に、庵野の趣味とかじゃなくて、『シン・エヴァ』を除くシン・シリーズは、「現実の日本にもしもウルトラマンやゴジラがいたら」みたいな世界観なんだと思います。だから別に政府とつなぐこと自体は、そんな悪手ではなくて、単純に作劇が下手だったって思ってしまいました。
じゃあなんでウルトラマンと自衛隊は一緒に戦わなかったんですか! 俺は『シン・ウルトラマン』でウルトラマンと現代日本の自衛隊が共闘する熱い展開に期待してましたよ!
ウルトラマンといえば、自衛隊的なものと一緒に戦うのが見所だったもんね。 まあちょっと『シン・ウルトラマン』を深堀りすると終わらなくなるので、やめときましょう。
先ほどから喋りたがっているよねさん、どうぞ。
さっき、『シン・仮面ライダー』は孤独じゃないっていう話をしたんですけど、むしろ逆のこと言わせてもらいます!
急に意見変えるマン出てきた!
組織に属してても、孤独だったり──孤独っていうか、無理解、周囲とうまくいかないとか、ギクシャクするみたいなことは、往々にしてあるんですよね。そういう意味では、主人公は本当に無理解を象徴したようなキャラクターだった。
見てる側としてもそうだし、多分外から見てても、「こいつ何考えてるんだろうな」って思われてたはずです。その辺の葛藤とか苦しみみたいなのは、もうちょっと描かれても良かった。そこがあったら、警察の命令で動いている設定とかも、納得というか、物語が救われたんじゃないかなとも思っています。
そうですね。それこそ、にいみさんが言った通り、物語から完全に感情移入させないつくりだったのが、完全に悪影響になってるというか。
たしかに。『シン・ウルトラマン』は、まだウルトラマンっていう異世界から来た宇宙人であることと、あの無機質なウルトラマンのキャラクターデザインがハマっていた。内面が描かれない必然性があった。
今回は、改造人間ではあるけれども、「仮面ライダー」という等身大のキャラクターではあるからどうしても内面を描かなきゃドラマになり得ないと思うんだけど、それはそもそも庵野秀明の作風とは食い合わせが悪いよなとは思う。
異形であり、ヒーローであると同時に人間臭さみたいなものが同居しているのが、「仮面ライダー」の魅力の一つではありますからね。
だから俺は、ドラマをもう捨てて、アクションに走ったんだと思った。そのアクションも、現場で揉めに揉めた結果、想定していたクオリティを出せなかったらしいけども……!
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連載
その時々のエンタメ業界に現れた覇権コンテンツについて編集部が議論する連載。コンテンツ自体はもちろん、そのコンテンツが出てきた背景や同時代性、消費のされかたにも目を向け、ネタバレ全開で思ったことをぶつけ合っていきます。
2件のコメント
匿名ハッコウくん(ID:8229)
全然ダメでしょ。
結局、自分が見たいものじゃなかったという話しかしていない。
というか、ほぼ同じ意見の人どうしで話をするなら一人でいい。
同じ意見だから、互いの意見にツッコミも入らない。
座談としても、つまらない、できが悪い。
シン仮面ライダーという作品が、何をどう描こうとし、具体的にどう描かれているかという話がまるで不十分。オーグを倒す度に、本郷が彼らに黙祷を捧げることの意味や、単なる組織の殺人マニアかのように見えるクモオーグの人間性をKKオーグが語ること。母を持たないルリ子が母を失ったことで苦悶するイチローと同じ写真の中に居たかったというSF的な設定とシナリオの高度な連携。
冒頭コミュ障だと言われる本郷が、ルリ子の本心を察することで描かれる繊細さ等々、そうした丁寧な表現の積み重ねの上で世界の平和や人々を守るのではなく、むしろ守られなかった、傷つき排除された存在を救う物語が描かれる。そこにはライダーも含まれる為に最後の的はライダー0号を名乗るわけでしょう。
本郷の姿を見守るケイの存在にも言及がないし。
特撮映画だからといって、一般の映画評論についてなされるような最低限のシナリオの分析と評価はされたうえで、座談のようなことはされるべきだよ。
折角、賛否両論ある映画の座談をやろうというのなら、双方相当の理解があった上で、真っ向意見をぶつけられるようなやり方をすべきでしょ。
匿名ハッコウくん(ID:7455)
面白い記事でした
確かに特撮を復活させる!みたいな作品ではなかったと思います
シン・ウルトラマンとシン・仮面ライダーは、どちらかと言うと昭和特撮を復活させる!昭和特撮の良いところを知って欲しい!みたいな思惑の方が強いんじゃないかなと思ってます
洗練され常に新しい試みが続いてるウルトラと仮面ライダーシリーズは、蓄積していく中で削られていったものが確実にあります
そこに再度スポットライトを当てようとしていたような感じがするのです
古臭いよね、ダサいよね、そう思えるようなところにこそ
そこがいいんだよかっこいいんだよと本気で庵野秀明は思っている
シン・仮面ライダーが深く刺さった自分の戯言かもしれませんが笑